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新国立劇場で修道女アンジェリカと子どもと魔法。
修道女アンジェリカの肝は伯母さんの扱いとラストなのだが(仔羊を飼いたいは好きだが本筋ではないからなぁ)、これは実に良かった。
伯母さんの扱いによっては遺産を無理やり奪い取るひどい仕草に見えるが、この演出の伯母さんは他に手段がなくてどうにもならない感を出している。そのため遺産も妹とは別にアンジェリカ自身の相続分を受け取るためのサインに見える。当然、子供について黙っていたのはあえて無視して教えなかったというよりも、とてもではないが教えることができなかったのだというように見える。伯母さんも悩んでいるのだった。
ラストについては、どれだけわざとらしくても子供が出てくる演出は嫌いではない。その方法で見事だったのは先日友人の家で録画を観た2022年ザルツブルク音楽祭のグレゴリアンのアンジェリカで、万感胸に迫る見事なラストだったわけだが、新国立劇場の粟国演出は、その日が泉が黄金に輝く恩寵の日であるという点に着目した、その方法があったか! と目が覚める最後だった。なるほどなぁ。
逆に、直前のシーンでは、なぜ薬草園に行かずに良くわからない抽象的な場所にアンジェリカを導くのか? と思ったわけだが、最後の恩寵の光を効果的に使うにはその必要があったわけで、なるほどこういうことだったのかと感心しまくった。
子どもと魔法は初めて聴く音楽で、本当にこれはラヴェルなの? という感じがするがカエル3人組のダンスが素晴らしくて万事OK。バレエ団を持っている歌劇場は良いものだ。
それはそれとして河野鉄平の存在感は相変わらず素晴らしい。
20世紀の歌劇については、ちょっとしたアンビバレンツを感じていて、それは観客として子供を想定する場合があるにも関わらず(19世紀の作曲家は子供を観客に想定なんかするわけがない)、優れた作曲家は子供向けだからといって頭の悪い調性音楽で書ききることに対するなんらかの逡巡がありそうなことだ。
で考えてみると、フンパーディンクにしろヤナーチェクにしろ(賢い女狐が本当に子供向けかどうかは微妙で人間パートは浮気の話なわけだが)このラヴェルにしても観客に子供を想定する場合は実に楽しいバレエを入れることで、その点をうまく凌ごうとしているのではなかろうか。
ル・シネマ宮下でデプレシャンのfrère et sœurを観る。日本に配給されるのは8年ぶりなので楽しみ。
特におおこれは映画! と楽しんだのは病院の廊下で弟(ルイ)の存在に気付いた姉(アリス)がいきなり顔側から倒れて、驚いた看護士が急病と思って話しかけると「会いたくない」と言うところ。このシーンはまさに映画で抜群。クリスマス物語で唯一覚えている歩道でいきなり倒れるところみたいだ。
物語は自由自在に過去の因縁と現在を行き来するのだが、最初その仕組みに気付かずレストランで弟が(この時点では)恋人に唆されてアリス! と呼ぶところで一瞬、この女は誰だ? と思った。
そのような仕組みなので、駅の裏のスーパーで買い物かごを落とすシーンではごく自然に話し合ってしまう現在がスムーズに溶け込む。
最初の父親との面会で、父親が一切アリスのほうを見ず(呼びかけもしない)にフィデル(もう一人の弟)とばかり話すところが、アリスと父親の関係に対してどうなっているのか疑問を持たせる(そのシーンより後では普通に話しているので、妻の状態がわからない時点と、わかった時点での心理的な変化なのか、演出上の思いつきなのかはわからなかった)。
シナゴーグにルイが友人の精神科医と訪れるところはおもしろい。帽子は被るが、靴が革靴なのでちょっとまずいのではないかと気にするところでは、そういうものなのかと知った。このシーンは物語ではどうでも良いシーンなのでおもしろいので入れたのだろう。
家族の映画で、家族の確執がテーマという点ではドワイヤンみたいだが、正直なところ、デプレシャンのこのタイプの映画はあまり大したことはないと思った。おもしろいは抜群におもしろいのだが。
やはり映画としてうまいのはサスペンスの作り方で、その意味では、なぜ姉と弟がここまで憎みあうのか、がおもしろい。ルイがアリスの息子(ルイになついている)に対していきなり怒りをぶつけまくるシーンは恐怖ですらある。
ルイの死んだ息子の写真が入ったペンダントの行方のように途中で忘れてしまったのか? というような設定(ルイに渡すことで和解のトリガーになるのかと思った)。
アリスの舞台シーン(成功した女優なのだ)の最初のところでダーシーという男に関する台詞があるので、高慢と偏見を舞台化した劇をかけているのかと思って、なるほど高慢と偏見がテーマなのかなぁと思うと、全然関係なかったり。
第1次世界大戦後という時代をデラシネ(コスモポリタン)と自らを律して中近東をうろうろした女性の写真家/作家アンネマリー・シュヴァルツェンバッハの短編集。
女性に対する描写が妙だと思ったら、本人レズビアンで途中ホモセクシュアルの夫と結婚して、結局女友達と放浪することになって自転車事故で30代で死んだうえに、娘の行状がまったく気に食わないナチシンパの母親が残っている作品全部焼却処分したという筋金入りのコスモポリットだった。
どうしても似たような境遇(ではない)似たような状況似たような設定のポールボウルズの作品群(天幕の夜などの、自分で自分を無意識のうちに流刑にしてしまった(こちらは欧州人ではなく米国人だが))を類推してしまうが、作家としては比較にならないほどだめなんだけど、それでも魅力はあった。
要は作家としての力量はゼロに近いと思いながらも(読んでいて退屈しまくる)結局読み切ったのは、おれが好きな真情溢るる軽薄さで満ちているからだろう。
ほとんどの作品は遺跡発掘の退屈な作業をしている欧州人の女性が仲間のアメリカ人や英国人、他の欧州人とともに、その地を訪れる欧州人(本人コスモポリットなので欧州人とそれ以外(英国人含む)を峻別している)とその地のベトウィン人やペルシャ人と、まったく合わない気候、風習、風土、文化を冷淡に眺めて(たまに親切)時間だけが過ぎて病気になって死んだりうんざりしている様子を描写するだけとなっている。
たまに越境に失敗するユダヤ人の少年や虐殺されるアルメニア人のドラマもあるが、ただ目の前を通り過ぎるだけで、デラシネ文学ここにありのような冷淡さに満ちている。が、冷淡に眺める以外にどうしようもないのだった。
おもしろくはなかったが、おもしろかった。
雨に打たれて: アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ作品集(アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ)
ただ、88%の地点で、そこまでは良い翻訳(原文は見ていないが日本語として)と思っていたのに、
ゴードンがカトリーンのところへ行って、大きな声でいった。
「気をしっかりもつのよ、カトリーン! 人前で泣くのはよくないわ!」
と、ゴードン(文句なく男)が唐突に女言葉を喚いてしまったのには驚いた。なぜここでミスして、しかもそのまま出版してしまったのだろう?
妻がおもしろそうだというので、アマゾンプライムでMr.タスクというのを観た。
最初コメディかと思って笑いながら見ていたら、どんどん不穏になりとんでもないグロテスク映画だった。あまり品は良くない。
で、妻が、これを観られたならオオカミの家も怖くないと言い出したので、イメージフォーラムへオオカミの家を観に行った。
というわけでグロテスクな映画かと思ったら、別にそういうことはなく、普通にアート映画だった。人形アニメ(絵を書き足すことによる動きが特徴的なので必ずしも人形だけというわけでもない)の造形が多少気持ち悪いのだが、それは問題とはならない。
物語は奇妙で、枠組みがある。
同じ作家の短編の「骨」というのが最初に上映されたが、この作品も1901年に作成された映画が発掘されたので修復したという枠組み(当然1901年ということから出鱈目とわかるわけだが)があったので、どうも枠組みを作ってその中で創造するのが好きなのかも知れない。
枠組みはチリ南部にあるドイツ人の集落で、周囲の現地の人たちとうまくやっていて、その証拠としての映画ということになっている。
主人公は過失で子豚を殺してしまったのでお仕置きされるのが嫌で村を飛び出し森へ逃げる。そこで見つけた家の中で子豚を飼うのだが、過失で子豚を焼き殺してしまう。その子豚に復讐されそうになるが、危ういところで救出されて村へ帰るというのが物語となっているのだが、まったくそうは読めない。
子供を殺した母親が逃げたが結局夫に連れ戻されるという物語にも読めるし、額面通りの物語にも読めるし、どうとでも解釈は可能なように構成されている。
したがって重要なのは映像ということになる。
音響は『骨』もそうだが、ノイズを混ぜることで古めかしさを醸し出す。
ここぞという無理やりな明るさではニュルンベルクのマイスタージンガーの前奏曲、気持ちが落ち着いているが何かが起きそうなところではローエングリンの(多分3幕の)前奏曲を利用する。ドイツ人の集落だけに?
なんか山城ブーム(一過性というわけではない)が妻とおれとの間にあるのだが、先日妻が八王子にも山城があるじゃんと言い出して、ちょうど天気が良くも悪くもないので八王子に滝山城址を見物に行った。
中央高速を八王子第2で降りて滝山街道とかいうところに入ると右側にやたらと滝山城入口の看板がある。
あるので、最初右折して昇ってみるとどうも怪しい。ハイキングコースっぽくなって車では行きようがなさそうで、どうしようもなくなってバックして十字路に入って切り替えして滝山街道に戻る。
と、その後もたくさん滝山城入口の看板が出てきて困惑しているうちに、大きな交差点の右角に公共の無料駐車場が出てきたので、なるほどここだと停めた。
その時点で薄々感づいたが、山1つまるまる城にしているので、どこからでも攻め込めるわけだ(足軽なら)。で、そういうハイキングコースの入り口がそこら中にあるわけだろうが、車が入れるようにはしていないということなのだろう。
で、昇り始めると想像を超える急坂で竹が両脇に生えまくっている。右手に何も書いていない祠と鳥居が出てきた。
それを通り過ぎると堀と曲輪が出てきてようやく城の入り口にたどり着いたことになる。
いろいろ看板が出ているのを読むと、ナラの病気が大流行しているので菌をばら撒かないように入るな、というのがそこら中にある。厄介なことになっているのだな。
さらに、地権者の好意で都が公開してもらっているのだから無茶はするなとかある。地権者としても山城を壊して開発もできないのだろうからどうにもならなそうだ。ありがたく歩かせてもらうことにする。
で、三の丸に続くコの字の堀の上の道を通って、広い場所(名称は忘れたが、おそらくブリーフィングをしたり、看板によれば年貢を受け取ったりする場所らしい)を横目に二の丸を攻めてから本丸へ続く道へ一度降り掛けたらつるつる滑る上に、頭上に橋が見える。どうも二の丸から本丸への橋があるようだと二の丸に戻って(二の丸には公衆便所や謎のお堂などがある)、橋を渡って本丸へ進む。
本丸は意外と狭くて、意外と質素な暮らしを北条の三男坊はしていたのかなぁとか考える。奥に無くてはならない井戸があって、覗き込むと深い深い。
神社があるのでどういう謂れかと思ったら日露戦争の地元の英霊を祀ったというようなことが書いてあって、北条関係無いじゃんとか思いながらも、それはそれで趣がないわけでもない。で、二の丸に戻って奥へ進むと山の裏手が多摩川へ続く崖でこちらから攻められることを想定して寄せ場を作ってあるとかある。
ここまで来て、なるほど一山丸ごとの城だったのかと得心した。
ナラの病気の件もあるし、ほかにも見所は多そうだったが、そこで引き返して、途中、おいしそうな椎茸の無人販売所があったので買おうと思ったら残念小銭が無いのであきらめた。
道の駅があるのは知っていたのでそちらへ向かったら無茶苦茶混んでいて車が並んでいる。が、あきらめて並ぶことにした。
蕎麦を食ってモーモーとか書いてあるソフトクリーム屋で牛乳ソフトクリーム(妻は牛乳ジェラート)を食べたら美味しかった。また食べに来よう。
やたらと立派な蕪や、やたらと小さなピーマン、雰囲気が良いラディッシュなどが美味しそうなので買って帰った。
家でピーマンを食おうと思ったらパンチホールみたいな丸い穴があいているのが紛れていた。あまりにきれいな〇なのだが、虫がいるのかなぁとおそるおそる包丁で縦に切ったら芋虫を真っ二つにしてしまった。かわいそうなことをした(生きていたらしょうがないからそのピーマンごと飼ってやるところだ)。死んだ以上は芋虫は捨てるしかないので、ピーマンは洗って食った。それにしてもなぜピーマンの緑を食って茶色い糞になるのか不思議だ。
文句はあまりないが、ARアプリがあるというのでダウンロードしようとしたら、お前のAndroid端末では動かない(古いバージョンで固定されているらしい)とPlayストアから落とせなかった。作るのは良いがメンテはして欲しいものだ。
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