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翻訳者がTwitterでいろいろ呟いたりRTしたりしているのがおもしろそうなので買って読み始めると、想像以上に絢爛たる文章で、おやこれは久々に本物の文学ではないかと、時たま開いてはちびりちびりと味わっていたのだが、ついに読了してしまった。残念だ。酒は飲まないので想像だが、極上のコニャックをちびりちびりとみたいなのは、こういう感覚なのだろう。
とにかく訳業が素晴らしい。言葉が次々と出て来て世界を言葉で作り出す。
物語はニルス・リューネという19世紀後半を生きたデンマークの何もしない人の誕生(というか父母が家庭を持つところ)から死までを描く。
各章はとびとびに、子供の頃の叔母さんへの思慕のようなもの(死に別れ)、学生になってからの金持ちの未亡人(なんとなくフォンメック夫人とかを想像しながら読んでいた)との馴れ初め、実母とのスイス旅行(母親は老衰死)、戻ってからの未亡人との別れ(相手が結婚)、田舎旅行での従妹との出会い(友人と結婚してしまう)、従妹との不倫(友人が死んだことで追い出される)、旅先でのオペラ歌手との出会い(歌を取り戻したため捨てられる)、知己の娘との結婚と病死、こうやって書き出すとつまるところは女性遍歴なのだが、これっぽっちもドンジュアン的な要素はなく、常に相手の意志に従う形で関係を持ってしまい(最初の叔母さんのは関係は持たないけど、子供だから)相手の意志によって別れる。それにしても、なかなかうまい配分だ。
という内容が結晶の森のような文体で綴られる。
主人公は詩人になりたいのだが、(一応詩作があるようなのは、結婚後にかっての作品を読んで感心したりしている)特に何も行動しないので、そのまま郷人となる。
はて、これは余計者の系譜の文学なのだろうか?
が、そうとは思えない。本人に余計者という意識が全然ないからだ。かといってスタヴローギンのように全能感を抱えながらあえて行動しないというわけでもない。
主人公が強い意志(友人のため、女性のため、母親のため、といったものではなく、自分自身のための)を見せるのは、子供が死にそうなときに無神論者の信条を曲げて神に祈るところと、死んだあとにその行動を全否定するところ、そして最後に恐るべき激痛に呻吟しながら、断固として牧師の召喚を拒否するところだ。わざわざ作者も結婚の申し入れを父親に行うところでは、女性側の意志に間違いないが若過ぎるから自分が切り出す必要があるというような断り書きを書いているくらいに、それまでのリューネはどう仕向けようが、どう手を出そうが、自分の意志で行動したのではないように振舞っている。
一方で死ぬ原因となる義勇兵への志願が実にどうでも良さそうな書きっぷりで示されているのもおもしろい(た、どうでも良さそうな書きっぷりであっても、これまでの女性関係と異なり、これは確実に自分で決断している)。
そこが、どうにも、セリーヌの夜の果てに文学的には繋がっているように見える。ニルス・リューネでは最後に戦争に行く。バルダミュはいきなり軍隊に入隊するところから始める。読んでいてニルス・リューネが19世紀文学ではなく、おれには20世紀文学のように感じるところもその点にあるのかも知れない。
息をするように無神論者であったのに、本当に大切な子供が死にかけたときはついつい神にすがり、それゆえ自分を終わったと感じたように書いている。が、実はそれによって、自分が始まったのではなかろうか。つまり、近代人(神の沈黙と向き合い戦う人間)から現代人(神は存在しないことがわかっているので、もう祈ろうが何しようが全然どうでも構わない)への成長を遂げたのだろう。あとに残るのはどこの誰でもない自分自身であり、自分のために生きるもへったくれもない現代人であり、たった一人で苦痛に呻吟しながら死んでいく。
ニルス・リューネ (ルリユール叢書)(イェンス・ピータ・ヤコブセン)
で、作者のイェンス・ピータ・ヤコブセンというのは全然知らんなぁ(そもそもデンマークの作家はアンデルセンとイェンセンくらいしか知らない)と思ったらとんでもない話だった。
グレの歌の作者だった。
(ボストンの管の気持ちよさとかいろいろあって小澤のを愛聴)
(どうでも良いが、訳者解題には「歌曲」とあるが、実態は歌付き交響詩だし、カンタータとか演奏会形式オペラいうのが正しいのではないかなぁ。もちろん少年の魔法の角笛だって歌曲なのだから歌曲でも良いのだが)
柴田南雄のエッセイにグレの歌のレコード評があって、その中で対訳歌詞に苦言を呈していたのを思い出した。
手元に原書がないので完全なうろ覚えだが、対訳では「グッツェン(これはもちろんでたらめ)夫人よ身を屈めよ、フンディンン(これももちろんでたらめ)氏よ腰を曲げよ」となっているのを、ちょっと待て、これそれまでと全然関係ない人名が出て来て訳者はおかしいと思わなかったのか? 大文字で始まっているから固有名詞と思ったのかも知れないが植物の名前だから「アカザの木のおばさん体を縮こめないと危ないよ、(なんかの木の名前)の木のおっさん、腰を曲げとかないと吹っ飛ばされるよ」で、嵐が来るから植物たちに暴風に備えよと言っているのだから、ひどい訳だというような内容だった。続けて、なんで唐突にこんな植物名(あまり一般的ではない)が出てくるのかと考えたがなんのことはなくヤコブセンは植物学を学んでいるのだった(かくいう誰かもそうだった)とあって、なるほど柴田南雄は植物学を学んだのだったな(小金井なんとかの弟子だったような)と知ったのだった。
というような翻訳者泣かせの作者かも知れないが、訳注を読む限り、ニルス・リューネの翻訳にはそういう心配は全然無さそうだ(というか、読んでいて唐突に変な固有名詞が出て来たりはしないし)。
思い出したので備忘。
白井晟一入門で煥乎堂と高橋元吉という名前が出てきたとき、ちゃんと文章は読んだはずだが、なぜか富山のことだと勘違いしていた。
その後に諸般の理由から群馬に行ったのだが(ついでに旧松井田町役場を眺めたり)、妻が煥乎堂は群馬と言い出した。
富山じゃないのか? いや群馬! と言われてはっと気づいた。
以前、暇潰しに前橋駅の近くの本屋に行ったとき、どうせ田舎の駅前本屋だからろくでもない本しか置いていないだろうと高を括って入ったらこはいかに。
3階(だと記憶している)の文芸書コーナー(また雰囲気が実に良い)は厳選されまくっているし(岩波文庫を数冊購入した)、1階の半分は子供教育用なのだろうが実用書類もなぜか高度でびっくりしたのを思い出した(白井晟一の建築とは関係ない)。
(そのとき買ったぐんまの城はおもしろい)
ということは、あれが煥乎堂か? 詩人にして地方在住教養人(実際には新潟だから2重に間違えているが、どうも鈴木牧之を類推したのかなぁ)たる高橋元吉の遺風ならばどえらく納得だ。
それで妻に「あの品ぞろえが抜群の本屋か?」と聞くと、「さすがにそれはないんじゃない?」とか言いながら調べてくれたら確かにその煥乎堂だった。
東急本店のじゅんく堂のように、とにかく書籍の密林のような書店もわくわくするが、煥乎堂のように中規模なのに目利きが揃えたかのような書籍がきれいに配置された書店も美術館のような楽しさがあって好きだ。
いつもの栗山演出の蝶々夫人。
指揮のせいか序曲がやたらとカノンとして聴こえる。プッチーニの序曲でカノンというのは他にあったかな? と思い出しても思い当たらない。なんで蝶々夫人はカノンなんだろう? と考えても良くわからん。恋のパラレルラインかなぁ。
幕が開くとシャープレスの声が気に食わない。すごく耳障りで嫌な気分になってくる。ピンカートンはそれほど悪くない。
蝶々夫人の行列が閑散としていてなんか妙な感じだったが、幕間に子供になんか妙だったと言ったら、そりゃコロナ演出じゃん、と指摘されて納得。
と、行列の閑散っぷりは気になったが、やはりシャープレスとピンカートンの二人が耳を澄ますと遠くから女声合唱に続いて蝶々夫人が歌いながら登場するこのシーンは抜群。中村恵理は相当良いと思った。
がシャープレスが気に食わないので帰った後もなんか集中できないのだった。
2幕になると、ところがどっこい、シャープレスが抜群で、3年もたつと人間変わるものだなと感心した。
特に、蝶々夫人があまりに楽天的に物事を見過ぎている(というよりも気丈に振舞っているということなのだろうが、シャープレスの立場からは苛立つのもわからんでもない)のでついに「もし戻らなかったらどうします?」と語気を荒げるのには衝撃を受けた。グールドのレコードの出だしみたいだ。これは凄い。なんかこれまで観たことのあるシャープレスは常に名前の通り柔和な好人物なのに、この2幕のシャープレスはシャープだ。
それはそれとしていかにもお大尽の遊び人風情で好きな山鳥だった。この山鳥は素晴らしい。蝶々夫人も節を曲げれば良かったのに(とはいえ登場時15歳になったばかりということは、数えだからたかだか13歳、3年たっても16歳の武家の娘だからそう柔軟な考え方は無理だろうな)。
指揮は大きな音は大きな音(特に、どこの部分かな、忘れたけど、これまた良い意味でガツンと来た)、間は間(特に、ある晴れた日の始まる直前の間は抜群)、3幕のチェロは美しい。2幕の序曲か3幕のかは忘れたが、こちらもカノンがカノンに聴こえておもしろかった。
単にisoをコピーしようとしたらファイルサイズが5GBあるため作れなかった。
情報が分散し過ぎていて調べるのが面倒だったのでメモ。
現在の元文書の位置。
1. USBメモリ(8GB程度あれば十分)をFAT32でフォーマットする
2. 管理者権限でコマンドプロンプトを実行する
3. diskpart
4. list disk でUSBドライブの番号を調べる
4. select disk {USBドライブ}
5. list partition でコピー用のパーティションを調べる
6. select partition {コピー用パーティション}
7. active
8. exit
9. isoイメージをマウントする(Explorerの右クリック→「マウント」)
10. robocopyで4G以内のファイル(ここでは3.8G)をコピーする。ISOをマウントしたのがg:, USBメモリがf: ならば robocopy g: f: /s /max:3800000000
11. 4Gを超えているのは、\sources\install.wimだとわかっているので分割コピーする。Dism /Split-Image /ImageFile:g:\sources\install.wim /SWMFile:f:\sources\install.swm /FileSize:3800
12. 完成
とんでもない閉塞状況(1930年代―大恐慌後、没落した南部農園主の娘(母親)とその子供(姉と弟))の密室劇。高校生のころに岩波文庫で脚本は読んで、今となっては弟が映画好きとしか覚えていなかったが、こんなに圧迫感がある内容だったのか。実に気分が悪い。
全体は弟の回想-現在の額縁の中に納まる。
最初に登場人物について弟が語る。重要なのは裕福な青年紳士(外部から訪問して外部へ去っていく)と出現することがないメキシコに去ったらしい父親で、父親と紳士(の現実版)の共通点はいずれも最新のテクノロジーに関係するところにある。この二人を除けば母-姉ー弟は過去に捕らわれている。それが(触れたら簡単に壊れる)ガラスの動物園でもあって、全員が動物園の檻から出ることはできない。一見額縁を描くことで外部に逃れたように見える弟ですら相変わらず檻の中にいる。それを家族愛と考えるか、閉塞状況そのものと見るかは考え方ではあるが、現在の状況と照らし合わせれば後者でしかない。
弟が状況打開のために第2次世界大戦を心待ちにする「希望は戦争(気分はもう戦争ではない)」状況は、今日の日本的な状況そのものだからだ。
その意味でうまい作品を舞台に上げたものだ。
過去のことを延々と語っては子供を責める今でいうところの毒親、引きこもりの姉、就職に失敗して鬱々と楽しめない(若年ケアラーでもある)弟と、この家庭がこれまた今日の日本的状況。
舞台美術も役者も音響効果も抜群。岡田ってハムレットのときも思ったが良い役者だ。
(岩波文庫だと思ったら新潮文庫だった。おそらくカバー無しの葡萄バージョンを手にしたので岩波だと思ったのかも知れない)
夜は豊洲でラストナイト・イン・ソーホー。
これは傑作だった。
2時間越えの映画なのにまったく弛緩がない。ホラー映画ならではのお笑いシーン(ヘルプ)もあったりするが、異様なサイコホラーをとてもうまく見せてくれる。
一つには主役の女優が途中からゴスメイク(もとはハロウィンパーティーのためなのだが、気に入ったのかその後もパンダメイクをしている)にして、それがやたらと似合うからでもある。というか、最初の田舎娘、ロンドン60年代ブロンド、ゴス、モダンでノーマルと見事に変わっていくのが素晴らしい。
物語は田舎の少女がロンドンの服飾学院に合格して進学するところから始まる。出だしのシーケンスでは新聞紙で作った立体的なドレスで踊り狂う。音楽が60年代音楽で、そういう趣味だとわかる(部屋のポスターもティファニーで朝食をだったりする)。
が、霊視の能力があるため(存在しない女性がちょろちょろ出てくるのだが、死んだ母親だと、祖母との話からわかる仕組みだ)、いろいろ厄介なこともある。ちょっと羊飼い地方の田舎出身のため、マンチェスター出身のルームメイトグループにしかとされたりして寮を飛び出てソーホーのロフトに居を構える。と、そこで暮らしていたらしい60年代の少女(街に出ると007サンダーボールが映画館にかかっているのでタイムスリップというか、その少女とシンクロしていることに気付く)の幻視なのか一体化なのかが始まる。最初は60年代そのものを味わえて楽しい気分(そこで最初のブロンドガールへの変身がある)なのだが、徐々に不穏になる。
とにかく作りの丁寧さには舌を巻く。
死んだ母親が見えるというのがまず上手い。
出だしのシーケンス(なら所謂ネタバレもへったくれも無いだろうから細かく書いてみると)が、ロンドンに来てタクシーに乗る(直前の郷里でタクシーに乗るところとの対比)、タクシー運転手の気持ち悪いセクハラの言葉(脚とかストーカー1号になるとか)でロンドンはおっかないと印象付けて、逃げ込んだコンビニでコーラを買う(タクシーがしつこく待ち伏せしていて主人公の恐怖心を煽る)(寮(寄宿舎じゃないけど)に入るためにタクシーで向かうってサスペリアの引用なのだろうか)。で途中下車したのでひーひー言いながら荷物をたくさん持って寮に入ろうとすると、あまりにひーひーしているので親切な黒人が手伝おうかと声を掛けるという印象的な登場するのだが、さっきのタクシーの印象があって逃げるようにして去る。と、事象の連鎖と登場人物の動きや事物の絡みが実に有機的(伏線というわけではなく、コーラの缶ですら機能を持つし、冷蔵庫を開けた時点で登場人物の性格が見えたりとか)で、極めて良くできたプログラムみたいだ。
しかも最後がとにかく素晴らしい。血は飛び散りまくる(でも内臓は飛び散らないからスプラッタとは言えない)が、爽快な後味で気持ちよく終わる。実に良い話だった。これだけ気分良い印象で観終わるホラー映画というのも珍しい気がする。
60年代イギリスのオールディーズ(フーとかキンクスとかはわかるがほとんど知らない)といってもダウンタウンは知っている(というか手元のオールディーズCDに収録されている)が、ネイキッドアイズのalways somthing there to remind meがカバーだと知ったりとか、最初のピータ&ゴードンの曲はレノン&マッカートニーだったのかとかいろいろおもしろいし、現在のハロウィンパーティーでかかるスージー&ザ・バンシーズのハッピーハウスも良いのでサントラを購入。
Last Night In Soho (Original Motion Picture Soundtrack)(Various Artists)
それにしても楽曲のタイトルがストーリーと見事にシンクロしている(良くマンガの単行本でそういうのを見るが)。これも有機的結合のうちだったのだな。
1900年、プッチーニは蝶々夫人の作曲に取り掛かった。
さて、とプッチーニは考える。アメリカ人のピンカートンと日本人の蝶々さんそれぞれにライトモチーフを与えたほうが良いわけだがどうしようかな? つまり、それぞれの登場や、それぞれが考えているときの背景に流すモチーフなわけだが、そもそもイタリア人にはアメリカや日本だとわかるモチーフとかあるだろうか? というか、そんなものは無い。イタリア人のおれには良くわかる。
ということはだ、とプッチーニは沈思黙考する。やばいな……
そうだ! そういえばジョルダーノのクソ野郎が1896年に作りやがった忌々しくも成功しやがったアンドレア・シェニエではラ・マルセイユーズを使いまくってたな。
確かに、ラ・マルセイユーズが流れりゃ、ここはおフランス、今は革命とすぐにわかる。それは良いアイディアだ。ジョルダーノにしては上出来じゃん。ぱくぱく。
さてアメリカはイギリスから独立したから革命歌がありそうだが、そんなの知るか。調べるのも面倒だから国歌を使えばいいや。ていうか、そのほうがイタリア人にはわかりやすい。えーと、確か星条旗は永遠なれだっけ? やれやれ永遠とはね。何、すぐに滅びるだろう。何しろアメリカには文化とか無いし。でも待てよ、ってことはおれのオペラとか奴等に聞かせたら興奮のるつぼでがっぽがっぽと稼げるんじゃないか? うむ、間違いない。蝶々夫人が終わったら、次はアメリカを舞台にしたオペラを作って、アメリカで初演してやろう。後でトスカニーニに根回ししておくか(次作、西部の娘(ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアを舞台にしたカウボーイの復讐の物語)は、1910年、ニューヨークのメトでトスカニーニの指揮で初演され大成功した(ただしアメリカでだけ))。
が、日本の音楽はさっぱりわからん。というか、東の猿の国に国家とか革命とかあるのか? ねぇだろうな。しょうがねぇ連中だな。
とはいえ、あきらめてもまずいし、楽譜はリコルディから出版されて永遠(そう、これこそ永遠と呼ぶのにふさわしい)の価値を持つわけだから、適当かましたらやばい。
うーん、しょうがねぇな。リコルディあたりに頼んで、とにかく文化を知っていて教養がある、つまり音楽とイタリア語がわかる日本人の協力者を見つけることにするか。
というわけで、イタリア駐在特命全権公使の妻を協力者としてインタビューできることになった。
「でだ、奥さん、日本に国歌はあるんか?」
「そんなものはありませんよ」(君が代は紆余曲折の末1890年にエッケルト版(現行版)が成立したが、小学校のお祭り用にしか用いられていない)。ちなみに1903年にドイツで開かれた万国国歌コンクールで君が代が1位を取ることになるが、1900年現在のプッチーニも公使夫人も知る由はない。
「えー、や」
「まあ、野蛮な連中が多い国ですからね」
「これは、し」
「失礼な人だと思いますが、芸術家ってのはそんなものでしょ、邪菰」
「ひでぇ呼ばれ方だけど、まあお相子ということで、では革命歌は?」
「そんな気の利いたものありませんよ」
「でも、なんか将軍と皇帝で戦争して皇帝軍が勝ったわけでしょ?(調べた)」
「皇帝というよりも、薩長ですけどね」
「で、皇帝軍だって行進すれば歌とか歌うんじゃないですかね」
「あー、そういわれれば」
「それをぜひぜひ」
「宮さん、宮さん、お馬の前をひらひらするのはなんじゃいな? あーれは、賊軍成敗せよとの錦の御旗じゃ知らないか」
「なんだ、その歌」
「薩長土肥の野蛮人にはぴったりですよね」
「でも、音階は東洋風だし、調子は良いからオーケストレーションで頑張ればどうにかなりそうだな(音色の計算を始める)」
「さすが、芸術家ですわね」
「で、どういう意味なんですか? その歌」
「宮さん、正確にはお宮様で、皇帝というか天皇家の人に対する呼びかけで始まりますね」
「えー、皇帝が親征したんですか?」
「まさか。多分、親戚の誰かが人質として薩長と一緒に進軍させられたんでしょうね。ここでは、「王子様」とでも訳すと良さそう」
「王子様って、王政復古の反動のクソどもなのか? 皇帝とかいうから、逆だと思ってた(フランスではナポレオン帝政の後に、ブルボン王朝の反動期が来てすさまじい抑圧と虐殺があったのをプッチーニは知っていたし、前作トスカで、ナポレオン派(=民主主義者)をナポリ王党派の連中が虐待して殺戮する不愉快なオペラを作っている)……」
「まあ、相手も将軍ですし、気にしてもしょうがないですよ。そちらのガリバルディも統一したらエマヌエルⅡ世の王国にしちゃったじゃないですか(1860年テアーノの握手)」
「ああ、奥さん、確かに私は教養人を協力者に迎えられたようですね。では「王子様」の続きを」
「王子様が騎乗している馬の前を旗持ちがぴらぴら妙なものを翻しているが、そりゃなんですか?」
「それ、沿道の住民が行軍を見ながら歌ってるってことですか?」
「行軍しているのが野蛮人だから、王子様の馬の周りを見て、あれはなんだろう? わけわからんけど、おれたちそもそも何のために武器持って歩いているんだ?と話し合ってるってことでしょう」
「ひでぇ内容だ」
「まあ、薩長のことですから」
「では続きを」
「あの旗は、錦の御旗といって、天皇御自らから賜った旗で、それを掲げた軍隊は、賊軍、つまり天皇に反逆する者どもを虐殺してよろしい、という委任状を意味するのだぞ、なんと名誉なことだろう」
「わけわからん。まあ、歌詞は使わないからいいや。どうもありがとう」
「お役に立てたかしら?」
「あと、そういうの関係ない普通の音曲もいくつか教えていただければ」
「桜はどうかしら? さくら、さくら……」
「あ、それいい。良いシーンで使おう、メモメモ」
かくして蝶々夫人はできあがったが、あまりにピンカートンが反省しないクズ、アメリカ領事は日本人を猿扱いする愚物と、さらには蝶々夫人とピンカートン夫人がキャットファイトを口で繰り広げるというひどい代物でブーイングの嵐となった。
プッチーニは反省して、アメリカ領事は軍人として明日の命もわからぬピンカートンの事情もわかり子供過ぎて契約結婚の意味がわかっていない蝶々夫人に深く同情もするまともな政治家としてセリフを削りまくり、ピンカートンにはクズではあるが最後の最後に深い後悔を示す歌(愛の隠れ家)を与え、蝶々夫人とピンカートン夫人のキャットファイトは、蝶々夫人に忠実な女中(オペラ文脈では財産が尽きても椿姫に最期まで寄り添う女中や、アンドレア・シェニエの恋人のマッダレーナのために体を張る女中のベルシとか前例があるので観客にも納得させやすい)とピンカートン夫人の密やかな話し合いにと大幅変更して、最終的には大成功を収める。
ペーパームーンは中学生の頃日曜ロードショーかなにかで観たことある(相当おもしろかった記憶はある)けど、ボグダノヴィチってどうも折り合いが良くなくて有名なわりには意識的には観たことなかった。
で、例によって妻が借りて来た(ただし図書館のDVD)ので一緒に観た。
すげー退屈した。だめじゃん。なんというか、特に最初の10分くらいであまりの取ってつけ方に笑ってしまった。要は1950年代初頭の生活と映画を1950年代風の映画として1950年代風に作りたかったでござるでござるでござる×100みたいな主張の強さが鼻につきまくる。
というか、音楽がロックンロール未満時代で固めていたりでカントリーばかりだったり(ただ、Rose, Rose, I Love Youが流れるのには驚いた)、紙巻きたばこはまだ自分で巻くのが当たり前だったり、遊び人でも高校生だと身持ちがそれなりに固かったりとか、ディティールへの気配りとかすべてがすべてやり過ぎ感に溢れていて、それが映画愛を突き抜けて自己顕示欲として爆発しているようにしか見えない。
小さな田舎町ものに付き物の外の世界への憧れとして、Rose, Rose, I love youやミズーリ!やオデッサ・テキサス、ダラスとかを出してきているのはわかるのし、そのあたりの脚本含めた小道具の妙味はわからんでもないけど、映画として退屈なのはどうにもならなかった。で、外へ出るチャンスは金持ちの子弟の大学行きか、兵役で朝鮮なわけか(まさか、退屈さを表現するために退屈な映画を作ったということはないだろう)。
この作家が映画が好きなのはすごくわかる。わざわざ映画館に貼ってあるポスターがジェームズキャグニーの白熱だったりするわけだ。
しかも、二人で(レレレのお兄さん――いつも箒を持って掃除している――もいるけど)観るザ・ラスト・ピクチャー・ショーが赤い河で、ジョン・ウェインが(全身映って)「ミズーリへ行くぞ」(間)「おお!(顔)」「おお!(顔)」「おお!(顔)」のシーンなわけなのだが、残念、ハワードホークスのたかが数10秒のシーンのほうが遥かに映画だった。っていうか、赤い河をまた観たくなった。その意味では赤い河という大傑作の記憶を喚起させてくれるわけで素晴らしい作品とは言える。(間)が妙に長いのかも知れない。役者に微妙な表情をさせてシーンを終わらせるというのが多過ぎる。
ただ、1シーン、河のほとりに車を停めてのキスシーンは絶妙だと思った。このシーンはとても美しい。残念なことにもっとうまい作家であればもっと良いシーンになったはずの、サム・ザ・ライオンとサニーの釣りのシーンは単なるシーンでしかなった。
でも、まあ観て損はしなかったか、な?
その他のおもしろかった点: 「オデッサに石油を掘りに行く」というセリフに反応して妻が「オデッサ・ファイル」とかの「オデッサ?」とか言うが、確かあれは東だし1950年代初頭に東へ行くなんてありえないから、「パリス・テキサス(これは傑作)があるくらいだから、オデッサ・テキサスがあるんじゃないか?」と言ったら本当にそうだった。テキサスにはなんでもあるんだな(おそらく「トーキョー・テキサス」とか「オーザカ・テキサス」とかもあるかも知れない。
要は今となっては、これを観るよりサイダーハウスルールとかビッグフィッシュとか同じような過去を振り返る作品でも遥かにおもしろい作品がある(バックトゥザフューチャーも同じジャンルをとんでもないエンターテインメントに仕立てている。そういえばロケットボーイズもそうだが、映画のロケットボーイズもそれほどおもしろくはなかったな)ので、観るのであれば優先順位は全然下になるということなのだった(もちろん、それらと違うのは、徹底的に外に出ない映画なわけだが、何かちぐはぐなんだよなぁ)。
荒木村重が籠城中に巻き起こる不可解な事件の解決に、地下牢に閉じ込めた黒田官兵衛の知恵を拝借しながら解決していく安楽椅子探偵ものの推理小説の形式をとった、乱世の梟雄二人の丁々発止のやり取りを描く武士の人生哲学ものの形式をとった、戦国武将歴史小説の形式をとった、一向宗の教えを語る(は少し嘘だな)、いろいろに味わえる小説だった。一言なら伝奇小説だな。
村重が相談相手に足るものが城中に誰もいないので織田家臣団にいたときは多士済々で良かったなと述懐したり、それを見越して官兵衛が偉そうに振舞ったりするのがおもしろい。
当然、歴史小説なので最後に黒田官兵衛は救出されるし荒木村重は名物を抱えて逃げ出すのだが、巧妙に組まれていておもしろかった。
おれはtDiaryをCGIで(未だに!)運用しているから、一度ERbでパースした日記の表示はキャッシュの表示となるから大したことはない(といってもIndexMainのロードまではそれなりにいろいろ読みまくりパースしまくり実行しまくる)が、更新はupdate.rbの都度起動となり、都度起動であればtDiaryは構成ファイルをパースし(Rubyプログラムによくある構成ファイル自体がDSLとなっている)各種プラグインを読み込んだりするのでそれなりに時間がかかる。
これが、今までは最悪10秒以上かかっていたわけだが(まあ、せいぜい週1~2回なので我慢の範疇)、えらく高速化されて(空日記だっと1秒かからん)驚いた。
NEWSを読む限り、instance_evalの最適化(シングルトンとして評価する)が、効いているのだと考えるのだが、それにしても、ここまでRubyのバージョンを上げて高速化を体感できたのは初めてな気がする。
黒牢城の読了について書いたらma2が、時代物とミステリーの融合でモノスゲーのは『猫間地獄のわらべ歌』とコメントしてくれた。
題名が妙なので興味を持ってアマゾンで調べたらKindleか古本の2択となっている。
で、古本のほうが送料を込みでも安かったのでそちらを買って読み始めたら滅法おもしろくあっという間に読了した。
江戸の下屋敷の蔵の中での切腹事件を、切腹はいかにも管理職の責任が問われるのはまずいので押し込み強盗による密室殺人事件として設定しろと命じられた主人公とその相棒がいろいろ頭を捻る。
ちょうどその頃、国許ではわらべ歌になぞらえた連続殺人事件が勃発するが、はて真相は、というミステリーなのだが、江戸の主人公の「おれ」一人称と歯切れが良い文体、唐突にメタな考察が始まるなど、10代の頃読みまくった筒井康隆の小説みたいだなとか考えたら、この作者はどうもそれを狙っているらしく(富豪刑事の時代物版を作っているそうだ)うまいものだと思った。
おれ自身はお江戸の情勢には疎くはないので豪商殺人事件のトリックはすぐにわかったが、それはそれとしてそもそも謎解きを楽しむ作品ではなく、謎解きを含めた作品そのもの構造を楽しむメタ小説だったのでえらく堪能した。
出品者たちは自動化しているらしく、購入したときは本当の古本の値段だったのが、その後書影を取りにいったら元価格の50倍の馬鹿げた価格となっていて、それから5日たった現在は元価格の25倍の馬鹿げた価格となっている。売れたら価格を引き上げるというのはビジネスとしてはありだとは思うが、Kindle版も出ているのにそのアルゴリズムはあまり賢明とは思えない。
妻がプライムでロメール無料祭りをしているというので、未見(だと思う)の飛行士の妻を観ようとしたら、日本では観られない設定だったので、しょうがない、同じく未見のはずのパリのランデブーを観た。うーん初見だと思うが(そもそも日本でも公開したのか? と疑問もあるが、クレールの膝のようにアテネで観たのもあるから微妙だ)。
それにしてもおれはロメールの映画、本当に好きだなと再確認。
60年代に撮ったのか?と思うような紙切れに手で書いたようないい加減な題が出て(なのでクレールなどと同時代の作品だと思って観始めたがどう見ても6~70年代とは思えず最後に1990年代の作品として納得)、街角のバンドネオンと歌手が、パリでランデブー(カタカナとしては死語になったな。宇宙船もドッキングとか英語みたいなカタカナ使うようになったし)だよんだよんみたいなくだらない歌を歌うと本編が始まる。
最初のエピソードは二股かけてる恋人の二股現場に偶然二股の相手と連れ立って現れてしまって別れたあとに謎のスリまたはナンパ師が待ちぼうけを食らう。
また歌とバンドネオン。ハッピーになるか悲劇になるかはわからないけどランデブーは楽しいなみたいなくだらない歌。
妻が、それにしてもロメールの映画に出てくる人物はみんな島村みたいな服を着ているなとか言い出す。それがやつらのBCBGなんだろうと返す。
次のエピソードはおしゃべり女とランデブーして公園やら墓地やらを散歩しまくる話。最高。とにかく二人で喋りまくる。女の現在の同棲相手が旅行に行くということで、二人で旅行者のように東駅からパリへ戻る。男のほうはわざわざ日本語のガイドブックを持参してくる。しかし、目当てのホテルーー洗濯船の脇のマロニエに隠れたーーに着きそうになったところで女の現在の同棲相手が別の女とホテルに入るのを目撃する。女は私のアイディアをパクるとはと怒り心頭で男を追い返す。
バンドネオンと歌。
画家(ここまでは大学生だったのが急に大人になる)がなんかデルヴォーとアンソールを混ぜたような油絵を描いている。北欧の女が登場。スウェーデンの女友達がパリ案内しろと送り込んできたのだ。自分の絵の色使いが悪いとか言い出すので気分を害する。ピカソ美術館に行きたいというので案内して入り口でおっぽりだす。と、道にいる女が気になり尾行する。女もピカソ美術館に入り、母と子の前でカタログに模写か感想を書くだかを始める。パリの美術館は本物の美術館だな! 男、北欧女に捕まるのでいろいろ言いながら母と子の前に来る。男、延々と絵の説明を始める。女、男がうるさいので立ち去る。男、北欧女に適当を言って追いかける。私は20分後に夫とジュネーブへ帰るのよ。そこをなんとか、と男食い下がってアトリエに連れていく。絵画談義をする。女去る。男が続きを描いていると電話がかかってくる。夜遊びに来いよ。男しばし考えるが承諾する。男カフェで待つ(多分北欧女を)。が、来ない。男電話して行けなくなったと伝える。まあ良かったなと呟く。
おしまい。
特に2番目が最高。とにかく歩いてなぜ自分は今の男と一緒に暮らしていてお前とは寝ないのかみたいなことを延々と喋りまくるだけなのに抜群におもしろい。映画だからだ。
役者はおそらく全員ほぼ素人だろう。特にエピソード1ではあまりのシチュエーションのくだらなさに役者が地で笑ってしまっているショットが結構ある。まさに映画で楽しい。
妻が洗濯船を知らないというので、ピカソやアポリネールなんかが共同で住んでた、日本で言うとトキワ荘だな、もちろんピカソもアポリネールも漫画家ではないけど、と説明したら妙に受けて笑いだした。
日本で最初のアパアトは同潤会で大正だし、芸術家が共同生活なんて(白樺村とか目白村とかだって、基本戸建で別々に暮らしている、夏目漱石のところに書生として内田百間がいるみたいなのはあるけど、先生と書生の関係とは違うからやはり)トキワ荘の時代にならなきゃないだろうと言ったら、いやそんなことはないはずとか言い出してしばし考えていたがやはり思いつかないようだった。
と書いているうちに石川啄木と金田一京助は同じ下宿だったと思い出したが、洗濯船の人数ではないな。
ラストショーを観たせいで赤い河を観たくなったのでこれまたプライムで観る。
コマンチ族は問答無用で襲ってくるから問答無用で撃ち殺すわけだが、いやそれはお前の土地ではないし不法侵入者のくせに偉そうだなとか今の目で見てしまうわけだが、なぜかそれなりにバランスしているのでそうは気にはならない。たとえば、旅の重要な仲間に(おそらく白人融和政策をとっているから)ナバホ族がいたりする。
それでも赤い河を渡って、ジョン・ウェイン演ずるトムがここをおれの牧場にすると宣言すると向うから男が二人馬に乗ってやってくるシーケンスとかには頭を抱える。
「ここはディエゴの旦那の土地だ」
「いや、おれの土地だ。そもそもなんでディエゴとやらの土地と言えるんだ?」
「スペイン王からもらったからだ」
「知るか。河からこっちはおれの土地だ。帰ってディエゴにそう伝えろ」
「そういう口を利くやつはこれまでも見たことがある。全員、この土地の肥やしとなっているがな」
「試すか?」
(早打ち合戦)
と、完全にヤクザだなぁと不快になる。しかしおもしろい。ホークスの映画は話が早いのだ。それが観ていて快感となる。
女と別れるとすぐに煙が上がって燃やされたことがわかるとか、最初から調子が良い。
南北戦争ですっからかんになった南部では牛1頭が小麦粉100gより安くなってしまう。
14年かけて大牧場を作り上げたトムは牛10000頭を持っているが、破産と同じこととなる。一方、北部ではみんな肉を食べたいが牛はいない。ミズーリに行けば1頭20ドルで売れる。ならばミズーリへ行くまでだ。
いちいち牛を分離できないので近隣の牧場の牛も全部ひっくるめて出ようとすると、そこに隣の牧場主が用心棒を連れて文句を言いに来る。
そうはいってもお前もジリ貧じゃないか。おれがミズーリで売って来る。お前の牛の分は1頭あたり2ドルで支払う。無事に帰れたら、だけどな。
手打ちとなる。
マシュー(インディアンに幌馬車隊を襲われて孤児になった子供が成長するとモンゴメリークリフトになる)とチェリー(隣の貧乏農場の用心棒だが、トムの貫禄に惚れて転職)の早打ち合戦も楽しい。
「ミズーリへ行くぞ!」
「ハイヤー(顔、顔、顔)」
名シーンだなぁ。ここで牛の大群を示すために360度回転のような(途中継ぎ目が入っているようにも見えるが)撮影をするのだが、気持ちが良い。
女房が欲しがっていたから赤い靴を買ってやるんだと、死亡フラグは見事なまでに死亡フラグになっていたり。牛の暴走はおっかない(ライオンキングどころではない)。というか撮影中に数人は死んでいるんじゃないか?
それにしても100人のカウボーイが10000頭の牛を引き連れて(連環の計とかはなく単に歩いている)数1000マイルも旅をする(どうも史実をある程度下敷きにしているらしい)のはすごいものだ。カウボーイってすごい技術なのだな。それを言ったらCGとか無い時代だから、スタジオ内に少なくとも100頭くらいは連れ込んで撮影しているのだろうから、その訓育技術も凄いものだ。
撃ち合いによってトム(牧場主で、主役なので当然ジョンウェイン)を追放したマシューが無事カンザスの鉄道駅の町にたどり着き無事トム名義で小切手を切らせてからのトムとの対峙(その前に加勢しようとした、または腕試しをしようとしたチェリーは殺されてしまったのだろうか?)が当然のように殴り合いとなり、おそらく二人とも倒れて笑いながら手に手を取って引き上げて和解となるかと思ったら、ここで旅の娼婦が割り込んできて演説を始めるのには、お、そう来るかと思った。西部では女性も強いのだ、という良いシーン。
問答無用でインディアンを殺そうが、傑作は傑作なのだった。
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