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クエイ兄弟のファントムミュージアムを体験しに妻と松濤美術館へ行った。
最初の出会いが今はなき六本木はシネヴィヴァンのクロコダイルストリートで(みんな同じだが、その後しばらく、家の中では歩くときにタララッターとライトモティーフが流れることになる)、ベンヤメンタ学院は見逃した(か、観る気がなくなっていたか)で、しかしピアノチューナー・オブ・アースクェイクで刮目しなおした。
という流れでそれから10年して観に行くのはおかしくはない。
で、イギリスの兄弟だと思い込んでいたので、ウォレスとグルミットの人といい、イギリスはチェコと並ぶ人形アニメの国なんだなと思っていたら、入館するなり衝撃の事実。
ペンシルバニア州の溶接工の子供とか書いてある(1940年代)。
長じてフィラデルフィア芸大に入学して(1960年代)、そこでポーランドのポスターを観て多大な影響を受けてから、イギリスへ渡ったそうだ。
それにしても、ポーランドのポスターを観て、二人で顔を見合わせてニマーと笑いながら「同じこと考えている?」としゃべっているところを思わず想像した。
カドルスどおりのなかまたち (げんき おはなしえほん―バナナ イン パジャマ)(サイモン ホプキンソン)
最初は2階でポスターや装丁など、イラストレーター修行中の作品群。
1960年代の東欧は改革の風が吹き荒れて、戦前の文化の復興があったりしたから、すごかったのだろうなぁと想像する。ダルラピッコラのオペラのポスターが参考出品されていていろいろ考える。
クエイ兄弟は架空の装丁やポスターを作りまくる。
作品の選択がすでにクエイ兄弟で、カフカあたりは当然として、城から城という文字にしびれる。
今度は地下へ降りると、ギルガメッシュのセットらしい50cm四方くらいの箱をはじめとして、拡大鏡などがある箱が並べられている。すごい。
窓からのぞくと向こうからこちらを見ている人がいたり、逆に窓から妻にのぞかせて、こちらから見たり、どの箱も汚い皿から食物が零れ落ちていて、蜘蛛の巣なのかがはり、電灯があったり、いろいろだが、どれもこれも不潔でありながら妙に清潔で、クエイ兄弟以外のなにものでもなく、興奮しまくる。
なんておもしろいんだ。
ピアノチューナーのきこりの箱(いまいち動きがないので、ちょっとがっかり)とか。
なんといっても圧巻はグレゴリーザムザの部屋の箱だと思う。機械仕掛けのベッドの下に甲虫が仕込まれている。
映像コーナーでは、ギルガメッシュやクロコダイルストリートや死産を扱ったらしい作品やコムデギャルソンの短編を抽出した映画がループしていて、これまた素晴らしい。というか、プロコフィエフのロメオとジュリエットのタララタララのフレーズがやたらと耳に残っている。なんの作品だったか?
没になったBBC2のアイデント(? アイデンティティ作品? NHKならドーモ君が出てくるようなやつか?)が天井からペンが生えて来てペンがペンを生み出す作品が作品を生む構造でおもしろかったり、作品年譜を眺めていると、カフカの上映権を取得せずに、しかも勝手に音楽(何か忘れた)をつけたので封印されたなどという、実にいい加減な作品があったり(それを1秒あたり25コマできちんと作ってしまっているところが、予定がなくても、ポスターや装丁を書きまくっていた1960年代後半から1970年代前半から変わっていなくて好感を持ったり)して、なかなか難儀な作家だなぁとか思う。
刺激に満ち溢れていて実に気分が良くなった。
それにしても、ガラガラとは言わないまでも大して人がいなくて、堪能しまくれたのは良いが、さすがに感じるものもあるので、出口でファントムミュージアムの目録を購入。まさかこの展覧会のために作ったのではないだろうと思ったが、確かに出版年が去年だし、巡回展覧会のようだ。
クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム(The Quay Brothers)
すると売っている人が、目録買った人は抽選でクエイ兄弟の直筆サインをプレゼントだと言って、箱を差し出した。手を入れて一枚引いて渡すと、なかなかもったいをつけて開封してこちらに差し出した。何も書いていない。はずれでした。
展示場の入り口に、良くみたら、その件が張り紙されていて、みると、兄貴も弟も、どちらのサインも、重なったQで、1人でサインしてもクエイ兄弟なのかとちょっとおもしろかった。というか、せっかくだから当たればよかった。残念。
それにしても楽しかった。
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東京に暮らすということは、家から駅へ歩いていく途中にあるお寺の脇の町内会の掲示板をふと見ると、地域の美術館の展覧会のポスターが貼られていて、それにクエイ兄弟という文字が書かれていて、おおそうか、では行くかと観に行って堪能できることなのだ。
とか思った。
アスキーの鈴木さんから頂いたUNIXプログラミング環境をざっと読み返して(だと思うんだけど、もしかすると実は初見かも)いろいろ考える。
1985年のまえがきがついているのだから、30年以上前の本だ。
読み始めて、すぐに、そうそう、昔(といっていいよな)はstty(セッティ)がすごく重要だったよなとか思い出す。間違えてバイナリーファイルをcatしたりviで開いたりすると、端末制御が無茶苦茶になって、改行されなかったり、エコーバックされなくなったり、操作できなくなる。かといって、Alt-F3で切り替えて殺したりとか、Xをクリックしたりして殺したりはできないから(つまり、RS232Cとかで本体と端末がつながっていて、その線にデディケート(日本語でなんと言うんだっけ?)されているから、その端末についているキーボードでどうにかするしかない。でも、Unixのシェルは忠実に口を開けているから(その前に:qが必要かも知れないわけだが)、sttyでリセットしてやれば済む。完全に覚えていないが、そのための魔法の呪文みたいなものがあったのだった。
で、nohupだ。そうそう(まあ、今でも使っているとは思うけど)。
そんな過去の亡霊のような本なので、当然、2つの考えが浮かぶ。
1つは高速道路主義者のおれで、いらんいらん、30年前の本がなんの役に立つ? 今は高度に専門化されているんだから、こんなUNIXの思想と仕組みと汎用コマンドについて書かれた常識本なんか読むだけ時間のムダムダ。
しかしもう1つはこう言う。おっさんたちは、これが基本として叩き込まれているわけで、少なくとも教養として知っているといないじゃ大違いじゃん。sttyは使う必要ないかも知れないし、今更edのコマンドを覚えても(昔は、viを使っていて操作を誤ってed(だと思うんだけどexだったか?)モードに入ってにっちもさっちもいかなくなることが度重なって結局ある程度覚えざるを得なかった)意味ないかも知れないけど、ファイルシステムやsortやsedみたいな基本中の基本コマンドを学んでおいて少しも損はないし、実際に使うシェルはbashやzshになっているかも知れないけど、シェルはシェルだし、全体を通して語られる小さな部分を組み合わせてユニなシステムを構成するという考え方とか、意味なさそうだと思ったところだけ読み飛ばしても十分にお釣りがくるほど価値があるじゃん。
シェルプログラミングの基本が学べる5章。
フィルタ(実はあらゆる点で考え方は再利用できる)について学ぶ4章。
システムコール(特にファイルシステムとプロセス)についての7章。
このあたりは、教養というよりも基盤知識として頭に入れておいたほうが良い(ものがコンパクトにまとまっている)。
白眉は8章のプログラム開発だ。
多分、想像できるものとは異なる。
演習として作るのは電卓なのだが、Cは知っていることを前提として、ここで特に重視されているのは、次の3つだ。
yacc (今ならbisonかbyaccだけど、パーサージェネレータ)
make
lex (今だとflexかな、字句解析機)
つまり、自分のためのDSLを本格的に(今の目から見ればであって、当時の感覚ではたかだか70ページの分量で、UNIXプログラミング環境を語る本の1/6強程度)作る方法についての解説となっている。
簡単なDSLなら、正規表現で実装する行指向言語で十分なわけだが、それでもパーサージェネレータは知っておくと便利(というか、BNFを読めるようになるとRFC読むのでも言語仕様を読むのでもえらく話が楽になとかいうか、読めないと辛いし)。それが70ページでまとめられた演習になっているのだから、読んだほうが良いとは言える。
というわけで過去の亡霊のようなところがないわけでもないが、おすすめするけど、どちらかというと会社の共有本棚に置いておく本という気もする。
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