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なんとなくおもしろそうだし、シックスΣとかジャックウェルチとか、なぜか損保会社になっていたりとかは知っているので買って読んでみた。
おもしろかったが不愉快千万でもあった。
というか、今頃になって、「鉛筆なめなめ」というビジネス用語の意味がわかった。適当なプレゼンのための材料をつなぎあわせて実際の業績と無関係にバラ色の成果と計画を株主に示して企業価値を高めたり部署の成果をでっちあげることなのだな。
産業の技術的発展という側面からはまったく無価値で非本質的な作業に賢明な人たちが鉛筆をなめなめする下劣極まりない話である一方、資本主義的にはいかに鉛筆をなめて(研究によって技術革新することでも技術によって革新的な製品を作ることでもなく)企業価値(というのは株価のことだ)を高めるかが企業活動の本質であるという(むしろ資本主義においてはこちらが本質そのもの)ことのケーススタディとしておもしろい。
バグダードのフランケンシュタインをイラクの小説って読んだことないから(千一夜物語は別だろう)買って読んだ。
フランケンシュタインといっても博士のことではなく怪物のほうだろうと思って読み始めたが、まったく予想外の物語が展開されて驚いた。
舞台はフセイン政権壊滅後の米軍が駐留中のバグダードだ。そこら中で自爆テロが発生し、民兵同士の銃撃戦がある。
爆弾テロによる死者は五体バラバラで下手すると単なる肉片だけとなる。
すると土葬文化(ということは概念的には完全な肉体が死者には必要という思い込みが根底にあるはずだ)の彼らにとって、死者たちはどうにも言いようがない状態に置かれることになる。
すなわち死体なしの人間の死にいかなる存在証明があり得るかを主題とした文学作品だった。
主人公は複数存在する。親しい友人であり事業パートナーを自爆テロで失った古物商。彼は、ばらばらになった死体をつなぎ合わせて完全な人体を持つ死体を作ることで失った友人を正しく埋葬したいと願うのだが、各パーツは友人ではないので、自分でも何が目的なのかを見失ってしまう。
自爆テロに巻き込まれて死んだ警備員は墓で眠りにつこうとするが、棺の中はからっぽでやむにやまれず町をさまよい、古物商が作った死体の中に潜り込む。
息子が湾岸戦争で戦死した老婆は、遺体が無いことから息子の死に納得できず、帰還を待つ。彼女はキリスト教徒(聖ジョージの絵姿に祈りを欠かさない)で、教会の互助会から年金を受け取ったり神父から世話を受けたりしながら暮らしている。
エジプト人の喫茶店主は、古物商が店で法螺話を繰り広げるのを楽しみにしている。
市中のホテル経営者は破産間際で、向かいに店を構える不動産ブローカーは虎視眈々とホテルを狙っている。ブローカーは政府筋ともつながっていて、所有者不明(爆弾テロで死んだまま誰だか確認できなくて消えてしまった人がたくさんいる)の土地家屋を安く手に入れてうまく商売をしている。
雑誌社で働く記者は観察したすべてを記録しながら上昇志向を崩さない。
これらの人たちのそれぞれの生活の間に、魂が潜り込んで正義の復讐のために殺戮を繰り返すフランケンシュタインの怪物の闘争と自意識が描かれる。怪物は遺体を接ぎ合わせただけなので、1週間もたたずに部品が腐敗して交換せざるを得ない。交換のためのパーツは爆弾テロによって常時供給される。交換する都度、そのパーツの持ち主の意識によって新たな敵が見つかる。そのうち、不正義である敵も正義である自身も区別がつかなくなってくる。
主題は陰鬱だが、語られる物語はテンポが良く、出てくる事物も考え方も新たな文化的な発見があり実におもしろかった。
バグダードのフランケンシュタイン (集英社文芸単行本)(アフマド・サアダーウィー)
・で、ふと思ったが、刺青文化のうちいくつかはパーツとなった遺体の持ち主の存在を認識させるためのものかもしれない。熊に食われた残骸や鮫に食われた肉片から、あるいは敵対組織によってばらばらにされた部品から、仲間や家族にああ彼は死んだのだなとわかってもらうためのマーカーとしての役割はありそうだ。
原先生がおもしろいらしいとかFBに書いていたので何気なく1巻買って読んだらおもしろかったのでつい大人買い一気読みしてしまった。
京大らしき大学に入学したものの、一般教養の数学につまずいて衝撃のあまり休学してしまった主人公が、パチスロにはまって同じく休学していた男、つまずく原因となった言葉を放った女(設定上、本当の数学の才能ありまくりの人)、テスト予想問題の販売屋、巫女さんなどと数学をやりながら院に行く話(までが大体8巻まで)。
さすがに京大に入れる能力があって1年の教養レベルの数学につまずくというのは設定に難があるので、そこを驚異的な暗記力で乗り切った設定にしてかわしているのがおもしろい(そういう人間、確かにいるのは知っている)。
そこで、記憶ではなく自力で考えることのおもしろさに目覚めていくというのが作品としての通奏低音となっている。
とはいえ、それだけでは話がもたないので、大学特有の奇人変人や怪しい寮を出してきたり、京都という舞台ならではのいけずっぷりを出してみたり、いわゆる理系あるあるネタ(みんなで料理をしようとして、レシピの「塩少々」のような記述につまずくとか)を散りばめて、おもしろおかしいキャンパスライフものに仕立てている。
それにしても、既約元のところはつい一緒になって考えてしまったために(主人公が一言二言絶対値だから……とか言いながら証明したことにして作品上はスルーしているところ、確かにこれはマンガに書くのは無意味だな)、読むのに一晩かかってしまったりした。
学食でフーリエ変換に悩んでいたら、隣に座った工学部の連中がフーリエ変換ちょろいとか話しているのを小耳に挟んで死にそうになるとか、ちょろくフーリエ変換を学習しているのこちらとしてはわかり過ぎて、これもおもしろかった。
このタイプであれば、確かにちょろい(そこはそういうものとして割り切っている箇所をきちんと積み上げるのであれば、それは難しいだろうな)。
表紙が、なんかCOMかよ、みたいな古臭い感じでどうにもつまらなそうに感じたのだが、コミックバンバンで他に読める(1日あたり4枚×2のチケットで)のがなかったので、読み始めたらびっくり仰天。これはすごい。おもしろい。
紋切型な感動マンガな面もあるのだけど(が、それに乗せられて思わず感動してしまったりもするのだから本物だ)、ディスレクシアで貧弱な中学生(おまけに登校拒否だったりいろいろ)が、知り合ったマジシャンの爺さん(家族に見捨てられた)から仕込まれた手品で生き延びていく話(で、マネージャが父親に言われて爺さんを捨てたことを後悔しまくっている孫というように人間がからみあう)。学校でのあれこれあり、ショービズのあれこれ、賭博との関係あれこれ、いろいろ脇の筋を固めて、しかし王道的な悩める少年が自分の得意なものに人生を賭けるという物語をかっちり作っていてうまい。物語の深みに、悩んでいるのが少年だけではなく、周りの人間も(それが人生だから当然だが)みんなそれぞれの悩みがあったり影も光もあるところだ。
普通、そういう複雑な人物が大量に出てくると物語がうまく構成できないと思うのだが、設定のうまさの1つに主人公が酸いも辛いも知り尽くした老人に仕込まれたせいで、口上が時代がかって大仰、手品師の心得として相手の心理を読み解くのが得意、ってのがある。
前者はマジックの場面の演出に言葉がたくさん入り込むことで魅力的にするのに役立っている。
が、特に後者の設定がうまい。それによって登場人物の背景説明を自然と話に組み込むのに役立っている。主人公はすぐに相手の台詞の奥底を見透かしてしまう(が、周りの人たちは額面通りに受け取ることが多い)のだが、子供の立場とかさまざまな要因からそれをうまく説明することができない。結果的に物語がスムーズに流れる。それにしても、単に女たらしで独善的なだけで、頭は切れるし、視野が広くてなかなかの人物である心理学の先生の使い方がうまい。
隠れた(本屋大賞を受賞していたらしいが、それほど人口に膾炙しているとは思えない)大傑作だった。
本屋に平積みになっていてわけわからない(が、もちろん、河畔の街で名前がセリーヌなら巴里を舞台にしているのだな、わかるわかるぞ、という心の動きはある)から買って読んでおもしろいがまだ序盤過ぎる(のでまだなんとも言えない)。
にしても、どうも「教養マンガ」というジャンル(おそらくエマあたりが嚆矢なのだろうが、なんといってもトマトスープの諸作品が素晴らしい)が勃興しつつあるように思える。
で、どうもおれは教養マンガというジャンルが好きだ。
・教養小説(ビルドゥングロマンス)とはちょっと違う意味で考えていて、歴史マンガのように最初からある特殊な知識を前提としたものというよりも、主人公が動くことで自然とその物語の舞台にある知識を読者が教養として吸収できる(もちろん主人公のビルドゥングもあるわけだろうが、主眼は主人公よりも背景にある)、というような意味。で、作者の興味もそういったその時代を構成する諸物(したがって歴史、という括りとは異なる)に対する興味や偏愛にある。
このマンガは、19世紀のおフランスに田舎から出てきた14歳の小娘が謎の紳士に気に入られてさまざまな職業体験をすることで読者に19世紀のパリの社会を見せまくる趣向のようだ。お針子、女中、百貨店などなど。
実におもしろい。
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