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アニメのときは妻と二人で観に行ったんだから、何十年も前のことが、こんだ親子そろって観に行くことになって、その間にディズニーはピクサーを取り込んで全然違う映画の世界になっているわけだが、やはり比較してしまうわけだ。
で、オーソンウェルズの市民ケーン風なカメラワークで周縁の語り部の言葉が歌にのって物語の舞台に潜り込むシーンがどえらくうまくて舌を巻きまくる。さあ映画が始まるよというわくわく感は実に見事なものだ。
語り部におちを付けるとか、全体の構造も見事なものだ。
主役は、アニメと同じで口を歪めて出てくるのでなんじゃこりゃと思っていると、周囲からの視線の変化に合わせてだんだんと顔が整っていき、最後は立派な人物になるとかおもしろい。
とにかく魔法の絨毯の映像化が抜群。アニメと同じく単なる絨毯のままでちゃんと感情表現ができていてすごかった。
ジェファーの造形がおもしろく、アニメは見るからに巨悪っぽいのが、こちらは単なるデコ助坊やで、最初の登場であれなんだこれ? と拍子抜けして観ていると、ランプの洞窟のシーンでアラジンに芸を披露して炊きつけるので、ああ、なるほどアラジンのダークサイドなのかと理解する。
この自分は本物ではないと信じるデコ助があり得ない本物の自分になろうとするという点で共通しているので、アラジンは心理的弱点を突けるし、3番目の選択をするというのはきれいな物語だった。
ただ、ジャスミンはデコ助が言うように、あまりにも現実を知らない(商品を獲得するには対価を払うことすら知らないのに、わたしは勉強をしたとか、確かに笑止千万)ので、ちょっとジャスミンに焦点を当てるにしては、元の話との整合性がうまく取れていないなぁとは思った。
逆に、解放されたジーニーが無敵の魔人のまま世界旅行に行くのではなく、人間化するというおちのつけかたもきれいだった。
まあ、こんなものだな。
かれこれ30年ほど前に、沢島忠という作家主義ではなく、三船敏郎の映画という文脈で新選組を観たのだが、とにかくえらく違和感があった。
この映画では最後の薩摩の有馬藤太(この映画のおかげもあって、唯一おれの中で歴史上好感が持てる薩摩である)との直談判が印象的なのだが、徹頭徹尾、近藤勇の映画なのだ。また三船敏郎が通常の無頼漢風の演技を抑えているのもわかるのだが、この映画を観る限り、新選組とは一にも二にも近藤勇で、やばいのが伊東甲子太郎、良い奴が山南敬助だ。
映画としてははっきり言ってまったく良いところがない、紙芝居をフィルムに無駄に投射したようなものだが、逆に有馬との直談判は絵的に紙芝居がぴったりはまっているので良かったのだろう。鳥羽・伏見の戦いなんか最悪の映画のお手本で、右から「うおー」と攻めて行くと、今度は左から「錦の御旗が立ったぞー」と言いながら逃げて来ておしまいというようなものだった。
という映画のだめさ加減とは関係なく、一にも二にも近藤勇、三四がなくて伊東甲子太郎で五に山南敬助という点に違和感がありまくる。
つまり土方歳三の影の薄さに違和感がすごかった。
沢島忠の新選組は1969年の映画だが、観たのは多分池袋文芸坐の三船回顧展かなにかで80年代の初めの頃と思う。
その当時のおれにとって新選組についての知識は主に1970年後半以降に読んだマンガからだった。
つまり、望月三起也、和田慎二、そしてみなもと太郎によって、新選組を知ったその目には、沢島忠の新選組は実に奇怪だった。
(みなもと太郎の新選組も表紙からわかるように、みなもと組の役者で、近藤勇はダヨーン、沖田総司が頭が悪い人で、主役は土方歳三だ。最後、五稜郭から飛び出して戦死するシーンは良く覚えている)
和田慎二では沖田は美少年なのは良いとして、土方が圧倒的に主役で、近藤は気のいいおっさんに過ぎなかった記憶がある。
まあ、不思議なこともあるものだが、三船敏郎っておれさま主義者だから、おれが演じるなら局長、ならば最高なのは局長、当然局長が歴史を回すとかにしたのかなぁで終わりにしていた。
世の中にはおもしろい人がいる。
なぜ、土方が鬼の副長と呼ばれるようになったのかを調べた人がいる。
その、土方歳三がいつの間にか「鬼の副長」と呼ばれていた経緯という自由研究を読んで、ああそうだったのかと得心しまくった。
1964年に司馬遼太郎が、新選組を取り上げて、そこで土方歳三をクローズアップしたのが、変化のきっかけだったのか。
沢島忠の映画は1969年で司馬より後だが、むしろ子母澤寛にそっていたのだとすると話が合う。
一方、上であげたマンガ群は、完全に司馬遼太郎の影響下にあるのだろう。
みなもと太郎がおそらく1971年くらい、望月三起也がもう少し後ではないか(どこかのインタビューで断然土方とか喋っているのを読んだ記憶があるが、司馬遼太郎の新選組の土方、ということに違いない)、和田慎二は80年代になっていたのではなかろうか。浅黄色という言葉を和田慎二のマンガで覚えた記憶は鮮明だが、あまりおもしろいマンガではなかったような。
(プレミアムつけて売っているやつがいた)
音楽で一番好きなのはプッチーニだが、もちろん演奏家と体調といったものにも左右される。ただ、たとえば蝶々夫人の花嫁行列が立ち現れるところや、トゥランドットでリューが氷の女王の次に歌うバイオリンソロに重ねて歌い始める箇所など、そこのメロディとオーケストレーション、特にオーケストレーションなので音色ということになるのだが、に凄まじい快感があって、それはワーグナーだとジークフリートの最後ハープが上昇してブリュンヒルデが目覚めの挨拶を歌い出す瞬間とかでもそうなのだが(そしてワーグナーの場合は全作品を通して、そこしかない。あとはザンドナーイのフランチェスカの3幕途中の箇所とか北イタリア学派にはそれなりにあるので、おそらく和声進行と音色が特におれにとっては重要なのだろう)、快感としか表現しようがない。カタルシスではない。
で、それ以外の表現芸術ではこの種の快感というのはまったくないのだが(唯一の例外が、とても良くできた飛翔シーン、それも飛び立った瞬間の映画や舞台となるのだが、これまで舞台では野田秀樹で1回だけ、映画でも数えるほどしかない)、今日、新国立劇場で蝶々夫人を観ていて、あれ? 昨日、映画館で同種の快感を味わったぞ、と気づいた。
で、昨日観たのはアラジンだが、確かに飛翔シーンはあり、メンケンの音楽は最高だが、でもアニメほどの快感はなく、あれはなんだったか? と考えて、思い出したが、新海誠の天気の子の予告編なのだった。
新海誠は、まともに観たのは君の名はだけだし、正直まったく絵柄も話も何もかもが好きではないが(ついでだが、アニメの声優のセリフ回しが実に気持ちが悪く耳に不快でたまらんのだが、ジブリの場合は同じような感覚の人が作っているのか、とてもまともに観ていられる)、空に向けてカメラが向けられてそこから光が注ぎ落ちる映像は別格だ。あれはプッチーニと同じくらいの快感で、ということは、天気の子は映画館に観に行くのだろうなぁと思うのだった。
Twitterを眺めていたら、誰かのツィットで妙におもしろそうな本だったので買って読んだ。
天下の奇書と呼んで差支えなかろう。
とにもかくにも読了したのはおもしろかったからなのだが、一方、まるで聖書(の旧約聖書で人名がずらずら並ぶあたり)を読んでいるかのような苦行でもあった。
最初は、何しろ鉄の作り方なんて知らないから実に興味深い。高温で溶かすための仕組みや、化学反応で炭素や酸素を取り除いたりする過程がおもしろいのなんのって、おう、こういうものを楽しめるということは、中学高校で習った化学の基礎知識は役に立っているうえに身にもついてるじゃん(といっても、基本、FeとCとOしか出てこないから単純極まりないわけだけど)、とか思わぬ自己発見すらある。
が、1/4くらい読み終わるうちに、世界中の溶鉱炉を訪ね、歴史上の製鉄技術を訪ね、さまざまな鉄の作り方が説明されているうちに大きな疑問が湧いて来る。
砂鉄しか取れない日本、鉄鉱石のうち~成分が多い地方、~成分が多い地方、コークスを発明したイギリス、炉の作り方にも地域特性があるからそれぞれで作り方が異なるのは良いけれど、
羽口前で木炭を燃焼すると、羽口前から上部は酸化雰囲気になり温度が上がった。そこに銑鉄や鋼の小片、あるいは銑鉄の棒の先端を挿入しゆっくり加熱し溶解した。銑鉄は溶け、脱炭しながら炉底のスラグ溜めに滴下した。滴下に応じて銑鉄棒を少しずつ炉に挿入し、木炭を常にいっぱいになるよう装荷した。このとき銑鉄中のシリコンが酸化し、鉄も一部酸化してファイアライト組成のスラグを生成し炉底に流れ落ちる。スラグ溜めには(後略、37%)
みたいな、観察記録が延々と続くのだった。で、確かにどのタイミングで何が起きるか、いつ酸化するか、いつ脱炭するかは、それぞれで微妙に異なるし、燃料や炉の形状によって温度も異なるのだが、言ってしまえば、末尾に;がつくか、ステートメントの切れ目に:がつくかみたいな違いをずーっと文章で説明している。著者もすごいが、編集者もえらいよ、この本は。
そりゃ、そういう本なのだというのはわかるのだが、もうずっとなぜおれはこんな細かい相違点について同じような文章を延々と読んでいるのだろうか? という疑問が離れない。良くできたスクリアビンの音楽のようでもある。窓が違うが出てくる顔はみな同じというやつだ。
が、それが読書の快感でもあるのが不可解極まりない。まさにスクリアビン的だ。
少なくとも小学校高学年か中学生のうちに、本書を読んで、読了後に、反射炉と第3の製鉄方法と、たたら製法の違いについて400字にまとめる能力を身に着けると、すごくよろしかろうとかすら考える。というか、入試問題用の文章としては抜群に良いかも。
たたら製法によって作った鉄は現代式の鉄よりも錆びないメカニズムの説明とかもえらく興味深い。鉄といっても純Feではないので、酸化しかたが異なるからだ。
そして、最後、驚くべきことに電子レンジを使った製鉄が出てくる。そんなことできるの? それができるということが説明される。
アルミナやマグネシアは室温ではほとんどマイクロ波を吸収しないが、1000℃程度の高温になると突然発熱し暴走することがある。マグネタイトや炭材は室温から周波数2.45GHzのマイクロ波をよく吸収し、ヘマタイトは300℃以上で吸収するようになる。そこで、鉄鉱石と炭材の混合粉末にマイクロ波を照射すると、原料自体が効率良く発熱し製鉄ができる。
図19-3に電子レンジを用いた製鉄実験の図を示す。(後略)
で、化石燃料で製鉄するよりも電気のほうが高効率なので、どうすれば製鉄所を電化できるかの考察に向かう。抜群におもしろい。読み進めていて良かった!
人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理 (ブルーバックス)(永田和宏)
それにしてもこの人が1950年代の中華人民共和国にいたら、土炮炉大作戦が成功して=大躍進に成功して、世界の在り方もずいぶん違っていたかも、とか思わなくもない。
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