著作一覧 |
とても良い余韻だ。
生者と死者が行きかい血が巡る物語だが、中南米文学とも欧州文学とも異なる、なるほどこれがアメリカ文学なのだな。
ミシシッピ州の奥で暮らす少年(10歳くらいか?)と妹(3歳くらい? 最後に美しい歌を歌う)、その祖父(ほとんどネイティブアメリカンな逞しくて大木のような黒人――意味わからなかったが訳者あとがきに、一滴でも黒人の血が混じっていると黒人と分類されるとあって、そうなんだと納得)、癌で死にかけている祖母(欧州的な意味での民間薬学者、つまり魔女)、少年を妊娠したので高校中退した母親(結構麻薬中毒気味で、兄の亡霊を見られる)、母親の兄(亡霊だが最後に見せ場がある。高校生の頃、白人の同級生よりも狩りが上手なため、撃ち殺される。みんな撃ち殺すところを見ていたが、狩猟中の事故ということでおさまる。おさまらなかったのが、殺したやつの従兄で後の父親)、その父親(油田労働者の白人で良いやつ)、父親の父親(頑迷な差別主義者なので少年の母親を撃ち殺そうとしているし、孫の存在を認めない)、父親の母親(基本、南部の白人だが夫と異なり、息子はかわいいので、孫も嫌いではない)、鳥(祖父が強制労働させられ(犯罪の有無とは関係なく強制労働させるために黒人は刑務所で働かされるので、運悪く収監されてしまった)ていたときに庇護せざるを得なかった少年囚の亡霊で、少年と妹にしか見えないが、最後には大暴れする)、母親の同僚の麻薬の売人をやっている白人女性、その知り合いの麻薬の卸元、悪気はなくどちらかというと良い弁護士(でも麻薬大好き)が、家畜を殺したり、刑務所へロードムービーしたり、殴り合ったり、ゲロを吐いたり、警官から隠すために大量のメタドン(ヘロイン中毒の治療薬として導入されたのにヘロインよりも中毒性が強い麻薬、ってそもそもヘロインがマリファナよりも安全安心な麻薬としてばら撒かれたのと同じような構図だ)を飲み込んで死にかけたり、本当に死んだり、殺されたり、殺したり、成仏したり、亡霊としてさまよったりしながら、生きている物語。
祖父母を父さん、母さんと呼び、母親は名前で呼ぶ少年の一人称で物語は始まる。
少年はまだ人生を長く生きていないから、書かれることは目の前で起きていることと祖父から聞いた矯正施設(刑務所とは微妙に異なるようだ)での強制労働のことだ。少年のパートは文章が美しい。
話し手が母親に変わる。同じく目の前で起きていることと、今は刑務所にいる夫に関することがほとんどだ。夫の父親に対する恐怖。
語り手を変えながら、出所する夫(父親)を迎える車上の物語となる。麻薬の卸元、弁護士などが次々と出てくる。
帰りの車が警官に停められて強制的な捜査が始まる。少年は射殺されそうになる。
帰宅すると両親がいないため、夫の家に行くことになる。そこでのひどい扱い。
やっとのことで両親の家に向かうと母親(祖母)は死にかけている。祖母は母親に死の儀式を依頼する。
一方、刑務所から同乗している黒い鳥(祖父の矯正所での仲間であり、物語の語り手の一人でもある)は、自分の最期を祖父から聞き出すことを要求する。
祖母の死の床に兄が現れ、少年と協力して黒い鳥を追い払う。そして祖母と共に昇天する。
黒い鳥はこの世界に残っている。少年が気づくと世界は黒い鳥でいっぱいである。妹が歌を歌うと黒い鳥たちは帰路について唱和する。この章は抜群に美しく、何が起きるのでもないが救済感があって読後が心地よい。
主人公の男の子の語りのパートが妙に文学的表現(しょっぱなでいきなり「ぼくは父さんが地面に残していくやわらかな内臓の血の痕をたどる。その血の痕は、ヘンゼルが森にまいたパンくずと同様、まちがいなく愛の目印だ」とか独白するので、お前、まともに教育を受けられる環境にいないのになぜだ? と驚いた)だが学校の図書館(星座の正確な名前を言うところで図書館を利用していることがわかる)のおかげなのか。
タイポ(イルカがルイカになるような片仮名の入れ替わり)を1か所見つけたが見つからないので後でメモする。
子供の頃に親とかに、明日の次は何?、その次は何? と聞くわけで、「あす(あした)、あさって、しあさって、やのあさって、なのあさって、後は知らない」と教わった。
そうは言っても大人になると明日の次あたりからはデジタルにたとえば15日の金曜日みたいな言い方になるので、あさってくらいまでしか使わないのでさっぱり使うこともないままに忘れていた。
たまたまFBを見ていたら、そのての話題が出ていて思い出したわけたが、付いたコメント欄を読んでいっても、やのあさって(と、そのバリエーション)で止まっていて「なのあさって」が出てこない。
不思議に思って検索しても「なのあさって」はグーグルの結果の3ページ分くらいまでは出てこない(それ以上見る気にならない)。
子供の頃は「七」の「な」かと思っていたが、全然7ではないし、今なら「彼方」の「な」だということはわかるが、存在しない言葉(親だか祖父母だかがでたらめ言った)なのか、忘れ去られた言葉なのか謎だ。
追記:そういえば、「やのあさって」の「や」を8だと思って、「なんで八の次が七なの?」と聞いた記憶が蘇ってきた。そのとき、数字じゃないと教わったのだが(それでなんかそういうものなのだなと納得したような)、今検索するまで「やの」が「弥の」だったとは知らなかった。
一昨日、冷麺を食べる夢をみたので冷麺が食べたくなった。
で、昨日は別の用があっていけなかったので、今日、行くことにした。が、家の近所の店は土曜日は営業時間短縮で昼は休んでいる。
しょうがないので、今まで行ったことない店へ行こうと、「冷麺 美味しい 駐車場」で検索したら、コサム冷麺専門店という新大久保の店がひっかかった。駐車場? と思うと、近隣にコインパーキングがあると書いてある。まあ、それでも良いかと考えて、場所を覚えようとグーグルマップを拡大すると、隣の道にイケメンストリートと書いてあって、なんだこりゃ? と思う。
30年くらい前にそのあたりをうろついたときは、南米(多分コロンビア)から来た街娼が立ち並んでいたが、時代が変わって男娼街になったのかな? いや、さすがにそれはないだろうから、ホストクラブが林立しているのかな? と思って妻に聞いてみると、今やあの辺は韓国街なんだから、韓流男子のアイドルショップとかが軒を連ねているんじゃないか? と言い出して、それももっともだと、いずれにしても現地で見てみることにする。
明治通りからだと職安通りの反対側になるから、小滝橋通り側から職安通りに入り、コンビニの角を曲がって……と思ったら一方通行で入れない。
次の通りが問題のイケメンストリートだが細いうえに人がいっぱいいては入れそうにもない。
脇にでっかなドンキホーテがあって、1500円で30分無料、30分400円、最大1700円とか書いてあるので、最悪、ここに停めるかとさらに進むと路側駐車帯があって、空いている! と思った瞬間、前の前の前の車が駐車態勢になって残念。結局、大久保通りをまわって、ドンキホーテに停める。
新大久保という立地の駐車場としてはなかなか広いが、良く見ると県外(というか都外)ナンバーの車ばかりが停まっている。
わざわざ、横浜とか多摩の田舎から新宿のドンキホーテに来るのか? と妻と話し合っていると、子供が、お前らが中華街に行くようなもんで、横浜の田舎から韓国街に来て、うちと同じように駐車場としてドンキホーテを使ってるんだろ常考、と正鵠を射る。
なるほど、先に駐車したやつも店に寄らずにイケメンストリートのほうへ向かう。
で、とりあえずまずは第一目的の冷麺を食うことにした。
最初に3皿お通しというか付け合わせが出てきた。カクテキと、大蒜の茎と、妙な赤いやつで、子供が妙な赤いやつを、竹輪みたいなやつだな、と言い当てる。確かにそうだった。
大蒜の茎は埃っぽい(という表現だと美味しくなさそうだが、普洱茶の香りのような感じ)不思議な味付けで初めて食べる味で美味しい。カクテキは普通にカクテキだった。
で、冷麺が出てくると、店の人が切るか? と聞くので良くわからないが、よろしく頼むと鋏で4つに切った。おもしろい。
・焼き肉屋でも自分で鋏で切るタイプの肉が出て来たりするが、食卓で鋏を使う文化なのかな。
これまた初見のやたらと細い麺で(店内のポスターを見る限り、ジャガイモの澱粉ベースの麺らしい)、夢に見た普通の冷麺とは違ったが、これはこれでおいしい。最初はビビン冷麺として赤いミソで食って、しばらく食ったら、薬缶で提供される肉スープで普通の冷麺みたいにして食べるという、ちょっとじゃじゃ麺みたいな食べ方が書いてあるので、その通りにしてみた。
付け合わせの豚を焼いたやつが、これまた普段見たことがない、不思議な玉ねぎベースっぽいタレで食べるのだが、これも良いものだった。
で、満腹したところで、イケメンストリートへ向かう。
えらく賑わっている。が、おれの予想とは違うのはもちろん(セクシャルな要素は微塵もない、明るく健康的な商店街だっていうか、えらい変わりようだな)、妻の予想とも違う(一時の竹下通りのように、タレントショップが軒を連ねているわけでもない)。
が、呼び込みしている店員や、お遣いっぽく歩いている店員とか、目につくどの店員もマスクをしていて(のは当然だった)黒っぽい服を着てすらっとしたスタイルで、マッシュにしていて、やたらとイケメンだ。
で、妻に、お前の読みは外れのようだけど、見たところ、店員がみんなイケメンだから、そういう意味なんじゃないか? と言うと、スマホで検索して、「それが当たり」と言う。
なんでも現地で見てみるものだ。
で、満足したので帰宅。
初見となるが、エリア・スレイマンというパレスチナの作家の映画を観に、有楽町のヒューマントラストシネマ。
場内ガラガラだったが、えらくおもしろかったし(文法はコメディなのだ)、感銘も受けたし、いろいろ思うところもあった。
最初は寸劇で始まる。神父が(結婚式かな?)を先頭にでっかな磔刑像を担いだ人々が礼拝堂に入ろうとすると、打ち合わせでは内側から開くはずの扉が開かない。中から寺男の開けないぞ、開けたければ力ずくで来いという声が聞こえてくる。神父がノックする。寺男が生意気を言う。何度か繰り返した後、神父は裏口へ回って礼拝堂に入る。争う音がして、寺男が逃げ出す。神父は何事もなかったかのように元に戻り、扉を開ける。
タイトルが出る。
始まると、眼鏡と白い顎の無精髭が少し伸びたような雰囲気がおれの父親を思わず想起するのだが、男が淡々と生活する姿が始まる。
ベランダで煙草を吸いながら果樹園を見ると、勝手にレモンを捥いでは籠へ入れている男がいる。男は視線に気づくと、おれは隣家のものだと言う。
また、淡々とした日常描写。
ベランダで煙草を吸いながら果樹園を見ると、レモンを捥いでいた隣家の男が、枝を切っている。間伐したほうが果物が良くつくんだ。
また、淡々とした日常描写。
旅支度を始める。室内の観葉植物を考えた末に、レモンの木の手前に植える。
飛行機に乗ってパリ(というのは見ればわかる)に着く。カフェに腰かけて人々のトラブルを眺める。
ルーブルのピラミッド。
ホテルの向かいはアパレル企業らしい。鏡にこちらが映る。
映画会社のプロデューサのところへ行く。パレスチナの状況を映画化するのは弊社にもふさわしい企画ですね。から延々と話し始め、最後に、というわけでお引き取りください。
淡々と出て行く。
ホテルの向かいはアパレル企業らしい。明かりがついていて黒人の女性が掃除をしている。(道路でも掃除をしているのは常に黒人だというのが何度も出てくるが、実際にそうなのだが、しかし意図はあるのだろう)
(最後のクレジットを見ると、パリの後にモンレアルへ行ったようだが、それは気付かなかったし、カットしたのかも)
ニューヨークへ着く(見ればわかる)。イエローキャブの運転手の黒人の巨漢に、どこから来たんだ? パレスチナ。おお、そうか。この稼業は長いがパレスチナ人を乗せるのは初めてだ。カラファト! (アラファトを知っているが覚え違いしているということかな?)
バーに入る。横に腰かけている男が喋る。普通、酒を飲むのは忘れるためだ。ところがパレスチナ人は、覚えているために酒を飲む。
映画会社の受付で、知り合いらしきスペイン人かな? の監督が話しかけてくる。受付の女性に追い出されそうになるが、スペイン人の監督が、この人はスレイマンだといって押し返す。なんか出資してくれるらしいんだけど、アメリカの会社はくだらない注文が多いから、あまり条件がうるさかったら断るつもりなんだ。
エイスマンの番になる。出資はしません、お引き取りください。
家に帰る。
隣家の男が、観葉植物に対して水を撒いている。
おしまい。
構図が線対称をわざとずらしたようなものが多用される。観葉植物がある部屋がそうだし、ホテルの向かいもそうだし、バーでもそうだが、完全な対称ではなく、必ずどこかしら違うものが置いてある。
傍観者的に淡々とあちこちをふらふら歩いては少しずつ同じことの繰り返しが変容していき、他者の他愛もない話を聞かされるという点で、ジャームッシュの初期作品を連想する。
だが、絶対的に沈黙を守り、すべてにおいて淡々と傍観者的である姿には、ガッサンカナファーニをどうしても想起せざるを得ない。
ハイファに戻って/太陽の男たち (河出文庫)(カナファーニー,ガッサーン)
沈黙したままというのが、政治的な声明なのだろう。
後で友人に聞いたところ、キン・フーに影響を受けたそうだ。なるほどそれもわからないではない。
初期の作品では、カンフー映画のポスターから出てきた東洋人の女性がヌンチャクを振り回してイスラエル軍と戦う(を、本人は無表情で沈黙を守ったまた眺める)そうだ。重房信子だな。
ユーロスペースで、アルベルト・セラのリベルテ。
友人からばかみたいに混むはずだから水曜日の真夜中(というか木曜日になったらすぐ)にチケットを購入せよと言われていたが、ネコに眠らされてしまって、結局木曜の朝に予約しに行ったら、3人くらい(その友人も含むのだろう)しか買われていなくて、なんと大袈裟なやつなんだと思いながら購入したが、当日行ってみたら本当に混んでいた。
最初に能書きを垂れる人が出て来て、映画の説明を始める。はて? と思ったら、ちょっと特殊な上映会だったのだな。
カメラを3台使い、基本的に役者に対して指示をせずフィルムを回しっぱなしで後から編集で頑張る映画で、音について注意せよと説明される。役者も基本的に素人で、最初に喋り出す男は、Facebookで募集されたやつで声が良いから選ばれた。確かに声が良い。
音は不思議なほどステレオ感があるだけではなく、驟雨のシーンではまさに頭上から雨が降り注いでくるような音響でびっくりした。なんちゃら4Dみたいなやつより遥かにシズル感がある。
画面は終始暗くて何かがいろいろと蠢きまくる。最後、夜明けが近づいてくると薄明が美しい。太陽が出るのか? と思わせられたが、結局出ない。確かにそういう内容ではあった。
馬車の中で貴族たちが会話する。ダミアンの処刑について語られる。革命の足音が近づいているのかな? 真の貴族の頽廃の美学を若い者に教えてやりましょう。
内容的には、最後の晩餐やソドム120日に近い。
最後の晩餐 HDリマスター版 [DVD](マルチェロ・マストロヤンニ)
ソドムの市 <HDニューマスター版> ~制作40周年記念~ [Blu-ray](パオロ・ボナッチェッリ)
ただ、圧倒的に異なるのは、大筋以外は何もないことだった。空疎と言えなくもないし、意外の美があると言えなくもない。だが、映画かどうかと聞かれたら、おれが見たい映画ではない(パゾリーニとかも好きではないから、そういう点ではおれにとっては同じカテゴリには入るかも知れないけど、ジャンルは異なる)。
役者が素人(ドイツから招待された公爵役のヘルムートバーガー(まだ生きていたのか)は当然プロフェッショナルだが)で演技の指示をしないというのは、この異常な状況にどう反応するのが正しいのか作家本人もわからないからではないか? 後から編集でどうにかするというのは、役者の反応が事前に見えない以上、どういうシーンとなるかは予測不可能だからかな? とか考えながらみる。
死ぬほど退屈なシーケンスと、何がなんだか映像が読めないシーケンス、気分悪くなるシーケンスなどが延々と入れ替わりながら時間が流れる。
おもしろくなくはなかったが、長い(2時間半)映画としては、だめな作品だと思った。
比較にすらならないが、全体的に暗い中で物語があるのかないのかわからないままえらく長い時間が流れる映画で、ここ10年くらいに観たのはペドロ・コスタだが、同じように素人役者を使っても、全然違う。才能というのは残酷なものだなぁ。
ただまあ、映画史に何か違うものを残したいという作家の意思はわかった。
東京卍リベンジャーズ、途中までコミックバンバンでチマチマ読んでいたが、あまりにおもしろいのでKindle大人買いして読みまくって最後まで来たら、まだ(少なくとも単行本では)完結していなくてお預け状態でがっかり。
映画もそうだが、おもしろい作品は、過去の記憶(実人生はもちろん、経験として取り入れた作品群についてでもある)を掘り起こす。
東京卍リベンジャーズは、現在をふらふら生きるボンクラ青年がかって好きだった女性が殺されたというニュースを見た後に、何かのはずみで自意識は現在のまま少年時代の自分に戻り、その女性が殺されるという現在を変えようと奮闘する話だが、実にうまい。
うまいのはルール設定(過去に戻れるのは常に現在からの相対過去なので、一度現在に戻ってから過去に戻ると、現在で経過した日数分、過去での時間も経過している(当然、その間に何が起きたかはわからないので、調査が必要となる)と、それだけではさすがに無理ゲーなので現在でのパートナーに殺された女性の弟で、過去の自分の言動に勇気づけられて警察に勤務しているため現在の各種情報にアクセスでき、かつ、改変前の現在についての記憶を主人公と共有する便利な存在を持って来ていることにある。
過去の話は基本的にフレームワークはケンカに強い奴が一番偉く、頭は悪いが情はあるみたいな不良マンガテンプレなのだが、各人の個性の色分けがうまいのと、割と平然と時間軸をぶった切って(と見えるがもちろん計算尽くなのだろう)現在に戻らせるので興趣を尽かせない。
しかも絵がうまいので暴力シーンの肉体の動きが美しくて読んでいて楽しい。
抜群だ。
不良のドつきあいマンガのフレームワークを使った人生やり直しモノでまず思い出す(要は印象深い作品ということだ)のは、どおくまんの「超人S氏の奮戦 ―花の2回目人生―」だ。こちらは、宝クジと株の仕手戦で稼いだ金を使って不良に勝つというマンガだが、大人の正義感から戻った中学時代にいじめの標的にされ(元の人生ではまったくかすりもしなかった世界に入ってしまい)、それを打破するために、現在に戻ったところで宝くじの当たり番号を購入(ここでいろいろ伏線が入る)し、株の仕手戦で勝利(というか結果を知っているのだから出来レースだが)して得た大金を使うという、子供に金の大事さを教えるマンガみたいなやつで、現在と過去の自意識の行き来という点では先駆的な作品と思う。
一方の東京卍は、過去の行動が常に戻った現在に影響しているので、因果関係の辻褄合わせの妙もあれば、より伏線が緻密になっていて、40年違うとここまで進化するのかと感じる(絵柄はまた別な話だ)。
東京卍は、Aという過去を過ごして現在のBに戻ると予想外の世界になっている。どうもAの後にXという問題が起きたようだ。ではXを解消するために過去A'に戻る。Xを解決すると現在のB'はしかしB時点の想定とは異なるものとなっている。どうもX'という問題がA'の後に起きたようだ。ではX'を解消するために……という繰り返しなのだが、時間軸は常に進んでいるために以前の結果が当然過去にも影響しているため、何が原因でどう変わったかを現在で考察して、その知見をもって過去に再介入するという物語構成が抜群だ(そもそもの女性の殺害の動機は途中で見えてしまうのだがそれは全然物語のおもしろさには影響しない)。
同じく不良マンガの人生やり直しものとしては、親父の自意識が息子に入り込んで人生やり直しを目指すCUFFSがあるが、こちらは子供のケンカに大人の自意識で勝利するという戦略が多少目をひくが、結局は単純にケンカをすれば心が通い、強ければ強いほど偉いという単純な不良マンガなので、相当に違う。というかCUFFSは同列ではないな。
東京卍は、敵なのか味方なのか最初の時点ではよくわからない不良のトップが小柄で可愛く、しかし腕っぷしは無茶苦茶に強く、その相棒がノッポでおっかない(でも良い奴)のだが、この組み合わせは、京四郎を思い出す。
可愛いトップが実がおっかなくて、相棒ののっぽが無茶苦茶強くて無軌道なやつだが実は良い奴というのはそれなりに他でも見かけるが(例えばOUT)、キャラクタ作りのうまさでは東京卍と京四郎が双璧かも知れない(が、京四郎の場合は最後は敵に回るのだが、東京卍は最終巻を読んでいないからわからない)。
OUT 1 (ヤングチャンピオン・コミックス)(みずたまこと)
同じ作家の新宿スワンの場合は、最初は「ほー、キャバ、スカウト、ホストとかってこんな感じなのですか」みたいな興味で読んでいるうちに、徐々に暴力マンガのフレームワークを超えてダークファンタジーを繰り広げていたように、東京卍の場合も比較的単純な不良グループの抗争もののフレームワークを使いながら徐々に話の複雑度が増していくダークファンタジー(かなぁ?)となっていて、作者のストーリーテリングの才能(絵も抜群だが)は凄い。
東京卍リベンジャーズ(1) (週刊少年マガジンコミックス)(和久井健)
(嘘喰いに引き続きおもしろいマンガが読めてラッキーだ)
ジェズイットを見習え |