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2月の中頃、旅先で用があってヤマダ電機に入った。アウトレット館だったのだが、それに気付かず、何気なくPCコーナーへ行ったらどうもおかしい(アウトレット館だからだとはあとで気づいた)。
どうも置いてあるものが見慣れないものばかりだ。
その中に2万円を少し超えたくらい(だという印象だが多分25000円くらい)でHPのChromebook G3が光っている。値段が適当だということと、なんとなくきれいなデザインだという点だ。
出先には当然のようにSurface3を持って行っていて、それは十二分に役にたっているのだが、どうも寝っ転がっても叩けるキーボードが欲しくて、そこにフラストレーションがある。そのフラストレーションの解消であれば、25000円というのはそれほど高額というわけでもない、というかChrome OSって触ったこともないから興味なくもなく(Androidの一種のLinuxということは知っているから、触ったこともないというのも微妙ではある)、えいっと買ってしまった。
ら、妙に具合が良い。
いささかタッチパネルのクリックが固すぎる気はするが、キーボードもそれほど悪くなく、適度に軽く、動作も軽く、Chrome以外はまったく利用できないとか問題がなくもなく、Google IMEは最低最悪だが(わざと無教養な人間の漢字の読み書きをシミュレートしているかのようだ)、そこにさえ目を瞑れば実に快適であるというか、確かにChromeさえ動けば相当の役に立つ。
エディターが欲しいというのはあるにしても。
自宅に戻ったあとは、開発者モードにしてCosh Windowで、Shift-Ctrl-Nでsshを動かせば、artonx.orgのLinux BoxにLoginさえすればなんでもできるし、実に良い。
気に食わないのはGoogle IMEの他は、Deleteの代わりに←があって(まるでMacみたいだ)、しかしMacのようにCtrl-Dが使えるわけではない点で、そこはくそだが、でも許容範囲と言えなくもない。
意外なのは音の良さで、Amazon MP3をChromeで使えるし、Youtubeをだらだら観るのも悪くない。というわけでなんか実に気に入った。
あまりに気に入ったのでまじめにユーザー登録しようとしたら、HPのサポートポリシーらしく、フェーズアウトした商品は購入したばかりであっても登録できないようで、そこはなんか不快であったが、でもそれ以上に良いものだ。
というわけで、突然HPのファンになった。
そういえば、えらく昔Compaqのキーボードが気に入っていたわけだから、PA-RISCやHP-UXのHPではなく、ConmpaqのHPと考えれば、気に入ってもおかしくはなかった。
というわけで、それとは全く別に、子供とMincecraft合戦をするためのノートPCが欲しかったというのもあって(Surface3ではさすがに辛そうだし)、Spectre x360も買ってしまった。
このモデルではなく、16Gメモリ1TBSSDのやつ。300%にして普通に見える4Kディスプレイは良いのだが、ついネイティブvideoというモードにしたらMinecraftがプレイできなくなってしまって閉口した。
黒金は気持ち悪いので白金バージョンにしたが、気に食わない点もそれなりにあって、底が熱い、向きによっては音が悪い(机の上に載せると素晴らしい音になる)、キーボードの妙なところにHomeがある、せっかく16GB載っているのにWindows10 HomeなのでHyper-Vが無い(MSDNサブスクライバーだからProにしてしまうという方法もないわけではないが、相当面倒なのでデフォルトのインストールOSを使いたい)、絵はきれいで、適度に軽く、相当高速に動くし、結局のところえらく気に入っている。
18日は新国立劇場でルチア。
なんとなく19日のつもりになっていたので、ついマインクラフトを朝の8時までやって、さて寝るかと思ったら、なんと今日じゃん。
というわけで1時間くらいしか寝ずに観に行く。こりゃドニゼッティ(ベルカントはそれほど好みではない)だし、高いホテル代(休憩時間)になりそうな嫌な予感がする。
新制作だし、好き好きを問わずにかかった演目は観る(金を落とす)のは国民の義務みたいなもんだと思うから行くわけではあるが、カラスで聴こうがネトレプコで聴こうが狂乱の場もさっぱりおもしろいとは思わないわけで(ドゥセのヴィデオは別の意味ではらはらしながら観てしまうのでちょっと違わなくもない)、そうとうに不安である。いびきとかかいたらさすがに礼をかき過ぎだし。
が、始まって驚いた。
序曲からすばらしい。実に巧妙な曲じゃん。
打ち付ける波しぶきがリアルな岩がそびえたつ。そこに猟銃を手にした人々が出てくる。
なんだ? この舞台美術は(あとで、天井からの投影と知ったが、ビデオの使い方がすさまじくうまい)!
が、合唱が小さい。(後ろががら空きの空間なので響かないのかなと後で気づく。他の場面ではそういうことはなかったからだ)
まともにストーリーを知らなかったのだが、台本の巧妙さと演出のうまさもあって、内容も興味深い。
場所はスコットランド(というか、これもまたウォルタースコットの作品だとは後でプログラムを読んで知った)、どうも衣装から、イングランド派と地元派の対立にまで発展したらしき2つの家の闘争の物語とわかる。
墓参り中に熊に襲われたところを助けてくれた仇敵エドガルドにルチアが恋しているようだと別の部下が報告する。激怒する兄貴。いや、命の恩人なんだろう? と突っ込みたくなるが、この件はその後いっさい出てこない。
ルチアの兄さんはイングランド派に違いない。手下にはスカート履いている連中がぞろぞろいるが、本人はイングランド風だ。ということはエドガルドはジャコバイトなんだろう。
部下だか助言役だかが妻屋で相変わらずうまい人だ。
兄さんはえらくかっこ良い。歌も良い。
場面が変わると舞台はあっというまに泉となる。あれ? 水を張っていたのではなかったのか、と驚く(くらいに、最初の岩にあたる水がリアルだった)。
ペレチャッコが乗馬服とはまた一味違うズボンで出てくるのだが、えらく美しい。というか、声が美しい。侍女の小林由佳という人も悪くない。
素晴らしいオペラじゃないか。
そこにエドガルド登場。当然のようにスカートを履いている。歌い始めるや実にレジェーロなテノールで一発で好きになる。イスマエル・ジョルディという人。
このプロダクション、最高だ。
2階真正面、前から4列目というすばらしい席で、ペレチャッコの顔の造作すら見えるのだが、イスマエルは良くわからない。
幕間に子供は、最高のイケメン兄妹なのに、エドガルドは馬だ、と酷評していたが、そうなのかな?
エドガルドは、父親を殺され、城を奪われたと怒りまくっている。
が、フランスへの密書を届ける必要があるとか言い出す。
やはり反イングランド派なんだな。しかも父親は粛清、領地は没収らしいが、反体制派の政治的な中枢からは切り離されてはいないようだ。
興奮のうちに1幕が終わる。
2幕。うってかわって重々しいルチアの兄貴の居室。
妹をアルトゥーロというやつと結婚させる陰謀をたくらんでいる。
ウィリアムが死んでメアリーが即位だ。おれは粛清される。
それにしてもイングランドは血なまぐさいなぁ。普通選挙による民主主義の一番の恩恵を受けたのは、この連中だな。
アルトゥーロというのは、派閥フリーな長者なのかな? それとも政治的立ち位置はジャコバイトに近く(地元の支持が高く)しかしイングランド派ともうまくやっていける中立の人なんだろうか。
ルチア登場。兄貴は、おれの首を切り落とした血まみれの斧の夢をみることになるぞ! と脅す。
ルチア、それとこれは話が別と取り合わない。そこで兄貴、偽手紙を見せる。フランスの女性と恋をしたというようなことが書いてある。
ルチア信じ込んで結婚を承諾する。
というようなことをやっていて、いよいよアルトゥーロも登場して結婚式になろうというところに、エドガルドが登場する。
すごい。
6重唱で、裏切り者、わたしは裏切ってしまった、妹には悪いことをした、なんということだ、おかわいそうに、が入り乱れる。
なるほど、ベルディの4重唱(リゴレット)とかは、ドニゼッティの伝統なのか。
本当に素晴らしい音楽じゃん。
しかも、ペレチャッコもジョルディもルチンスキー(兄貴のイケメン)、妻屋も抜群だ。というかアルトゥーロは良くわからんが。
またまた大興奮のうちに第2幕が終わる。
オーケストラピットを観に行くとハープを片付けて奥に置いてあったグラスハーモニカ登場。最後まで見ていた子供の話だと、床にネジで締め付けていたらしい。
そして3幕。
極端な演出だ。
荒涼とした墓地の前に椅子を置いて飯を食うエドガルド。
いや、領地を没収されたからといって、こんなスナフキンかニックアダムズみたいなことは無いだろう。
怒りに燃えていると、向こうからも怒りに燃えて兄貴登場。
お前の顔を見たら怒りがぶり返した。とか歌い始める。自然の掟だ、おまえをたたっころす。
エドガルドも負けずに歌う。お前ら一族のせいで、おれはこんなところで野宿の身だ。たたっ殺してやる。
お互いに決闘の約束をする。
そこで狂乱の場。なんと剣先にアルトゥーロの生首を突き刺してルチア登場。
1幕の美しい音楽(ハープ)がグラスハーモニカにとって変わる。
ああ、これをドニゼッティはしたかったのか。
音程が微妙に不安定になるのだ。しかも幽界からの息遣いのようでもある。
すげぇ作曲家だ。
だが、ここまでだ。観ているおれが力尽きた。幽玄の音楽にすばらしく美しい歌声が心地よ過ぎる。
気付くと、ルチアが倒れ込むところが見えた。
場面転換中、悲鳴が聞こえ、すごい音がして、何かとんでもないことが起きたらしい。が、最後は笑い声になったので、大事には至らなかったようだ。
1幕最初の岩の裏側らしきところで野宿をしているエドガルドが怒りに満ちた歌を歌う。が、ここでも力尽きる。
最後、フランケンシュタインの花嫁のように、ルチアを抱えて高いところに登っていくのが見えた。
バックステージツアーに当選したので、参加。ビデオは正面、上方、下方の3種を使っていることがわかった。
そういえば、1幕の途中でやたらとチリが飛んでいるのが目の隅に入ったが、あれは投影のための光が脇を通っていたからだな(2階の中央なのだから話が合う)。
モンテカルロ歌劇場との共同出資なので、向こうの舞台に合わせてすべて人力による装置になっている。機械と違って人間は加減しなければならない。人間なのでまあヒヤリハットもありますな。でも本来はあってはならないことなので一層気を引き締めなければ。
エドガルドの野宿シーンでは本物の火を使ったが、消防署の許可を得るのが半端ではない。劇場の容積で利用可能なガスの容積が決まる。トーキョーリングの炎は今となってはあり得ないことだ。日本では。したがってゲッツフリードリッヒ版もスェーデンでは本物の火だが、こちらではテレビをたくさん並べて火のゆらぎを(煙と合わせて)表現させたが、熱が無い。本物の炎には適わない。
というわけで、口惜し過ぎるので家に着くと同時に20日のチケットを買って今度は最後まで観ることを誓うのであった。
先日は失敗したのでやり直し。
やはり素晴らしい。
ペレチャッコはオペラ歌手として、つまり歌声、歌いまわし、所作、動き、立ち居振る舞い、表情、どれをとっても実に美しい。正直新国立劇場クラスではない(が、まだ若手の部類なので呼べたのだろう)。
以前子供がタワレコでCD買ってきたときは、まあうまいが、圧倒的というほど大したことないし、顔はおっかないしというわあけで、それほどぴんと来てなかったのだが、実際に舞台で動き回ると実に素晴らしい存在感がある。
それにしても冒頭の岩に打ち付ける波がどう見ても立体的で、これがビデオの投影とは信じがたい(今回は8列目なのではっきり舞台が見える)。もっとも、紗幕への投影は、先日は途中まで舞台を透過させているのかと思ったが、近くだと映像だとわかる(結構、目が粗い)。
2幕の演出意図がはっきりとわかって興味深かった。
ルチアは結婚を承諾した時点で完全におかしくなっているという解釈なのだ。
そのため花嫁衣裳(なのだろう。民族衣装っぽい)に着替えるときに、侍女がいるにも関わらず、ノルマンノによって乱暴に服を脱がされてドレスの中に押し込められる。
それまでの乗馬服のトラウザーと腹バンドによりむしろ男性的な強い意思の持ち主として描かれていたルチアが精神的に蹂躙されることを示す。
結婚証書に対する署名は無理やり公証人に手を動かされて行われる。
すべてはルチアの心象風景として描かれる。
エドガルドの乱入も(実際の脚本上は3幕での兄貴との会話から、事実乱入したわけなのだが)ルチアの空想に過ぎない。もっとも、あの状況でエドガルドが無傷でレイブンウッド城から逃げられることがおかしいので、その解釈は悪くない。
その心象風景の中で、アルトゥーロは槍を手にしてエドガルドに襲い掛かる。
最後にルチアは結婚証書を丸めて放り投げ、槍を手に取ろうとして侍女に押しとどめられる。
3幕の原因はここに作られる。それで、狂乱の場に登場するときに、槍にアルトゥーロの首を刺して登場してくることになる。アルトゥーロは槍を使ってエドガルドに害をなす敵としてルチアに認定され、槍によって成敗される運命となった。
すると、エドガルドがそれまでのスコットランド風のスカートから、3場ではイングランド風になっているのは、決闘を前に着替えていると考えるよりも、兄貴との対話のシーンを含めて、別れた時の、つまり1幕の泉の場でのエドガルドの姿としてルチアには見えているという演出なのだろう。フランスから帰国したエドガルドは、すでにスコットランドの民族衣装にはない。
狂乱の場は3部構成になっていて、最初のパートでは泉が出現する。ルチアが完全に向こう側に行ってしまっていることがそれで示される。
2部では兄貴が戻って来て第3者視点に戻る。そこでルチアが兄貴をエドガルドと取り違えたり、あからさまに違うものを見ていることが示される。
3部で再びルチアの視線に戻りエドガルドを死へと誘う。
この作品も17世紀のスコットランドを舞台にした物語(というかイギリスのお話)なのだから、舞台での見た目通りの20代の大人の話ではない。
多分、ルチア14歳、兄貴15歳、エドガルドもまた14歳、分別ぶったライモンドがせいぜい21歳程度なわけだ。
もし大人の話であればどうだっただろう。話は簡単で、兄貴は少しばかり自尊心を損なうことになるだろうが、エドガルドの最初の提案通り兄貴のところに結婚の申し込みに行くことにルチアは賛成すれば良い。兄貴はエドガルド(フランスへの密使をつとめる程度には信頼されているのだから次期政権では中枢に入るのは間違いない)によって政権交代に伴う粛清から難を逃れることができる。そういう計算ができる程度には先が読めるはずだ。
もちろんアルトゥーロはおもしろくないだろうが、こちらはもともと多少は政治がわかっているはずなのでどうにでもなる。
すべては丸く収まる。
それにしても、1幕の2曲のいずれでもルチンスキーの息がどこまでも続くのには驚いた。
レジデンツが来日するというので、拝殿さんたちとブルーノートにレジデンツを観に行く。
実はレジデンツはジャケットはしょっちゅう見ていたが聞いたことはなかったのだ(当時はYoutubeのような気の利いたインフラはないので、海外の不思議なアーティストの作品を聴くというのは、金を出してレコードを買うというのと等しく(直接海外へ行くという方法もあるけど)限られたリソースを何に振り向けるかというのは結構大変なことだったのだ)。
というわけで、期待にわくわくしながら、ブルーノートのやたらと木を使いまくった箱の中に入って行ったのだった。
(おもしろそうだとは思っても、なんとなくUKのアーティストにリソースを振り向けるわけだな)
始まるとペスト医師がぞろぞろ出て来て、さらに牛が出て来て、こいつらバカだなと思ったが、はじまるとすごかった。
バスドラがどんどこどんどこ鳴り響き、笛のようなギターがヒーヒー言って、キーボードがブースカブースカ鳴り響く中、牛がモーモー鳴きまくる。
おお、なんか心地良いぞ。
ジョルダーノやプッチーニの次くらいに好きな音かも知れない。
しかも、汚い小屋で立ち見ではなく、フッカフッカの革張りの黒いソファにでれんと座ってお高い飲み物片手に眺めていられるとは最高だ。
いい時代だな!
というか、70年代後半から活動しているわけだから、一体何歳なんだ? と思うと、ギターのフガーフガーは灰野敬二の同世代人たちなわけなんだなぁとか、古き良き時代の懐かしい響きなのだった。ノスタルジックなオルタナティブだ。
こんな感じでキャバレーヴォルテールやスロッピングリッスルとかも聴きたいものだと思ったら、斉藤さんが、スロッピングリッスルが再発されまくっているので、1枚目を聴いていたら何時間たっても終わらない、LPじゃないから無限にループしているわけではなくおかしいなと思ったら、リピートで1曲目を延々と繰り返しているのに気づかなかったとか言い出して、まあ、スロッピングリッスルだし、とか納得した(けど、おれは2枚目が好き、ユナーイテッド)。
The Second Annual Report Of Throbbing Gristle(Throbbing Gristle)
(なんて爽やかなジャケットなんだろうおーりっじ)
D.O.A. The Third And Final Report Of Throbbing Gristle(Throbbing Gristle)
これは今でも好きだなぁというか、このジャケットも気持ち悪い。思い出したが、DOAはパイドパイパーハウスで買ったのだった。おれが南青山で同一地点に1時間以上滞在したことがあるのが、パイドパイパーとレジデンツと岡本太郎だというところが、南青山という場所のおもしろさだ(イメージフォーラムは微妙に南青山ではないが、まあ地区としては同じだな。とすると今はなきSUVも同じか。青い部屋は行ったことない)。
Throbbing Gristle Bring You...20 Jazz Funk Greats(Throbbing Gristle)
(なんて爽やかなジャケットなんだろうおーりっじだけど、さすがにこれはおもしろいと思わなかった)
ジェネシスPオーリッジと言えば、かって渋谷にあった大盛堂の地下で購入したRE:SEARCHのMODERN PRIMITIVESで、プリンスアルバートリングを付けたら立って小便できなくなったから、女性の気持ちが良くわかる。おまえら、ちゃんと便座も上げてからしっこしろ、と力説していたのが印象深い。どうもイギリスの人たちは、便座を上げずにしっこするらしい。
川越街道の近くを車で走っていたら、群馬というか明治期の偉人の1人、高山長五郎の高山社跡はこっちという立札を見かけたので行ってみた。富岡製糸工場などと一緒に世界遺産に認定されたのが高山社跡なわけなのだった。
高山長五郎、1848年に18歳で名主となってから、なぜか明治の初年に、蚕の飼い方をいろいろ実験して、どの週(蚕は5だか6週間で繭になる)には温度と湿度はいくつというベストプラクティス(清温育)を1878年に完成させた人である。
名主だから当然のように自分のところの税収を上げることを考えたんだろうけど、結果的に、えらい経済効果を上げることになった。
1人に教えるも2人に教えるも同じだとばかりに、最初は近所の連中に教えていたわけだが、何しろ、どの週には温度はこれこれ湿度はこれこれ、そういう調整を行うためには、蚕室はこういう設計にして、という形式化した成果物の伝授だから、やたらと教育効果が高い。しかも成果が目に見えるから噂を聞きつけて全国津々浦々から教えを乞う人たちがやってくる。
というわけで1884年に高山社という会社を作り(明治17年だから今の会社とはちょっと違う)1886年に息子の菊次郎が跡を継いで事業を継続、1901年には国から認められて私立甲種高山社蚕業学校を開校、それまでの会社の伝習所という形式からますます門戸を開きまくる。蚕業は富国強兵のための外貨獲得のための国策でもあるから、やたらと好条件な学校運営が認められた。つまり学生は兵役が免除されたのだった。
日露戦争が1904年だからまさに軍靴の音が鳴り響いている時代だ。
とすれば、農家の長男は元から兵役免除だから家業で良いとして、まっさきに徴兵される次男坊、三男坊がこぞって入学してきて清温育を学ぶ。
学んで卒業すれば、しょせん次男坊、三男坊だから、家に帰ってもしょうがないというわけで、全国どこでも養蚕したいところがあればそこへ旅立つ。
肝は温度管理なわけだから、最高気温さえ問題なければ(当時だから冷房は無理)日本のどこでも養蚕しまくれる。
というわけで、お偉い先生としてその地で養蚕をふんぞり返って指導して成果を上げる。だいたいそういう場合、逗留先はその地の大農家や名主クラスの家だから、そこの娘とねんごろになって跡を取り、地元の尊敬を集めて楽しく暮らす、という人生設計が描けるのであった、というか実際に描いた人たちを輩出した。
とはいうものの昭和2年になって国の学校の整備が始まると公営化の話が出て来て、どうにも雲行きが怪しくなってくる。
元々、ミクロには一種の慈善事業というか貧農や農家の余計者の救済、マクロには外貨獲得のための産業振興という志でやっているのに、余計な茶々が入りまくる。どうも国家というやつは頭が悪い。えい面倒だ、と廃校してしまった。
というのが、高山社の物語なのだった。
高山社は直接関係ないわけだが、海外へ販路を作りたい群馬の人たちが開いた横浜港によって(群馬-横浜シルクロードだ)、生糸が流れ込まなくなった桐生の人たちが怒ったとか、それにしても、この時代の話はいろいろおもしろい。
しかし、富山製糸工場に比べてだれもいないじゃん。
情報館に入ると、手持無沙汰そうなボランティアの人が声をかけてきたので、繭を使った人形作りをやってみてひよこを作った。繭ってナイフで切ろうとすると意外と切れない。弾力性があって固いからだ。おもしろい。
高山社跡(町中に作った蚕業学校は昭和2年に廃校になるとそのままなくなってしまったので、最初の研修所の地となった高山家を高山社跡として公開しているのだった)はまだ整備中という感じで、とりあえず入口の歴史ある門の修復中だった。
高山さんの家自体は数年前までは何代目だかのお婆さんが1人暮らししていたとかで、1階はサッシを入れて近代風の手直しをした家(門の修復が済んだら、明治期の状態に復元工事をするらしい)だが、急な階段を上って2階へ上ると、そこは蚕室のままだった。
なるほど、温度調整を自在にするために、空気を自由に取り入れられるようにしてあるわ、床に穴を開けて1階の囲炉裏の熱をそのまま蚕棚の間に取り込めるようにしてあるわで、おもしろい。
というわけで、修復前の折衷様式の家も興味深いが、この状態はこれで見納めみたいだ。1階の台所の前に昔懐かしい台形で真ん中にギターみたいに穴が空いた踏み台が置いてあるとか、まだ生活臭が残っているのもおもしろかった。
今を去ること25年前、友人にエドワードヤンを観に行こうと誘われて、新宿の地下の映画館に行ってすさまじい衝撃を受けた。
まず、長い。3時間30分だ。休憩なしの3時間30分といえば、ワーグナーのラインの黄金で、そんなに長い時間、退屈しないで済むのは不可能なことだ。
が、違った。全編映画そのもので、まったく目が離せない。次に何が起きるかまったくわからない。いや、題名を見ているから知っている。主人公の中学生(15歳くらい)は、少女(14歳くらい)を殺すのだ。
その殺人が起きるところまで、絶え間ない緊張感がある。
が、それはリラックスした緊張感でもある。だいたい、張り詰めた気持ちでいたら3時間30分ももつはずがない。ユーモラスであったり、同情したり、楽しそうだったり、うらやましそうだったり、恐ろしかったりしながら、着実に時は過ぎて、少年は少女を殺す。
びっくりした。
こんな映画が作れるなんて。
何に一番近いかと聞かれれば、2017年の今なら簡単に答えられる。この世界の片隅に、だ。
最後の瞬間に何が起きるかはわかっている。その時点へ向かって着実に物語は進む。まったくゆるむことなく。しかしリラックスした緊張感である。ユーモラスであったり、同情したり、楽しそうだったり、うらやましそうだったり、恐ろしかったりしながら、着実に時は過ぎて、風が吹く。
しかし、牯嶺街少年殺人事件は実写の映画で、光と影が現実のもので、役者はほとんど素人の少年少女だ。
それからしばらくして、完全版というのがやってきた。3時間30分というのは、見やすくするためか、または映画館が入れ替えをやりやすくするために削った版だったのだ。
4時間版で印象的なのは、酔っぱらって千鳥足で歩いている近所のイヤミな食料品店の親父がドブに落ちたのを、主人公が助けるシーンで、悲劇に突き進んでいるにもかかわらず、家族にささやかな幸福が訪れつつあるところだ。
3時間半であろうが、4時間であろうが、こんな映画はほかにはない。
ベルトルッチの1900年ですら、牯嶺街少年殺人事件に比べれば退屈で死にそうだ。(実際問題、叔父さんのところでドミニクサンダが傍若無人に振舞うところとか退屈極まりない)
それが25年ぶりに公開だというので、武蔵野館へ行ってきた。
妻は途中トイレへ立つことも辞さずの構えだ。おれもまあそうだ。
しかし、そんなことは起きない。4時間なんてあっという間だ。
それにしてもすげぇ。個々の映像はかっちり覚えているのに物語はさっぱり忘れていた。忘れていたのに思い出すから、観れば観るほど細部が理解できる。
主人公はいきなり国語が50点だったせいで昼間部は落ちて夜間部へ通うことになる。親父はモンペっぽい(この設定は生きてくる)。モンペというよりも、固い男なのだ。
モノの映画だと気づく。すべてのモノに存在感と物語がある。
学校の隣のスタジオから盗んだ懐中電灯(最後に、馬小をスタジオで待っているときに、机の上に置いて来る)。常に一緒にある。
買われることがない眼鏡。
馬小が屋根裏で見つけた日本軍の将校の日本刀。最後警察に没収される。
同じく馬小のオープンリールテープレコーダー。小猫王が吹き込んだテープはプレスリーのもとへ送られて、記念品の指輪になり、それを報告するテープは刑務所でゴミ箱へ捨てられる。
上海から持ち込んだラジオは、小猫王がレコードプレーヤーの部品取りのために分解されて再構成される。その後は微妙な角度を付けないと鳴らなくなる。そのラジオを見て思わずまだ使っていたのかと唸る汪。
目が良く見えないと、パチパチ電気を付けたり消したりする小四。最初は学校、次は家。
バスケのエースの小虎。最初は小明と。最後は対外試合で不調(前夜に何があったんだっけ?)。
呼出しを食らって拉致される小四。小四が教師から自分をかばってくれたことに気付いた馬小が1人で近寄って来る(この姿に近い構図を後でハニーがやるが、後ろ盾が無いハニーと異なり、馬小はその場で相手を退散できる)。あとから椅子を壊した武器を手に小猫王と飛機が駆けつける。
馬小の日本刀を見てまねして屋根裏で小猫王が見つける懐刀。小四は場所を知っているので留守のうちに持ち出し、馬小ではなく小明を刺す。
医者のテンガロンハット(ではない)。
仮性近視の治療薬としての注射(ビタミン注射かな)。
母親が持つ夏先生からもらった腕時計。
ビリヤード。老二は汪のパーティーで勝負を真剣に見ている。落ちた玉を投げて見事にホールへ落とす。葉っぱに連れられて山東のビリヤード場で勝負に出る。最後は300元勝つが、張雲に告げ口されて死ぬほど折檻される。
極端に大きな帽子、あまりに裾広がりのセーラーのズボンのハニーが、アップだと実に美青年で驚く。
国歌が最初に流れて全員その場に起立しているところに悠然の歩いて来る。
最初、滑頭が拉致されたのは小明が原因ということは、最後のスーツ姿でカタギになったときに明かされる。
母親の喘息がひどくなり住み込み先から家政婦を解任されて、伯父の家で暮らす小明。薄暗く、人がたくさんいて、生活のレベルは明らかに低い。
外省人の将校の子供の馬小。
外省人の役人の子供の小四。
おそらく本省人の商家の子供らしい小猫王(小四は、おそらく夜間学校へ入学したことで、本来の階層的なあり方とは異なる集団に属することになっているのだろう)。後に小四から紹介された(小四自身はハニーから紹介されたようだ)本省人のヤクザの馬來(だと思うが忘れた)のことを良い人だとか評していた。
に続いて、外省人のただの軍人の親戚らしい小明の家庭生活が描かれる。
滑頭の一方的なカンニングのせいで小四まで巻き添えを食らうことになり、再び父親が怒鳴り込む。かえってまずいことになる。そこで父親は謝りながら、正しくあることは正しいのだと説明する。未来を信じて努力するのだ。
小明との関係の微妙さをなんとなく知った小四が医者に反抗的な態度を取る。看護婦が一方的にまくしたて、それに対して乱暴なセリフを吐く。呼び出された父親が許しを乞うと教師が居丈高になる。一方的であり理不尽であり、小四はバットを振るい退学になる。
逆の立場となり、小四が前回父親から聞かされたことを言う。その間に、特務からの取り調べを受けた父親は権力の怖さを知ってしまったために、口を濁す。
話は続き、小四は図書館へ通って勉強をする。
自転車を押す小四を見かけた小明が近寄ってきて、二人で馬小の家へ行く。お手伝いさんが必要だという話を馬小の母親がする。
最後の晩にはあらゆることがおきる。母親は父親が公務員としてはもう目が無い可能性を考え、林のパーティへ父親を連れて行く。小四は母親の時計を質に入れて小翠をデートに誘う。小翠は小四の下心を見透かして嘲笑する。老二は時計を回収するためにビリヤード場へ行く。汪が来る。汪は(机の横流しを拒まれたにもかかわらず)実際には父親をどう考えているのだろう。
小四は翌日、姉から誘われた教会での対話をすっ飛ばしてスタジオで馬小を待つ。馬小は日本刀を持ち込んだのを見咎められて来られない。予定を変更して小明を待つ。懐刀がなんどもなんどもズボンから落ちる。
何も変えることはできない。
馬小の母親が警察に権力を振りかざしてどうにかしようとする。それを眺めて、そういうことではなく、自分と付き合っていた小四のことを思い泣き出す馬小(住む世界が異なるということはそういうことなのだ)。
細かなエピソードが積りに積もり、まったく弛緩することなく4時間が過ぎる。
なんてすごい作家なんだろう。
Criterion Collection: Brighter Summer Day [Blu-ray] [Import](Chang Chen, Lisa Yang)
(リージョンAだ)
立ち寄った本屋で何気なく手にしておもしろそうだから購入したカルロレーヴェのキリストはエボリで止まったを読了。
通勤時にぽつりぽつりと読んでいたら3ヶ月近くかかってしまった。
が、さまざまな点から実におもしろかった。
ノンフィクイションノベルだ。筆者が反ファシズム罪によって南イタリアに流刑にされた1930年代の流刑地での見聞を小説としてまとめたものだ。登場人物を類型化しているが故に、明らかにモデルとなったことがわかる実在の人物(たとえば村長)の遺族からは嫌がられているという面もあるようだが、文学をもとにした地域振興(観光地化)のネタにもされているらしい。
まず、反ファシズム罪という罪に驚く。すげぇな。
で、それが流刑だというところにも驚く。殺すか殺されるかではない点だ(とはいえ、運動の中心人物は暗殺されているから、程度問題だ)。
でも翻って考えると、寒村自伝を読むと尾行がついてまわったり予防拘禁されたりはしても、荒畑寒村(だけではなく、宮本顕治にしろ戸田甚一にしても)は普通に戦中を生き延びているし、殺されているのは小林多喜二のような大衆へ影響を与えることができる作家であるとか、山宣のような科学者だから、言論人は生かしておけば世の中が変わったときに社会への保険になるというような考えは共通であるのかもしれない(というか、それが無いのがスターリンやポルポトだった。毛沢東ですら鄧小平は生かしているわけだし)。
というような時代なので、当然、村長は良きファシスト、子どもたちは良きファシスト、で、そこがまずおもしろい。われわれのような良きファシストは……みたいな言葉がふつうに飛び出てくるのだった。
でも、レーヴェが書きたかったことは反ファシストの話ではない。
南イタリアが全然、自分が知っている、暮らしているイタリアでは無いということなのだ。
つまり、ローマ化されていず、キリストですらエボリで止まって、当地までは布教に来なかった、未開野蛮の地、そういう意味だ。
たとえていえば、弘法大師は平泉で止まった(と岩手人が自嘲する)という感覚のタイトルであり、そういう風俗がこれでもかこれでもかと描写される。
延々と続く粘土質の大地、小麦にはまったく向かないにもかかわらずファシスト党の政策により小麦栽培化されたため、常に収穫は少なく、アメリカ移民だけが救いなのだが、それも情勢変化によって無理となり、出ていったものは帰ってこず、帰ったものは朽ち果てていき、みんなマラリアにかかって黄色い顔をして、葬式では泣き女が一晩中泣きながら踊り狂い、独り身の男の世話は村の魔女の役回りで、魔女はたくさんの子供を持ち、どこか遠くのエチオピアで戦争があってもなんの恩恵もなく、ローマから忘れられてときがすぎる(が、税徴収員は仕事に来る)。
それが1930年代だ。いや、イタリアと日本はどうも風俗習慣が似ている。南北は逆転しているが。
彼我の差が大きいのは、山賊伝説で、南イタリアではどうにも中央政府の横暴が極端になると、山賊が生まれて反逆を始めるらしい。最近(と1930年代に書く)はガリバルディの頃で、伝説的な山賊大将がハプスブルクの遺臣と共同戦線を組んで中央相手に大活躍する(が、最後には山賊は必ず滅ぼされる)。しかしそれも困民党のような事例がないわけでもないし、時代的には幕末の天狗党や烏組、赤報隊などを彷彿させるところもある。にしても山賊伝説はめっぽうおもしろい。なんか黄巾賊とか李自成みたいでもある。
というわけであらゆる点がおもしろい。
政治の話も少しある。
村長の親戚の無能な(というよりも19世紀の知識のみの)老医者と、反村長派の学問したことさえなさそうな無知蒙昧でさらにひどい老医者と、最新の医療知識を学んだレーヴェの3者に対する農民の態度(当然、レーヴェに診療して欲しがる)、に対して最初は良いことだと考えていた村長が、反村長派の医者とのバトルに優位に立つために、流刑中の診療行為の禁止をたてにとって親戚の老医者推し、それを拒否する農民たち、手遅れでばたばた死ぬ患者たち、蚊を撲滅するためのプランをレーヴェが出せば握りつぶされと、これまためっぽうおもしろい。
キリストはエボリで止まった (岩波文庫)(カルロ・レーヴィ)
マラリアと反キリスト的な風俗(特に魔女とか)、貧困、借金まみれの農家という点から、ヴェルガの短編集を思い浮かべた。
こちらは19世紀末のシチリアが舞台で、純粋に創作ではあるが、それが40年近くたち、革命と民主化とファシズム化を経ても全然変わらないところに、なるほど、キリストはエボリで止まったのだなと納得してしまった。
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