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古本屋で買っておいたシラア(それにしても同じ岩波文庫で、シルレルありシラーありシラアありと忙しい人だ)の「たくみと恋」を読了。
この場合の「たくみ」は現在の言葉だと「企み(たくらみ)」だが巧妙に仕掛けた罠の意味。いつから「ら付き」言葉が普及したのか不可思議だ。むしろ「ら抜き」が普及しているのに。
シラアだけ見て買ったのだが、表紙カバーの見返しに「階級の違う若い二人の清純な恋」とあって、なんだ恋愛戯曲だったのかと放置してあったのだった。
が、読み始めた。すると、楽師のミラアとその妻が娘の様子について話し合っているシーンで始まる。妻は、玉の輿でウハウハ生活みたいなことを浮かれて言っているが、ミラアはそんなうまい話しがあるわけない。むしろ災難が降りかかると困っている。
リゴレットのマントヴァ公とジルダか? と思うが、見返しだと清純な恋ということだからマントヴァ公ってことはなさそうだ。
と次の場で、男爵(宰相である)の秘書が登場し、娘と結婚したいと言い出す。すると妻が「大事な玉の輿を目の前にして」とか余分なことを口にする。ミラアは直接娘を口説くならともかく親の顔色を伺うとか男の風上にも置けぬカスと罵倒する。
秘書は戻ると男爵にどうもミラアの女房の言葉から考えると、男爵のご子息が平民の楽師の娘に篭絡されていまっせと告げ口する。男爵のほうは、大公の愛妾を息子に嫁がせて権勢を拡大しようとしているので、さっそく陰謀を秘書と巡らせる。
と読み進めてうんざり(ヴィルヘルム・テルや群盗のように快男児が「自由!」と叫びながら駆け回る作品を少しばかり期待していたのだった)してきたが、我慢して読んでいたら、これはこれでやはり傑作だった。シラーは良い。
なんといっても、圧倒的なのは、この作品に登場する二人の女性が抜群だ。快男児ではなく、快女児(女性に対する対応する言葉は日本語には無い。女傑になるのかな? 好漢はあるが好女はないし(そういえばホオシャオシェンに好男好女という作品があるが、好漢とその女性版の意味なのかな?))の物語として読めば良かったのだ。
まず、大公の愛妾のミルフォオド夫人というのが、政治のためのトロフィーワイフなのかと思ったら、とんでもない。
スコットランド女王の政争に巻き込まれて両親が惨殺された政府高官の子供が乳母とともに大陸に渡り、あらゆる手腕を駆使して一国の政治を動かすまでにのし上がった女傑で、おそらく本人の述懐通りに暴利暴虐の王を鎮めて国家国民のために福祉に予算を割かせている行政家だった。しかも体は売っても魂の気高さをまったく失ってはいない。
とはいえ当然、自分の立場のアンビバレンツに苦悩しているので、政略結婚のネタにされるくらいならと、(政治的な)恋敵であるミラアの娘のルイイゼとの丁々発止のやり取りで相手の魂の気高さを見極めた上でさっさと国境を越えて逃げ出してしまう。
一方のルイイゼは陰謀に巻き込まれて両親の生命と引き換えに嘘の手紙を書くのだが、魂の気高さはやはり保つ。
ところが、相手の少佐(宰相の息子)は逆上すると、真相を告白しようとする侍従長を殴り倒して耳にせず、一人でいきりたってルイイゼに毒を飲ませて自分も毒をあおぐ愚物。
宰相はそれに比べれば大人な分まともな判断もできるのだが、権力欲にかられているのと持って生まれた平民差別を隠しもしないのでまともな会話が成立しない。
その秘書は、平民に近いだけに最後の潔さはイヤーゴのようで、まあしょうがあるまい。イヤーゴのように獄吏の手に落ちて退場。
ミラアの妻はあまりの俗物っぷりに作者もいやになったのか後半は地下牢に押し込められたまま誰からも忘れられているが、それもしょうがあるまい。
ミラアにいたっては、途中までは子供のためには無償の愛で相手の立場を無視しても一人の人間として戦っているのに、少佐が投げ与えた金貨ザクザクの財布を手にするやコペ転してペコペコし始める(このあたりは、作者の大衆蔑視が透けて見えもする。シラーのくせにアインランドか?)。
かくして大人たちの醜悪な争いの末に子供たちが死んで終わる。
読んでいて途中で気づいたが、ベルディのルイザ・ミラーの原作なのだな。
ベルディだと、ミルフォオド夫人の役回りが消え失せて、ミラアの妻は最初から出もしないし(ミラーは寡夫設定)、男爵と秘書の陰謀による悲劇が強調されて、ルイイゼとミルフォオド夫人の魂を気高く保つという矜持は感じられなかった(むしろ、少佐の苦悶を主題にしてしまっているのだが、シラアでは少佐はどうでも良いただの愚物になっている)。
という記憶だったのだが、オペラでも少佐は愚物だったようだが作品は良かったようだ(ヨンチョバだし)。
ヴェルディ:歌劇「ルイザ・ミラー」(モンセラート・カバリエ)
シラーの原作通りなら、モンセラカバレはミルフォオド夫人にふさわしいが、もちろんルイザなのだろう。
プライムビデオでミリオンダラーベイビー。クリントイーストウッドの作品はほぼ観ているのだが、なぜかこれは見逃していた。
過去は短いフラッシュバックだけで済ませて現在を描くいつもの手法。したがって、テンポが速い。しかし現在の中でも特に重要なシーンは退屈寸前までのしつこさで映す。
主人公のフランキー(止血屋兼トレーナー)は過去に何かの因縁があって娘から拒絶されている。
片方のマギーは30を超えたウェイトレスでミシシッピーの極貧の生まれとしか紹介されず過去は描かれない。しかし働いているカフェのお客の食べ残しをアルミホイルでくるむ描写で貧乏がわかる。後でフランキーが自宅を訪れた時、出納メモを見て家族へ仕送りしていることを知る。
なぜかマギーはフランキーをトレーナーとして選ぶがフランキーは拒絶する。半年分のジム費を払ったので追い出すこともできず(ジムには金が無いのだ)放置している。
モーガンフリーマン(スクラップという名前だが、失明して引退した元ボクサーの名前としてもなんかひどすぎるのではないかなぁ)が見かねて教える。フランキーのスピードボールを貸し与えたスクラップの作戦が当たり、最終的にフランキーはトレーナーを引き受ける。(フランキーがスピードボールを奪い返すあたりで印象的な会話があって、それでフランキーは引き返してボールを貸すのだが、どんな会話だったか忘れた)
が、最後まで面倒を見る気はないので別のマネージャを紹介する。が、このマネージャが今後のマッチングを有利にするために一方的な試合を組んだことに激怒して自分が面倒を見ることにする。このあたりの流れもスピーディーだ。
すぐに強すぎるマギーはマッチを組めなくなり、海外へ行く。緑のガウンにアイルランド語というかゲール語の名前を付けているので、観客は大喜びする。なぜかわからないがフランキーはゲール語を学んでイェーツを読んでいるのだ。ヨーロッパを連戦して実力もつき金も稼ぐ。このあたりの流れもスピーディーだ。というか、このスピード感は明日のジョーにも通じるものがある。
結構稼いだことでマギーは母親のために家を買い、フランキーにミシシッピーへ連れて行ってもらう。
ここからはむしろテンポを落として家族関係を示す。フランキーは傍観者として常にいるのだが、立ち入らない。ちょっとニコラスレイの撮り方みたいだ。
マギーの家族は貧すれば鈍するの代表として描かれている。肥満した母親、刑務所をいったりきたりの弟、離婚した子供持ちの妹。母親の口っぷりからは、ボクサーよりも離婚した子持ちでも生活保護費を地道に稼ぐ妹のほうが誇らしいらしい。マギーが入院したときは見舞いに行くと言って4日放置(その間ディズニーランドへ行く)。ディズニーランドで遊びまくってきたということは服とフランキーの嫌味だけで示す。
ラスベガスでタイトルマッチが行われる。行きは飛行機、帰りは車が良いとマギーが言う。
スクラップはついていかずにジムを保守するという。ここで、残念な左フックしか能力がないボクサーが、ハートしかないデンジャーという少しおかしなボクサー見習いをリンチにかける。スクラップは人生最後の試合をKO勝ちする。デンジャーはいつの間にか姿をくらましているのだが、数日後に戻ってくる。スクラップとデンジャーの物語はこれからも続くのだろう。
ラスベガスは砂漠に作られた人工都市ということを思い出させる、医者についてのフランキーの文句。
最後、謎だったゲール語の名前をフランキーはマギーに教える。それは血のつながりを示す言葉だった。ここで初めてフランキーは去ってしまった娘をマギーに投影していたことを言葉で説明したことになる。
話はアネットにさかのぼる。そのとき、友人にサハリン島を貸したときのことだ。
「分厚いな。重いからいらん」と言い出す。
まあそういわずに、おれが借りている『先に寝たやつ相手を起こす』と『死都ブルージユ』の担保として取っておいてくれ。と無理やり押し付けた。
「そういえば」と友人が言う。「お前から借りた妙なサーカス……ではなく、動物園の本は返したよな?」
「は?」
まったく記憶にない。「サーカスと言えば『ラーオ博士のサーカス』だが、貸した覚えはないな」
「いや、サーカスは間違い。動物園だ。」
でもまったく記憶にないので、その話はそこで終わった。
さて、連休も終わりに近づいたので、積読を少し消化するかと、母親の家から持ち帰った本の上のほうにあった、『変身動物園』という見慣れぬ本を手にした(そう、動物園なのだがまったく上のやり取りは忘れていた)。中に、母が書いたらしい登場人物の名前メモが入っていたので、ははあ、ややこしい話っぽいな、とか思いながら読み始めた。
月の上を風が吹く。こんなことがあると、1年は不吉なことが起きる。おい、お前たち、おれが留守の間は良い子にしているんだぞ。お母さんに心配かけないようにな。
と、少佐が娘姉妹に言う。少佐はこれから1年、危険な任務のために外国へ行くのだ。
「無理」と姉が言う。
「無理」と妹が言う。
「悪い子のほうがおもしろいから、悪い子になるわ」
「そうそう、そのほうが絶対いいから」
……なんじゃこりゃ? と本気で読み始めた。
読んでいると、子供が幼いころに寝る前に話したクマのクータンの冒険物語が随所で思い出されて来た。
行き当たりばったりの展開。目についた素材の援用、古典の教養、物理学の理論、悪いほう悪いほうに、できるだけ説教くさくならないように気をつけて、でも美とか自由とか本当に人生に重要で必要なものについてはしっかり話しながら、うければ何度でも飽きるまで繰り返し……
この本、まともな児童文学ではないな。むしろ、子供を喜ばせることだけを目的とした法螺話だ。
そして読了して(一か所、本当に重要な友人との2回の別れ、そのうち1回はもちろん「死」なのだが、さすがに悲痛な思いは残っているわけだが)呆れ果てている自分がいた。これは、変な本だ。
で、続けて訳者あとがきを読みだすと、まさに8歳と6歳の娘のために話した物語を本にしたとか書いてある。おそらく、推敲はしただろうが、きちんとプロットなどを練り直すことなく、そのまま出版社に渡してしまったのだろう(作者はどうも職業作家のようだ)。
しかし、手元の晶文社のは1992年の刊行だし、アマゾンでの購入履歴もない。古本屋の票や鉛筆書きの価格もない。新刊として書店で買ったものだ。記憶にない以上、これはおれの本ではないな。
そこで母親にメールで、「なんでこんな本を買ったのか?」と質問したら、「お前が貸してくれたんじゃないか」と返事が来た。
全然記憶にない。しかし、冒頭の友人との会話を思い出した。
どうやら、子供用に買ったものの、子供が読まなかった(読むべき本は山ほどあるので、ここまで手が回らなかったのだろう)ので、しかしなぜか自分で読む気も起きず、友人や母親に貸したようだ。おそらく感想次第で読むつもりだったのだろう(キュレーションを厳選したキュレーターにやらせる作戦)。が、誰も何も教えてくれなかった。
それはそうだ。
空っぽの本なのだ。
おもしろいは抜群におもしろい。友人との別れは感動的で心が揺り動かされる。強くて大きな獣は戦いの中で死ぬのがふさわしい。だが、無内容なのだ。
まさに奇書と呼ぶにふさわしい。
あまりの衝撃に、子供の本ミートアップのネタにしてしまった。
そのため、あらすじと子供に話す話のパターンランゲージ(用のメモ)を作ってしまった。
変身動物園のあらすじを示す。
二人の姉妹ダイナとドレンダは悪い子になろうと決めて、毎日母親と家庭教師があきれるほど食べまくり風船のようになる。病院へ行く途中で悪い子キャサリンにそそのかされた子供たちに針で突かれて復讐を誓う。ダイナだけが会える森の魔女に頼んで変身薬を入手しカンガルーに化けて村人たちを驚かせ、子供たちを蹴りまくる。が、サー・ランカスターの投げ縄に捕まり動物園へ入れられしまう。
サー・ランカスターの動物園で、かって探偵だった頭が悪いキリンのパーカー、ランカスターから盗んだ新聞を読むのが日課の熊のベンディゴ、フランス帰りの気取り屋のラマのマリールイズなどと知り合う。パーカーの駝鳥のレディ・リルの卵泥棒の捜査を手伝いながら、本物の野生動物のグリーンランドのシルバーハヤブサ、ブラジルのゴールデンピューマと一緒に脱走計画を練る。
一方、村ではキャサリンにそそのかされてダイナとグレンダを覗きに行ったまま生垣にはまり込んで抜けなくなったミセス・テイパーが泥棒で有罪か無罪かの裁判が行われていた。12人の陪審員のうち6人の男性は無罪、6人の女性は有罪を主張して譲らないため、判事のランプルは全員逮捕していた。
無事脱走に成功した二人はミス・セレンディップの授業にあきあきしてダンス教師のコルボ先生のことを思い出す。コルボ先生は12人の陪審員の一人なので牢獄の中にいた。
二人は知恵のある大人として弁護士二人組(一人は原告側専門、一人は被告側専門で、曜日ごとに勝訴になる側を決めている仲良し)にコルボ先生の釈放を依頼する。
無事コルボ先生(とその他の人々)の解放に成功した二人は、父親の少佐が出張先のボンバルディで専制君主のヒューラグ伯爵によって地下牢に幽閉されていることを知り、救出を決意する。
森の魔女の薬を使って、狩人と猟犬に襲われて危機一髪のピューマを救出した二人は、コルボ先生とピューマと共にボンバルディへ向かう。ハヤブサは空からついてくる。
伯爵の部屋の秘密の通路を見つけた3人と1匹は無事少佐と会えるが、ヒューラグ伯爵によって再び閉じ込められてしまう。
ヨーロッパに取り残された第一次世界大戦の生き残りの工兵二人組によって地下牢を脱出した4人と1匹だが、工兵の好奇心からヒューラグ伯爵に見つかってしまう。ピューマは自分の運命を悟る。
ハヤブサはボンバルディではピューマの記念碑が立てられていることを告げるとグリーンランドへ帰る。二人が森へ行くと魔女はリューマチ治療のために旅立ったあとだった。二人はカッコウ時計をもらうが、カッコウは魔法の歌を途中まで歌ったところで壊れてしまう。修理したが普通のカッコウ時計になってしまった。
見過ごせない点として、最後が中途半端に終わることがある。カッコウは10個だか12個だかの教訓というか魔女の教えを歌うはずが、途中で壊れてしまう。修理するとただのカッコウ時計になる。まさに物語だ。
子供に話す話のパターン(パターンランゲージ化まではしていない)を示す。
動物たちが檻から抜け出していることについてのプラム氏の言い訳
陪審員と裁判長のやり取り
母親はロンドンへ旅行に行ったことにする
落とした薬を簡単に取り戻す
ミス・セレンディップの授業
クマのベンディゴのボクシング技術の説明
東劇でメトライブビューイングのドンカルロス。
エボリ公女は当然のようにガランチャだろうと思ったら、ジェイミー・バートンという歌手で顔はかわいいがガランチャのようなシュッとしたエボリではなくちょっとがっかりした。
それはそれとしてポレンザーニのドンカルロスとそもそもはヨンチョバ(と表記するのが好きなのだがヨンチェバだな)が観たかったわけでそちらはOK。驚いたのは宗教裁判長のジョンレリエで眼光鋭く(眼が見えないはずだが)こんなおっかない宗教裁判長は初めてだ。素晴らしい。
全幕版なのでフォンテヌブローの森から始まる。おれはこういう静かで孤独な場所が好きだとドンカルロスが歌う。ポレンザーニは実に良い。そしていきなり登場した外国人におびえる小姓とエリザベートをなだめすかして、渋る小姓を追い出したあとはエリザベートにあなたのフィアンセの肖像画だとロケットを渡し、エリザベートが驚くのを楽しそうに眺めるというのをやった後に、絶望に追いやる小姓の皇后陛下万歳に続く。それにしても、忖度とか空気読むは日本独自のものでもなんでもなく、エリザベートは本心とは裏腹に空気を読んでフィリップ2世との結婚を承諾することになり、2幕へ続く。
例によってメトライブビューイングの幕間インタビューはおもしろい。特にポレンザーニがまったく空気を読まずにネタバレをしまくるのはいつものことながら痛快で、最悪のタイミングで剣を抜くとか言い出してインタビュアーが唖然とするところとかおもしろい(どうみてもシナリオ抜きにその場でやっているとしか思えないだけにおもしろさは抜群)。
ロドリーグはデュピュイという人(名前からフランス人なのだろう。ポレンザーニと違ってフランス語が怪しくない)。メトだけにコスプレ演出なのだが、ロドリーグだけはおそらくマクビカーの趣味ではないかと疑わざるを得ないモヒカン、上半身をはだけた皮ジャケットで登場(と、子供が評する)。なかなか良いロドリーグだが、それにしても高田智宏は良かったなとか観ていて思い出した。
デュピュイの幕間インタビューでは、ポレンザーニが突然出てきて「さっきはよくも俺の剣を没収したな!」と絡んでみせる。その後で、自作の子供時代からおれはカルロスとは仲良しさという歌をピアノを弾きながら歌うビデオを見せる。これはおもしろい。
コスプレ演出という点ではエボリは眼帯をつけて出てきて呪わしき美貌の頂点でかなぐり捨てる。
宗教裁判では首を少しずつ絞める最悪の絞首台が登場。
最後、ポレンザーニは皇帝の衛兵に突き殺される生な演出(これまた幕間でポレンザーニがちゃんばらの練習の後に出てきて、「腹を刺された!」とか言い出して殺される演出だとネタバレさせてしまって笑いを誘う。
また、あの世へドンカルロスを導くのは先帝ではなくロドリーグで、これほどドンカルロスの死をきっちり示す演出は珍しいのではないか。
指揮はパトリックフラーという相当な若手なのだが、実は代役で本来はヤニック・ネゼ=セガンという人だったらしい(というかこの人が今のメトの監督なのだった)。幕間インタビューではネゼセガンのほうが出てきて意図をいろいろ説明するのだが、これもおもしろい。
まずフランス語版のほうがイタリア語版よりも歌がだらだらめりはりなく続く。とはいえ、フランス語に堪能なヴェルディなので抑揚はまったく正しく、掴みどころのない内容にふさわしいと力説する。また、ドンカルロスの細部の旋律の美しさについて、6人のフランドル人の歌を例にして褒め称える。
どう見ても、この指揮者がドンカルロスを大好きなのは間違いなさそうで、(ヨンチョバ以外の歌手を集めてどういう音楽をやるかを説明しているリモートミーティングの様子を幕間で流していたが、これもおもしろい)自分で振れなくてさぞ残念だったろうと思った。というか、フラーもネゼセガンもやたらと若いので、レヴァイン追放ついでにゲレブが指揮者陣の若返りを図ったのかな? とか思った。
と、幕間インタビューがやたらと充実していておもしろいのだが、舞台そのものもヨンチェバが想像通りの良いエリザベートで楽しめた。
楽しみにしていたオルフェオとエウリディーチェ。
楽しみにしていたが、予想通りに退屈した。音楽が様式的だからなのだが、ロマン派を通り過ぎた耳にはいやでも退屈なのはしょうがない。そうは言っても2幕1場の永遠に続くようにすら感じる復讐の女神とオルフェオの掛け合いでオルフェオの歌は変わらないのに復讐の女神が折れてしまうところはおもしろい。
もともと興味の対象は勅使河原三郎の演出にあるわけで、こちらは堪能した。
踊り手を4人使う。意味づけはあるのだろうが緑のパンツと青(いかん、すでに忘れている。本当かな)のペアと白の2人組。
最初は傾いた皿の上にオルフェオとおそらくエウリディーチェの亡骸。周りを黒衣の羊飼い。
アモーレが魔笛のパミーナだった三宅。
2幕1場は奥に茨のような木が2本あって門になっている。2場では白いユリで、途中から黄色が入る。2幕は省力化音楽というか、とにかくループする。特に2場の「彼女は来る」を延々とやってから「彼女は来た」になって奥からエウリディーチェ登場で暗転。
3幕は2幕2場よりも明白な(形がきちんとある)百合を背後に皿が復活。
それにしてもエウリディーチェが「こんなことなら死んだままのほうが良かった」とまでは言い出すのにはオルフェオではなくても混乱するが、エウリディーチェとしてもいきなり永い眠りから叩き起こされて化粧されて(というようなことを2幕2場で説明している)なんか顔も見せずについて来いと命令されたら不安になるのも当然だろうな。
で、オルフェオは破れかぶれになり(ここで切々と歌うのがハ長調なので、この時代はまだ短調と長調の性格付けは曖昧なのかな)抱擁する。
アモーレが出てきて、お前の誠実さは明らかだから生き返らせるよ、で大団円。
それにしても「白百合は純粋性をあらわすというが、そこにこそ人間への皮肉が煌めく」と勅使河原三郎が書いているのはどういうことなのだろうか。
アモーレがパミーナということもあって、いろいろ考える。
おそらくシカネーダはこのオペラを観ていたかも知れない。であれば、この無言の行で暗闇をついて来いというのは馬鹿げていることは感じただろう。
それで魔笛の最後はなんでも理解しているパミーナがむしろタミーノを先導するし、会話を番人は許可する設定にしたのかも知れない。そのほうが遥かに良い。
いずれにしてもおもしろかった。
シアターオーブでレント25周年記念公演。
前回は2016年のクリスマスイブだったから5年半ぶりだ。
自分でも意外なほど舞台の記憶がないのだが(それは映画のほうはDVDで複数回観ているからだからだろう)、記録を見ると同じところで同じように感じていておもしろいというか進歩がないというか、何度観ても楽しいというか、おもしろい。
今回の演者では(と書いているのだが、前回の公演の記憶ではなくどうしても映画のほうとの比較になる)、とにかくベニーが若くて格好もチャラいのが印象的(なんか映画ではレモンを売りそうな格好で、ボエームからビジネスへの転身というベニーの位置づけが明らかではあるが、チャラいほうがどっちつかずの立場に合っていると思う)。歌はコリンズのヒックスという人がでかくて声も太くて本物のコリンズかくあるべしみたいで気に入った。ロジャーやミミも好き。が、2幕冒頭のシーズンズオブラブでソウル風に歌うホームレス役の小柄な女声歌手がやたらと印象的だった。
前回と舞台構成は同じだと思うのだが(舞台下手奥がオーケストラ(ではないが)ピットとか、その上を舞台上とは別の場所を示すとか)バンドの位置以外は驚くほど記憶がない。
ワンソンググローリーは舞台だと切実さが名曲に聴こえる。やはり生身の人間が目の前で歌って演じる分だけ、いかにもいつ死ぬか(当時のエイズは死病も良いところだったからだが)びびりながらも生きている切実さみたいなものが強く感じられるからだろう。
コリンズはコリーネと違って最初にコートを失う。
アウトトゥナイトは高いところで歌い出して、そのまま私を外へ連れてってとマークとロジャーの部屋の扉を開いてロジャーへ詰め寄る動きが、曲のスピード感とマッチしていてすごく好き。そのまま畳みかけるようにI should tell youの曲(アナザーデイかな)になるのだが、どうしてもI should tell youが「愛してる」に空耳するのは変わらない。とにかく、曲としても演出としても舞台としてもアウトトゥナイトからアナザーデイの流れは本当に見事なものだ。この部分は、ヘロイン中毒中のミミ(注射針からの感染でAIDSだろう)の生き急ぎ願望とヘロイン中毒は克服したが恋人を自殺(AIDSを悲観してだろう)で失って本人もAIDSのロジャーの他人を巻き添えにしたくなさとの相克が速いパートとスローバラードパートを繰り返す。見事だ。
演出では、特に高いところで(バーダンスの表現だろうが)ミミが青い髪をぐりんぐりん振り回すとラメがキラキラするところが抜群に美しい。ミミはとにかく青なのだな。
モーリンのオバーザムーンは今となっては一番古臭くいささか辛い(時代的にはローリーアンダーソンあたりのやたらと先進的なメディアアートっぽいポエットリーディングを基調とした曲だということはわかる)のだが、妙に大柄で説得力がある歌手が演じているので、なるほど確かにこれはモーリンで、恋人をプーキーと呼ぶのだなと思わせておもしろかった(タンゴモーリンでプーキーと呼ぶだろう? 呼ばれたことないわの後のモーリンからの電話でジョアンがプーキーと呼ばれるところはおもしろい)。
ミミとロジャーがヘロイン中毒とAIDSなのに対して、モーリン、マーク、ジョアンは三角関係とメディアアート(というロジャーのロックンロールに比べるとちょっとインテリ)と映画とIVYリーグ卒業で親も上流(フランス大使の家でタンゴを習ったというようなセリフもある)の弁護士という比較的裕福なグループになっている。
もう1つのグループが、エンジェル(クイァの女王でAIDSなのだが登場時はストリートドラマーというかミュージシャンで女王とは思わせないが、その後ロジャーとマークの部屋に来て爆発するToday4Uは名曲だな)とコリンズ(ハッカー――らしいところはほとんど見せないが、最後にATMをハックして金をちょろまかしてくる――はともかくやはりAIDS)のゲイカップルで、2番目のグループ以外はAIDSが共通項になっている。
2幕はごちゃごちゃした末に秋風が吹くころにエンジェルが死んで散り散りになり、しかしミミが死にかけたホームレス化したことでみんなが集まってくる(と、本家のラボエームと同じようになる)。
微妙なところで拍手する人がいないのは、どうも訓練されたレント好きが集まったようだ(多分、最初のうちは間違えて拍手する人がいただろうなぁと思う。ちょっとスクリアビンの法悦の詩みたいだ)。
カーテンコールでエンジェルが下手から飛び出してきて加わる。
豊洲でバブル。
大コケ作品みたいな評判と声優がだめみたいな情報がおもしろかったので観に行った。
21世紀になってから大コケとか言われるのは大体映画文法的にはおもしろいようだし、声優どうたらと能書きがつくのは大抵の場合過剰演技が好きな人(声が大きい)が騒ぐものと相場が決まっていると考えているから、実際にどうだか観てみようと思ったというのは大きい。
で観てみたらおもしろかった。少なくとも退屈するシーンはなかった。ただエンドクレジットの歌は妙に耳に残るが音的にすかすかしていてそれほど好みではない。
物語はシンプルだ。
最初凄い速度で背景が説明される。そのスピードたるやクリントイーストウッドの映画を凌駕するのだが、同じように、そこは作品の興味の埒外ということなのだろう。
で気づくと青い服着た連中と黄色い服着た連中がビルからビルへと飛び移って追っかけっこのようなリレーのような競争をしている(パルクールなのだが、何か別の呼ばれ方をしていた)。それを見張っている黒い連中、旗のところで待っている大人(青い連中のグループでもあるが、外部から内側の調査のために派遣されている連中とわかる)がいる。青いチームのおっちょこちょいの子供が危ない状況でやたらとクールなやつが助け出す。ここで主人公登場。
で青いチームが勝って、それが主人公のヒビキという少年か青年か微妙な男の側だ(作中、東京タワーを中心に大爆発が起きてから10年が経過していて、東京タワーにいるときは小学校低学年っぽいので20歳前くらいか)。仲間には操船技術の勉強をしている口が悪いどうもリーダー格(口の悪さからホワイトベースのカイみたいなのだが、リーダー格)、本物の小僧(13歳くらいかなぁ)などがいる。
で、ヒビキという主人公はそれほどチームメンバーと溶け込んでいないのだが、戦力としてでかいのでリーダーは別行動を気にしない。小僧は小僧っぽく気にしている(いかにも子供らしい性格付けだ)。
ヒビキは唐突に歌が聞こえると言い出して東京タワーに向けて飛び出してしまう。何度か東京タワーに挑戦しているらしいことがわかるが、ある程度の高さから上は重力の乱れが大きいためうまく行かない。今回もやはりうまくいかずに落下してしまう。それをそこら中に漂っている泡の1つが追っかける。
この泡が漂っているのがおもしろい。まず、手の上で弾ける描写があるが、常に大量の水が出てくるから気泡というわけではない。ときどきパルクールの最中に踏み石代わりにできる(ただし難しいらしい)ので、単なる空気の泡ならばそうはいくわけはないので確かに中身はあるのだろう。一方、全体としては重力がありちゃんと落下するわけで、では浮かんでいるのは一体なんだろうか? と考えると、それぞれが引っ張り合ってバランスを保っていると考えると良いのかも知れないし、そもそもそれがなければパルクールができないので置くことにしただけなのかも知れない。
ヒビキは水の中に落ちて、沈んでいた中央線に引っ掛かって出られなくなる。意識を失う。
そこに泡が追いついてくる。泡はさてどうしようかと見まわすと、妙な格好をした少女のポスターが目につく。手足があるので、少年と同じ種族の形態であろうと即座に判断してその形状を真似る。これで助けることができるかも知れない。ではどうやって動かすのだろうか? と、きょろきょろすると川岸にネコがいる。その動作を記憶して再現しつつ、少年を助け出す。
青い連中のところに無事帰還し、名前がないので泡が変身した少女にウタという名前をつける。大人のうちの女性科学者が船内を案内すると、海に関係する(ロビンソークルーソーとか)本棚をウタが気にする。人魚姫を取り出して読んでやる。ウタ、内容とセリフを記憶する。このなんでも記憶能力はすごくて、最終的にはヒビキと一緒に螺旋構造の勉強をしたりして、黄金比の計算(手書きでルート5が出てくる式をオウム貝の横に書いてあるノートが出てくる)までしたりしている。
一方、黄色い連中と黒い連中がパルクールをしているのだが、一方的に黒が勝つ。
青グループでは、見た目は妙な服を着た猫真似をする少女という奇天烈な存在が、飼育している鶏を襲ったもので諍いが生じたりする。(とはいえウタの記憶能力と再現能力はとんでもないので、あっという間にネコの動作はなくなって人間化するのだが)
ヒビキは少し離れた場所に秘密の花園を造っている。そこにウタがやってくる。照れるヒビキだが、ウタは気にせず歌を歌い始める。あ、東京タワーから聞こえてくるのはその歌だ、とヒビキは気づく。ウタ、そのままビルの上の柵を乗り越えて宙に飛ぶ。あわててヒビキが追う。もちろんこの特殊な環境なので夜を駆けたりはせずに、そのまま宙を漂う瓦礫や泡を飛びながらの追っかけっことなる。
このシーンの美しさが抜群で、間違いなくこのシーンのためにこの映画は存在する。ちょうどウルフウォーカーでロビンとメーヴが追いかけっこをする抜群なシーンと同等だ。いやぁ、観に行って良かった。
黒い連中はパルクールの動画配信で稼いでいる連中でスポンサーから送られた特殊なブーツを履いている(着地の衝撃をうまく処理できるのかな?)ことがわかる。その連中が女性科学者を誘拐してパルクール勝負を挑む(別に誘拐なんかする必要はないような気がするが)。ウタも参戦して黒い連中とのパルクールが始まる。
黒い連中の罠にひっかかって青い連中の大半がやばい状況になったところでウタが登場してバトル続行(ちょうと最初のパルクールでヒビキを登場させるのと対応付けたのかな?)。当然ながら青が勝つ。
という調子でほとんどの時間はパルクールで飛び回っているのが主眼となるので、物語は人魚姫にお任せして突っ走る。
東京タワーを中心にした2回目の爆発が発生しそうで、それを阻止するためにはそこまでいかなければならないという状況を作る。
リーダーは勉強していただけあって、船を操舵する。潜水艦が壊れたため漂流していた黒いチームはブーツを売る(買ったばかりの靴を履いてうまく跳び回れるのか? という疑問はあるが、青チームはこれによって戦力が強化できる)。
展望台についたヒビキはそこで、ウタとの出会いが10年前にあったことと、最初の爆発がそれが契機となったことを知る。
とはいうものの、ウタはヒビキを助けるために、自分は泡に戻っていくのだった。
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