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日々の破片

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2025-08-23

_ 感情、表徴、情念

歌舞伎町の王城ビルでゴダール展。

歌舞伎町には何度も足を運んだことがあるが、王城ビルというものの存在すら気づいていなかった。戦後に作られてフーテン時代を経て雑居ビルとなり右は呑み屋?(最初、こちらの入り口に入ろうとしてなんか違うとなった)、左はギャラリースペース(というよりも元の店子の扉はそのままに内部だけがらんどうにした多階空間)となっている左側。

建物の写真を見て名曲喫茶かなぁと思ったのは、今はなき駿河台の名曲喫茶のイメージからだろう。実際の扉を見ると呑み屋っぽかったりいろいろだった。

階段は手前と奥の2か所があり、最初は手前の階段を上った。

奥の階段はおもしろく、2階から目の前を降りた人が戻って来るので?と思ったらスタッフ以外立ち入り禁止の張り紙がしてある。が、どう見ても開いているので入ったら、トイレ(他の階にはなかった)や喫茶スペース、売店があって、すごい罠だと思った。

ところどころに適当に椅子が置いてあるので、適当に腰を下ろして張り巡らされた布に映し出される映画(イマージュの本)を眺めたり、モニターに映し出される映画(イマージュの本、というか、素材はイマージュの本なのだ)を眺めたり、ところどころに置かれている本を読んだりしながら、イマージュの本という映画を体験するインスタレーションとなっていた。

すさまじく刺激的なのは、椅子がばらばらなので、観客なのかスタッフなのか区別がつかないことも一つの要因だ(が、すぐに、手前から奥へ向かう右手が階段、左が崖(元の営業時はカウンターの壁があったのではないか? すべての階に共通)の左から観客が落ちないように見張っている以外にスタッフは基本いないらしいことに気付く)。

部分が全体で全体が部分というプリブラム的脳みそ(脳のホログラム理論ってトンデモとして葬り去られたのかな)とか、寺山修司の人は世界すべてを体験できないとか、サイコロふって出た目で本を読ませるマラルメとか(翻訳本がさり気なく置かれていたり)、じっくり見ても良く、駆け足で上から下まで瞬間体験でも良いし、生まれて初めての自由な映画体験だった。

イメージの本(字幕版)(ジャン=リュック・ゴダール)

初見かと思ったら、2019年に観ていて「マラルメ風の偶然性作品」と感想を書いていた。つまり、映画館で観るよりも、王城ビルでの展示のほうが望ましい観方なのだろう。

刺激を受けまくって帰路についた。


2025-08-22

_ 宿題

アッバス・キアロスタミ(おれさまが選んだ20世紀映画監督ベスト3に入る大巨人)の1989年の映画『ホームワーク』(『宿題』としたほうが邦題としては完璧ではないか?)がアマプラ無料期間中だったので妻と観た。

大巨人の映画だけに実におもしろかった!

大体観ているはずだがユーロスペースで連続上映時(にかかったはず)に見逃した一本ぽいので初見だ。

『ホームワーク』はドキュメンタリーでキアロスタミが子供の宿題を見ていて感じた疑問を調べるために、近所の小学校へ行き、宿題をしてこなかった子供にインタビューする(途中、親2人のインタビューもある)というものだが、そこはキアロスタミ、どう見ても作りに作っている。

たとえば最初の通学風景では撮影スタッフに通りすがりが、おれも映画に出たいから出させてくれと言い出し、いやこれはドキュメンタリーなんだからそれはできない、なんのドキュメンタリーなんだ、これこれこういうわけで宿題についてのドキュメンタリーだと説明する。

ドキュメンタリーではないだろ、どう考えても。

ドキュメンタリー(その場で映像に写し取る)というフレームワークを守るために、通りすがりとの対話を通して、この映画が一体なにかを観客に説明するための仕掛けだ。

明らかに20世紀最大の映画作家だけに、すべての構図が完全で、すべての役者(さすがに素人のはず)もばっちり、シナリオ(大雑把には作っているはず)はおもしろく、しかもキアロスタミらしい底意地の悪さが滲み出る傑作だった。

だらだら子供が嘘をつくのを撮影しているだけに見せかけてまったく弛緩なく、ユーモアたっぷり、しかも底意地悪く、ホームワークの矛盾を抉り出す。

それにしても、見れば見るほど、イラン革命は大成功だったと思える。

それは1974年の処女作のトラベラー(後で書く)の学校風景と比べれば一目瞭然、全体に経済と知識の底上げが見られる。

(事実、イラン革命後に就学率(小学校の!)がダダ上がりしている)

ただ、1989年の映画ということは、まだ革命後10年しか経過していないだけに、宿題に見られる矛盾と混乱も大きい。

どうも宿題で大きな問題(要はやってこない子供が多過ぎる)となっているのは、書き取りの宿題なのだ。

誰か家族のものに課題を読みあげてもらって、それを書き写す。

それだけの課題なのだが、

・母親は文盲(パーレビー時代に女性が学問するとか小学校レベルですらあり得ない)

・父親の多くも文盲(パーレビー時代に育ったわけだし)かまたは仕事(仲間との談笑タイム含む)で帰宅が遅い

・下手すると兄も文盲(革命後10年なので歳が近い兄は文盲ではないものの、さらにひどい状況だったわけで書き取りそのものが大してできない)

・姉がいればどうにかなることも多い

・年上の兄貴がいればどうにかなることもあるが、パーレビー時代の教育方法と違い過ぎて齟齬ありまくり

・などなど

家族が文盲なら、書き取りの宿題できるわけないじゃん(一応、子供たちはそれなりに工夫をしていないわけでもなさそうだが)。

ちゃんとできる子もいて、大体服が良い。要は中流上以上の家庭だと両親ともに読み書きできるから、基本母親が面倒みられるのでOKっぽい。

その他、算数について、登場する父親が算数は得意だからみてやろうとしたが、教科書の内容が全然違うから無理だったと言い出す。(多分だが、パーレビー時代の算数は加算と減算くらいしか教えなかったのではないか?)

最初に出て来る父親は一瞬出羽守? と思える、欧米では知識詰め込みではなく創造性教育をしている。一方我が国(イラン)では……と始まるが、とんでもない話だった。というのは、続けて、知識偏重といえば最も過酷なのが日本で、確かに優秀な子弟を輩出していはいるが、やはり創造性の欠如が問題となっていて、現在見直し中だと言い出すからだ。わかってるじゃん(1989年)。

で、日本はその後「ゆとり教育」に舵をきるわけだが、いずこも同じで、イランと同じく(理由と方向は異なるが)教師と周辺環境(教育産業)の問題で、本来の目的とは明後日の方向へ進んで撃沈してしまったわけだ。

で、それはそれとして、ここまで世界各国の教育について滔々とよどみなく語る素人の父親などいるはずがないから(と観ていて思うわけだが、実はイランのインテリ側はものすごい可能性も無いわけではない)、ドキュメンタリーではないとわかるわけだが、おそらく阿部進とかカバゴンとか佐藤忠男とかいうような名前の人物なのではなかろうか。

1989年のイランの小学校の問題点は、家族が基本文盲だということを、インテリたる教師が無自覚(あるいはどうにも手が出せない可能性もある)なことのようだ。

そのほか、教師に暴力を振舞われ過ぎて異常を来している子供(常にふらふら揺れ動く(のだが、歌を歌うときだけまっすぐになるから、子役の可能性があるぞ)とか、出て来る子供たちが良い味出しまくっている。

全員、「アニメと宿題、どっちが好き?」に対してすぐさま「宿題!」と答えるのは、あーアラビア語圏だなぁという感が満載でこれまたおもしろい。

というわけで、抜群におもしろかった!

あと、我が国が誇る体育会問題と同じ構造が出てきて思わず気分が悪くなったが、ある子ども(比較的優秀っぽい)との会話。

「親がきみに与える罰は?」

「殴る」

「いやかい?」

「もちろん。殴るのは最低だ」

「OK。君が大人になって子供ができて、その子が宿題をしなかったとする。どうする?」

「殴る」

「殴るのは最低じゃないのか?」

「……最低だ」

「君の子供が宿題をしなかったらどうする?」

「殴る」(ばかもの! とベルトで殴りつけ(のがデフォルトらしい)たくなるぞ)

それともう一点、出て来る子供の内、親が文盲系について

「罰として殴られるとして、ご褒美は?」

「ご褒美って何?」が圧倒的に多い。信賞必罰のうち、信賞が欠如している家庭が多いのだなぁ。

ちなみに、ご褒美が拍手という子供が2人いた(親が文盲ではない家。こんなところに教育格差)。

その他、下の階の兄が……というのがあって、「下の階って?」というところで、上の階にはその子の母親(第2夫人)、下の階には別の母親(第1夫人)とか、あーイスラム教国だったと思い当る(ある子は兄弟が自分含めて5人、姉妹が5人とか言い出して、すげぇ子だくさんと思ったが、夫人が最大4人いるのだから十二分にあり得るわけだな。と思ったら、翌日に見た『風が吹くまま』で主人公が間借りしている下の階の女性が男5人、女5人を産んだことになっていたから、1人でも十分にあり得るのかも。15歳から25歳まで毎年とかかなぁ)。

印象的なやり取り、もう1つ思い出した。

「アニメは見るの?」

「見ない」

「テレビは見ないの?」

「ニュース」

「ニュース?」

「スポーツニュースとか」

「昨日は見た?」

「見ないで宿題した」

「昨日の試合はすごかったね」

「うん、最高だった」

ホームワーク(アッバス・キアロスタミ)


2025-08-17

_ 1793, 1794, 1795

この数日、頭痛で寝込んでいたので薬が効いているときに積読消化で2023年に購入したらしいKindleの1793~1795を読んだ。凄まじい作品だった。

舞台は主にスェーデン王国の首都ストックホルム。時代は表題通り。

ヴェルディの仮面舞踏会でお馴染みのグスタフ3世暗殺から数年、摂政配下の宰相による独裁政治が繰り広げられている。彼の目的はフランス革命の余波が及ばないように宮廷人である自分の地位と財産の保持しかない。そのため、市民の安全を守ることを旨とする警察署長の更迭を虎視眈々と狙っている。

そこに目、耳、歯をすべて破壊され、四肢を切断された死体が見つかる。生きている間、数カ月以上にわたってその状態にされた死体だ。このおぞましい猟奇殺人を解決するために、労咳病みの法律屋と片腕義肢の廃兵がコンビを組んでストックホルムの闇の世界を渉猟する。というのが1793年。続く1794以降も残虐な殺され方をした死体の謎を追ってコンビが駆けずり回る。うなる木製義肢(当たると殴られた相手の前歯が吹っ飛び、鼻の骨がへし折れる)。

謎解き探偵小説ではないので、すべては明らかだが、政治的圧力と周囲の偏見の中、どうやって犯人にたどり着き、政治のために司法が捻じ曲げられている状況下でどう犯人に落とし前をつけさせるか、がミステリー作品としての目的となる。が、それはそれほど本作の主眼ではない。とはいえ、特に廃兵に異様なほど過酷な運命を背負わせているだけに、解決に近づいた時のカタルシスのようなものが無いわけでもない(とはいえ、カタルシスは無いなぁ)。

3作あるが、作家本人は1作目が当たったので続編として1794と1795を書いたようだ。というのは、1作目に好ましい陰影をつけまくっている主人公(2人いる。バディものなのだ)の労咳病みの法律屋が作中なんども繰り返し記述されているように病死してしまうからだ。

2作目以降どうする? というのが1794での最初の興味なのだが、いきなり田舎貴族の無能な次男坊(15歳)が、厨二病をこじらせ過ぎて植民地(西インドのサン・バルテルミー島)に勉強のために送り込まれる手記から始まる。

ここで、なんとなく3部作化するにあたっての横糸が見えたように思う。

1793年の白眉のひとつは当時ハイティーンだった男の革命下のパリ滞在記だ。それと同時に同じくハイティーンの男(田舎からストックホルムに出て来たが享楽に身を持ち崩していく)の地獄めぐりの書簡集。

1794年が、当時ミドルティーンの男の植民地滞在記。スェーデン支配下時代のサン・バルテルミーの奴隷労働についてこれでもかこれでもかの描写が続く。

1795年になると視点がローティーン(というよりも8~9歳くらいでは?)の文盲の子供なのでそれまでの一人称ではなく、三人称記述になるが主観描写が子供のものとなる。ここでは舞台はストックホルムそのものとなり、腐敗した汚物が層をなした湖沼群の悪臭の中を貧困層の生活をユーモア抜き(一瞬、ユーモアがないわけでもないレミゼラブルを想起したわけだが、気候の差が大きな差となっているようだ)にこれでもかこれでもかと描写していく。

と、どんどん世代を若くしているが、いずれも読んでいて、ばかーなにやってんだーと大人の読者が思わず叱り飛ばしたくなる間抜けなミスをしまくる(作者がもしかして、読者も語り手同様に意味を取れていないかな? と不安になるのか、たまに後から説明していたりもする)。またその程度の知性なので見聞きしたものの描写が実に表面的な一方裏の意図なしに正確に見える。

この構造はおもしろい。語り手を5歳ずつ若くするのは、1793年の語り手をたまたまハイティーンにしたからだとは思うが、主観の知的能力をうまく書き分けている。作者はただものではない。

物語そのものは陰湿であり、ほとんど救いの欠片もなく、特に1795の最期の何人もいる主人公のうち一人の過酷な未来には暗澹たる気分となる(もしかすると、救いの手があるのかも知れないような濁し方はしている)。一方、街を逃げ出す主人公にはささやかな希望がないわけでもない。

北欧歴史ミステリー(ニクラス・ナット・オ・ダーグ)


2025-07-29

_ ルサルカ

ルサルカを観にバイエルンシュターツオパー。

14年前に新国立劇場で観て以来になる。

ちょっと以前の日記を読み返してみたが、相当演出は異なるようだ。

まず森の精が水の精をからかうと書いていたが、最初水小鬼(water goblinと翻訳されていたが小鬼ではないな)はバーバと一緒に湖畔の部屋にいる。が、その地下で水の精たち(森の精なのか?)がいて乱暴狼藉を働く(水の精だと思ってみていたのだが、カーテンコールに謎の半裸の男が出てくるので、実は乱暴狼藉はそっちで水鬼が途中で射殺したのがそっちかも。

とはいえ水鬼にルサルカが人間になりたいと言うと殴り倒して説教をくらわすから、どうも家父長制の権化のようにも見える(ルサルカは英語翻訳ではfatherと呼んでいる)。

この水鬼はとにかく狂暴、強圧的で料理人を殺すところも情け容赦ない。

もしかして、そういう野蛮なコミュニケーションの自然界と、ソフィスティケートされた人間界のコミュニケーション(にルサルカはついていけない)の対比を演出したかったのかも知れない。

演奏はとても良い。指揮のエドワードガードナー(エリックの息子なのか?)は精妙(というか、これまで聞いてきてバイエルン国立管弦楽団の演奏は実に緻密だと感心しまくっている)でライトモチーフがわかりやすい。

ルサルカのグリゴリアンはもちろん素晴らしいのだが、考えたら2幕は最後に歌うだけ、3幕もほとんど歌わないと、歌わない役はもったいない! と思う反面、うろうろしているだけで感情表現ができる(というかわかる)からこそのルサルカとも思う。そもそもグリゴリアンが目当てでルサルカを選んだのだったから、大満足である。あと、カーテンコールでやたらと飛び跳ねて元気いっぱいアピール(ということもないのだろうが)がかわいい。

王子のブレスリク(と読むのかな)は実に良いテノール、魔女ダメラウもうまいし、水鬼も、料理人2人もいずれもとても良い。

なんか以前観た印象でところどころ美しいが全体としては退屈という印象があったのだが、ものすごくおもしろかった。


2025-07-28

_ ラインの黄金

ラインの黄金を観にバイエルン国立劇場。

指揮のユロウスキーという人は全然知らないが現在の監督らしい。精妙できれいな音を作る。

演出が抜群に良い。きわめて正攻法な物語通りの演出なのだが衣装や舞台設定が巧妙に現代化されている。

いかにも麻薬の取引に使われそうな裏通り、チンピラ風のアルベリヒがうろうろしているところにラインの乙女登場。なんだかよくわからないが、気功を使って物を吹き飛ばして遊んでいる。アルベリヒも吹き飛ばされる。

黄金はヘロインかなぁ。地面の下に隠してある。

一方、天上ではパイプ組の工事現場の3階でヴォータンが寝ている。まあ、誰一人としてまっとな生活者には見えない。

ファフナーファーゾルト登場。なぜかまともな黒い服を着ている。施行主に土下座。この馬鹿丁寧な土下座演出は何度も繰り返されるので、そのうち場内に笑いをもたらす(というか、おれも笑わせられた)。

上下黒のスェットに身を包んだローゲ登場。このローゲは抜群。パニカーという人。落ち着きなく目配りよく、やたらとタバコをふかしまくる。金のリンゴをタッパーに入れて持っているので、少しヴォータンに与えて生気を取り戻させる。

フリッカが黄金の指輪の話に目を光らせて割り込んでくるところは会場が笑いに包まれる。ドイツ語ネイティブではない(字幕読解の落差がある)おれも思わず笑ったわけで、演出の妙味が光り輝いている。とにかくこの演出は演劇的にも抜群(役者=歌手もうまいわけだ)なのだ。

ローゲとヴォータンのニーベルンゲン紀行は途中からビデオ映像になる。むちゃくちゃおもしろい。ヴォータンは槍や兜をとられて背広に着替えて、二人で飛行機に乗る。ニーベルングはニューヨークなのかなぁ。

帰りの飛行機で行きにはリンゴが入っていたタッパーにカエルが入っている。隣の乗客(3人掛けなので、ヴォータンとローゲはエコノミーに乗っているわけだ)にカエルを見せる嫌がらせをしまくる。入国管理というか税関でカエルが没収されそうになって言い合いになる。くだらないがおもしろい。

教会の会堂のような場所でアルベリヒは全裸にむかれて(カエルだったのだからそりゃそうだな)、徹底的に貶められ、汚され、拷問される。

フレイアが隠れる高さではく、フレイアはギャングの抗争っぽく首を吊られて、足元に台として(首を吊られなくても済む)黄金を積み上げる仕組みとなっている(が、黄金ではなくよくわからない包みになっているからやっぱり麻薬なんだろうな)。当然、そういう仕組みだから頭巾や指輪は量の問題ではなく内容の問題として要求されるように読解される。

エルダ登場。レームクールと読むのかな? すごい人で、圧倒的な説得力ある歌唱で、ヴォータンが指輪を手放したり後から襲いに行ったりするのもむべなるかな。この人は凄い。

ヴァルハラは聖壇(アルベリヒを拷問した会堂)で、中央にヴォータンが鎮座する。

ローゲは愛想を尽かして去る。

とにかく演出の妙味が冴えわたっている。歌手ではヴォータンのブラウンリー(と読むのかな)も素晴らしいが、とにかくローゲとエルダが素晴らしかった。ローゲに僕が求めるのはこういう軽さと身のこなしで、以前ビデオで観たエレールと双璧のローゲだった。

楽しかったなぁ。

ハープ4本は2(1?)階バルコニーの左右に分散。

カーテンコールで子供が出てきたが、いったいどこにいたのだろう? ビデオの中に出てきたような気がするのだが、思い出せない。。

とにもかくにも演出(と、それをこなした舞台作家、映像作家、衣装作家、歌手=役者)の大勝利で、演出家はクラッァーという人なのかな? (クレジットを見てもよくわからん)。これまで観た中で最高のラインの黄金だった。


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