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エリセの「瞳を閉じて」を観ていて「トマトが熟れているよ」に違和感を覚えた。主人公が自宅に戻ると隣家の住人が主人公の畑について教えてくれるところだ。主人公は翌日畑に行ってトマトを収穫する。のだが、下のほうの1つ以外すべてのトマトが青いのだ。いくら異国(スペイン)とは言え、青いトマトに「熟れている」はないだろう(事実、その後に主人公は赤いトマトを隣人たちと食べる)。
というのとは全く関係なく、カゴメの株主プレゼントに当選してミニトマトの苗木が当たった。オレンジのトマトと赤いトマトだ。
妻が雨の日もかかさずに水をやって(まるで遠藤周作の間抜けエピソードのようだが、カゴメのトマト水やりアプリみたいなのを妻は使っていて、雨でもそれなりに水をやることになっている)育てて、収穫期に入った。
が、2日に1粒づつくらい出て来る。なんでだ? と思ってトマトを観に行ってすべてが判明した。
トマトはたくさん実をつけるが、熟度はてんでばらばらだったのだ。なんとなく紅葉や柿とか知っている植物は色が変わるとなると一斉に変わるのに、トマトは徹底した個人主義で熟すのだった。なるほど、瞳を閉じてでほとんど青いのもそういう訳だったのか。むしろ正しい畑の姿だったのだな。(出荷が小刻みに続けられるのでもしかして良い野菜なのだろうか?)
(奥のオレンジ色のは1つだけ、手前の赤いのは2個は完熟、2個は中途、残りは青い。瞳を閉じても下のほうのを取っていたから、どうも下から上に熟していくもののようだ)
新国立劇場でデカローグの9, 10, 7, 8。
9はまたまた浮気の話の艶笑譚。浮気相手の大学生が実にうまい。特にタイミング勝負も良いところの夫妻の母親のアパートに再訪するところは見事で死ぬほど笑った。スキーへ行くところの夫とのすれ違いっぷりも良い。最後は紆余曲折あっても仲直りっぽくて悪くない。
10は物語としては抜群におもしろい。いきなりステージ(アパートではない)で殺せと盗めを連呼するパンクバンドのギグで始まる。歌手が弟でまじめな会社員か役人っぽい兄と待ち合わせて死んだ叔父さんのアパートへ行く。と、他のコンパートメントとは異なり厳重に鍵があり、窓は釘で打ち付けてあり、警報ベルが完備していて鳴りまくると9の妻が何事かと見に来る。切手収集家というものがどういうものかが描かれる。詐欺師の切手売りですら、正しい切手の入手のために多段階取引をまじめにやって見せる(と思う)。
最後、兄弟は切手の収集を始める。最初は、体育、海豹、警察の記念切手で、ここの選択が兄弟同じというのは話作りのうまさだ。
10は死人も怪我人も出ないので、なかなか気分が良い。しかも兄弟の役者が実に良い雰囲気で仲良しだが疎遠、信用しあっているが信じ切ってもいないという関係を実にうまく演じていて観ていて楽しかった。
でかくて一見おっかないが、ご飯をくれるとほいほい尻尾を振ってついていって閉じ込められてしまって、まったく役に立たない犬も良い味だしていた。
7は(と、プログラム構成で順序が前後する)16歳で子供を産んだため、その子供を母親の子供として届けた(=自分は姉ということになる)母親が子供を母親から取り戻すために誘拐し、子供の父親の元に家出する話。父親が子供が自分の子供だと気づいてぬいぐるみで遊んでやったりするのが実に身につまされる。この父親は母子が河に身投げしたと勘違いして(橋の脚にくまのぬいぐるみが忘れられていたせいだ)永遠に河の中を寒いのにうろつくことになり可哀想が過ぎる。一方、母親が助けを求める駅員は実に良いやつで両親をだましてくれるのだが、子供は自分の母親を母親の母親だと完全に信じ切っているので悲劇的な最後の一方、他にどうにも選択の余地がないので母親は家族から解放される。
劇としては実におもしろい。それにしても実に父親が可哀想過ぎる。熊のぬいぐるみは忘れているし、おそらく死んだと思い込んでいるだろうから束の間の再会が単なるぬか喜びになっている。母親の役者が軽はずみで衝動的ないかにも頭が悪い女性を演じきっていてうまかった。その母親がまたいかにも口やかましくそういう子供の親にふさわしい気分の悪い母親を演じきっていて見ていて気分が悪くなるくらいにうまい。役者のうまさでは7が最高ではなかろうか。
8は10で死ぬおじさんが切手を集める話。ヒンデンブルク号の3枚綴り記念切手を入手してそのすばらしさを誰かに話したいのだが、回りに話がわかる人間がいない(10だと、切手協会の会長と、借金させてくれる詐欺師と切手商はいるのだが、友人とまではいかなそうだ)ので、近所のおばさんを捕まえては話す。このおばさんが良い人でまったく興味がないのに話し相手となる。実はこのおばさんは大学教授で、過去、カソリックの入信届のための助けを求めに来たユダヤ人の少女を追い出したことがある。実際は入信のために会うべき夫妻にスパイ容疑があるため、へたに連れて行くと一網打尽となる可能性があるための苦渋の選択なのだった。しかもその事情を話すことは、スパイだと気づいていることを周知させることとなり、それも組織防衛の観点からは無理があり、結局、冷たく突き放すしかなかったわけだ。そのことは棘となって残っている。そこにニューヨークから彼女の著者の翻訳者でもある女性が訪れる。実はその女性こそがかって追い出したユダヤ人の少女だったのであった。彼女は嘘をカソリック信仰に関するものだと考えていたのだが、実際には組織防衛のためのものだったというように重層的に組まれている。
と、内容が凝っているうえに、かって助けを求めにいったアパートがスラム化した町にあるために危険地域となっていたり、授業風景で2の話が出たりと盛りだくさんで上演順としては最後になるのにふさわしいかも知れない。が、おそろしいことにたかだか1週間で、結末(当然二人の和解だと思うのだが)を完全に忘れている。
新国立劇場でトスカ。ある意味、一番の興味は妻屋のアンジェロッティなわけだが(正しい意味での役不足ってやつだ)もちろん堂々たるものだったがわけわからん。
ベニーニの指揮っぷりは期待通りの良いものだったし、イリンカイのカバラドッシも良かった。エルコーリーのトスカは最初どうも弱いのかなぁとか思っていたら全然そんなことないし、2幕最後の刺殺してから蝋燭を立てるまでの一連の動作(トスカは全体、妙に演劇的なのだ)も実に自然で根は敬虔なトスカそのものだった。ただ観ていて思ったが、新国立劇場版は演出/舞台装置/衣装全部そろってトスカっぽ過ぎる。そのため、誰が(ということはないわけだが、新国立劇場が招聘する水準であれば)演じても平均的に良いトスカになってしまって、あまり個々の歌手の個性みたいなものが見えない気がする。
意外だったのがスカルピアの青山で、実にスカルピアだった。印象として日本の低音男性歌手は声量がなくて出ると負けみたいな気がしていたのだが、高田や鉄平とか圧倒的な歌手がここ10年くらい出まくっていてなんか凄いことだ。
何しろ全長37mとか、想像するのも難しいのでこれは見ようと妻と相談して巨大恐竜展へ行ってきた。
最初は昨日行くかと思ったが妻が調べたらパシフィコ横浜脇の駐車場が満車だったので、そんなこともあろうかと休暇を取っていた今日行ったのだった。途中、鶴見のあたりで猛烈な土砂降りになって傘を持たずに来たが大丈夫かな? と不安にならないでもないが、脇の駐車場が空なのを確認してあるから多分問題ないだろうと気を取り直した。
で地下に停めて、R出口から上に出ると脇に突き出たコンコースが屋根になっているので全然濡れずに会場に入れた。
入場料を払う段になって、平日は休日より安いことを知って(分散対策なのだろうが)なんか得した気分となった。
入るといきなりでっかなマンモスと名前は忘れた(というか名前はほぼすべて忘れた)でっかな肉食恐竜の骨(模型)があってでけぇなと感心する。次にシロナガスクジラの模型でこれまたでかい。大きいといろいろ生きていくのにお得だからというような説明がパネルにあったが、相当ダウトだ。
翼竜の骨見て、水上生活説とそれは間違い説で議論中の恐竜のロボット(水中説をとって泳いでいる姿らしいが、でかい)、トリケラトプス(知っている)の模型を眺めて、なんとなく流れはわかってきた。
いよいよお目当てのパタゴティタン・マヨルムの展示室なのだが、すぐに骨(復元模型)が出て来るわけではない。
パタゴニアで農夫が見つけた大腿骨が云々と説明があって、掘ったら6体分がまとめて出てきた。復元模型は元の恐竜の骨+一緒に見つけた恐竜の骨+想像で補った骨で作ったということが書いてある。説明パネルはそこで時間調整をできるように考えたのだろうが、ちょっと隠してあって(子供なら)楽しいかも知れない。この時、上を見上げなかったのは痛恨の一撃だったがしょうがない。
角を曲がるとまだ骨はなく、ビデオゲームっぽく100個の卵が最終的に6~8頭に減る生存競争(孵化、捕食者から隠れる、食事、災害を避けるなどなど)のタッチパネル展示が数か所ある。一か所説明とパネルの表示が食い違っているところがあったが、なかなかおもしろい(が、タッチと実際の動作が異なるような、よくわからん展示でもある)。
ティタノサウルスという種類らしいが、昔々恐竜王子が乗っていたこのタイプには別の名前がついていたような気がする。ちょっとティラノザウルレックスと名前が似ていて紛らわしい。
そしていよいよドーンと出てきた。ここまでで生前の姿は大体見当がつくように展示が構成されているので、骨を見上げていると肉が付いている状態を想像できるし、そうなるとそのあまりのでかさに(頭から尻尾まで歩くと30mを超えるわけだから)思いがけないことに畏怖の念というのを抱いてしまった。でかさは感動につながるものなのだな。
後ろ足には爪があり、前足は丸太状という良くわからない足をしている(なんか11匹の猫と恐竜の絵を思い出した)。
でかいから逃げる速度も速いから火山の噴火からも逃げられるというような説明が書いてあるが、そんなにしょっちゅう火山が噴火するわけないだろうと思わないでもない(が、その時代はそういうものなのか?)。
それにしてもでかい。尻尾の先は展示室をはみ出して隣の部屋へ突き出している。せっかくおもしろい構成にしてあるのに、頭上の尻尾に気づかなかったのは悲しい。
残りの展示ではロボットが吠えまくっているので子供が恐怖のあまり泣き叫んでいる。平日(とはいえ子供は夏休みだと思うが)なのでそれほど人出はないのだが、それでもそれなりにいることはいて、僕は気付かなかったが妻によると似たような中老年二人組も結構いたらしい。
ロボットで1か所、木を倒すと葉っぱを食べに首を伸ばすのがいて、どこにもそんなことは書いてないから音声ガイドだけで説明しているのだろうか?
妻が見ていたらいきなり子供が来て木を押したら首がぬっと伸びてきてびっくりしたとか言って、見せてくれた。なかなかおもしろい。
肩甲骨の展示がありでかい。が、どうも見たような形だなと思ったら、鯛の中の鯛の骨みたいだ(あとで調べたら、こちらも肩甲骨らしい)。肩というと人間を想像してしまうが、前腕の接合部分をガードするための骨なのかなぁ。
タビアーニ弟の『遺灰は語る』がWOWWOWで7/31まで観れるから観ようと妻が言うので観た。
すごくおもしろくて(ちょっと舐めていたので映画館にも行かなかった)衝撃を受けた。
それまでも佳作を作りまくっていた作家が、唐突にキャッチーな作品で大人気を獲得し、しかしそれは大して続かず元の佳作家に戻るというのがある。たとえば侯孝賢が往年童時や風櫃の少年といった凄い作品を撮りまくって、突然悲情城市がヒットする。その後も素晴らしい作品(たとえばマンボのやつとかコーヒーのやつとか)を撮り続けているみたいなもので、タビアーニ兄弟で言うとグッドモーニングバビロンが悲情城市にあたる。が、その後はあまり配給されなかったし、実際、最後に映画館で観たのはフィオーレだと思うがあまり印象にない。
というわけで、わざわざ映画館へ行くまでもないだろうとスルーしたのだが、愚かだった。とてつもなくおもしろい。
物語はどうでも良くて、イタリアの20年代だか30年代だかにノーベル文学賞を取った作家が30年代に死に、遺言で遺灰は散らばして何も残すな、でもそれが無理なら故郷シチリアの岩の中へ埋めろと残す。
が、時はファシズム時代で(ノーベル賞は大して問題ではなかったようだが)立派な文学者として遺灰はローマに置かれる。しかし戦後になってシチリアへの返還運動(?)が起こり、市長が遺灰を受け取りにローマを訪れる。最初米軍機でシチリアへ行こうとするが乗客たちが死者と飛行機に乗るのはごめんだと降りてしまいパイロットの米軍大尉も飛行を拒否する。しょうがないので市長は列車で港町まで進む。
最後、遺灰は3年(30年かも)がかりで海を見下ろす丘の上の巨岩にくり抜いた孔へ納められる。
おまけに短編として作家の書いた劇が流れる。
が、素晴らしいのは一息一息が映画として流れる映画そのものだった。物語は絶妙な間を取ることで微小とともにシーンを飽きさせることなく繋げていく。
火葬場の炎の赤、遺灰を撒く海の青(実際はそのシーン丸ごとだが)を除けば白黒。おまけの短編はカラー。死には色があり、生には色が無い。間による滑稽(飛行機の客、バルコニーの市民たち、カード台の発見)、戸口では子供、近づくと現在、ファシスト協力者の銃殺、アメリカ人のジープとイタリア人の自転車(農村は食べ物が十二分にあるからか、似たような構図でもギミーチョコレートの国とは全然違うな)、唐突に挟まるドイツ人との情交、海辺で遊ぶ子供たち、犬の後脚を持って遊ぶ子供、レストランオープン時の幸福そうな笑顔、母の妻の肖像画を見る、食事風景、公園、野良犬、後ろ脚を持って遊ぶ、赤毛の頭に振り落とされる釘、枝の先に結わえられた白いハンカチ。
犬との遊びの時系列から女の子の喧嘩を両親の息子の奪い合いと重ねているとしたら、釘は少年自身か少年の意志かのいずれかだ。赤毛が父親か母親かどちらなのかが、定めとは何かの答えだ。
友人の家でびわ湖のばらの騎士の録画を観る。
といっても最後の三重唱の手前から。
森谷はじめ歌手は見事だが、観ていて実に気持ち悪い。
普通に考えても、普通に日本人が歌っているのに、なぜここまでクラシック演出にするのだろうか? 背景、衣装、舞台装置、すべてがクラシック様式なのに歌っているのが日本人(だと思うが少なくとも東洋人)なのだ。子供の学芸会か、4流の宝塚(宝塚の本物はどんなコスプレでも着こなし見栄えを考えて設計してあるので、違う)という感じで見ていて気分悪い。気分が悪いのは志が低すぎて不愉快だからだ。
これおかしいだろう?
本家のウィーンや近場のルツェルンがコスプレやめてモダン演出しているのに、何が悲しくてこれっぽっちも似合わないコスプレしているのだ。
志が低いというのはこのことだ。オケは抜群(1960年代のイタリア歌劇でのNHKとか考えると60年で西欧300年に追いついて平均レベルであれば追い越してさえいる)、指揮も抜群(阪という人。むちゃくちゃリズム感が良くて前奏曲が始まったとたんにこりゃ凄いと思った)、歌手も実に立派なのに、演出、衣装、舞台設計がすべてをぶち壊している。まだ、ホモキの白ければOK演出のほうが1億倍ましだ。
可能性として(たまにアマゾンのDVD評とかで見かける)頭が悪い観客がクラシック演出でなければチケットが売れないからこうしたんだ、というのもあり得るが、その場合は志が低い観客へ迎合しているわけでこれまた志が低い。いやいや衣装代が安くつくというのは嘘っぱちで、であれば50年前のシェロー演出以来、ジーンズTシャツも全然ありになっているのだからコスチューム代は演出の能力でどうにでもできる話だ。
というわけで、せっかくの良い演奏が実に台無しだった。
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