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元旦は、妻がツタヤからレンタルしたそれでも町は廻っている三昧で過ごした。
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さらっと言い間違いして、意味不明だなと思いながら下の右コマを読むと、その言葉を背景に驚愕している警官を配し、その左にどう間違いたかを推理する少年を配するという進行がドツボにはまる。
どうでも良いかも知れないが、家もネコ(犬ではない)のフリをしたタヌキを飼っているので実に親近感が湧く。
というか、これで完結だと思い込んでいたら、どうもおれもなんかの誤情報を信じていたようだとわかって驚いた。
妻が正月用にツタヤでレンタルした近藤ようこのルームメイツを読みふける。
抜群だ。
近藤ようこの印象は、旧ガロの身毒丸や、劇画マスカット(かなぁ? アリス亡き後にあのへんの劇画家の逃げ場みたいになった雑誌)に載っていた、ちょっとおっかない系のやつが強いので、頭がおかしいルームメイトが夜な夜なナイフを片手に放浪するようなやつかと思ったら、まったく違った。
中学卒業してすぐに芸者になって、あっというまにどこかの道楽人にひかれた女性(今は小唄の師匠)と、学校教師の職を得たので戦死した父の代わりに家庭を支え気づけば60目前という女性が、同窓会で久々に出会う。
1991年の作品なので60なら1931年生まれ、まあ数はあう(最初、比較的新しい作品だと思って、舞台の時代をずらしたのかと思った)。
二人は孤独な老後を支えあうことで意気投合してマンションを購入して共同生活を始める。
しかし、かっては粋で美しい(60近くになっても美しい設定)お妾さんとして生きてきた女性と、気づけば独身60間近の固い高校(忘れた。中学、小学かも)教師の女性で、生活スタイルがマッチするわけがない。早速険悪な様相を帯びてくると、そこに同窓会で一緒になった、もう1人の友人が荷物片手に飛び込んでくる。家出してきたのだ。
平々凡々な専業主婦として生活してきただけに、同窓会の席上ではお妾暮らしと独身教師とは決定的に決裂したはずだったのだが、なぜか、急に定年退職して家に居続ける夫との生活に耐えきれなくなって出てきたのだった。
あきれかえる二人。
しかし、一家の主婦として夫と子供たちをあしらってきただけに調停能力抜群な彼女がいるほうが、安定した3人暮らし(ということになってしまった)が送れると気づいた二人は受け入れることにする。
かくして、60間近の女性3人の共同生活が始まる。
一方、家出主婦に取り残されてゴミ屋敷化する夫の惨状に見かねた長男とその賢妻にして良母な妻、自由な結婚生活を標榜する長女とその研究者の夫、さらには、かって教師と結婚寸前までいった元教師とその脱サラして喫茶店を営む子供と、その後妻、役所で固いと評判の栄養士(料理教室では小唄の師匠の先生で、小唄の弟子になる)とその両親(長女1人の田舎家庭なので婿養子が欲しい)と彼女と相思相愛になる農家の長男とその両親(嫁は欲しいが農家の娘以外に興味なし)、さまざまな家族の様相と生活のあり方が入り乱れて小さな事件が次々起きる。
死期もみえるし、病気は怖い。お金は先立つもので、子供はかわいい。
それでも地球は廻っている。
これは傑作だ。
ルームメイツ コミック 全4巻完結セット (ビッグコミックス)(近藤 ようこ)
1991年という時代を背景にしているから、会社員というのは非常に安定していて、その主婦というのもこれまた安定した存在(しかし、心情的には実に危うい)という点は、現在とはずいぶん異なるように感じるが、人の心のありようは、それほど変わってはいないようにも見える(LGBTという生き方は出てこないが、そこまで膨らませる必要もなければ、そういう時代でもなかったということだろう)。
つまり、常緑の傑作といえた。
自由に生きたいものだな。
追記:そういえば、以前読んだ三文未来の家庭訪問も家族の在り方というものについてのマンガだったな。
4日は、RaspberryPIをいじる集まりに参加。
以前購入してたまにいじっているPi3があるからだ。
Raspberry Pi3 Model B ボード&ケースセット 3ple Decker対応 (Blue)(-)
アクセスライブラリさえあれば単純な入出力を持つ周辺機器を操作するのはわりと自由にできるのだが、結線するところの知識不足や、ネイティブライブラリがPython用だとかいろいろ厄介なところがあるので、周りに人がいてくれたほうが助かるだろうとか考える。
一緒に購入した電子工作エントリーキットに圧電スピーカーが入っているから、それが使えるはず。
Raspberry Pi電子工作エントリーキット(Economy)(-)
(購入したものの手つかずのままだった)
電源とWiFiは会場を提供してくださったISAOが用意してくださるそうだが、家では直接モニタとキーボード、マウスをつないでいじくっているので、さすがにモニタは無いだろうといろいろ考えて、事前に使わなくなってずいぶんとたつAirMac Expressの閉鎖環境を作った。
・AirMac Expressのプライベートネットワークを作る
驚くことに、MBP(Sierraにアップデート済み)からは一切設定ができない。さすがアップルだ。
・しょうがないので、検索してWindows版のAirMacユーティリティを使ってセットアップする
・閉鎖ネットワークにつなげる前に、RasbperryPIにVNCサーバをインストールしておく(なんかいっぱい種類があったが、RealVNCにした)
・RasppberryPIは(追記:HWじゃなくてRaspbianだ)、直前に接続したAPを覚えているらしいので(実際に試して確認)、AirMac Expressに接続した後、固定IPアドレスを設定しておく。これで、次に電源が入るとAirMac Expressに繋がるはず。
・Surface3(にして後で助かった)にVNCクライアント(検索してトップに来たRealVNCのViewerを選んだ)をインストールして、AirMac Expressに接続してRaspberryPIにssh(bash on Windowsは便利だな)でつながることを確認。VNCクライアントでつながることも確認(上でRaspberryPI側に設定したIPアドレスを覚えさせておいた)。
で、会場でAirMac Expressを電源につないで(インターネットにつながっていないので緑にはならない)、RaspberryPIも電源につないで、そろそろ起動しただろうというところで、Surface3からVNCでつなぐ。ばっちりだ。(が、sshで十分なのでしばらくVNC側は放置してしまったが、後で役に立つことになる)
・ふと気づくと、Surface3側はふつうにインターネットにもつながっていて検索でもなんでもできる。SIMとWiFiと両方生きているからだ。SIMモデルは便利だなぁ。
・で、チュートリアルを見ながらLチカすることを確認。
・あまりPythonを使う気にはならないので、Visual Studioを使ってC#で組んでRapsberryPIへ送ってmono(事前にapt-get済み)でも動かしてみる。Surface3でVisual Studioはあまりうれしくはないが、10年前のPC+Eclipseよりはさくさく動くから我慢する。
・さて、scpか? と思ったらVNCクライアントにファイル転送機能があることに気付き、それを利用する。えらく便利だな。
・次に、同じくチュートリアルを見ながら圧電スピーカーを配置してみるが、まったく動かない。はて。
・しょうがないので、スキップしたPythonのコードを入れてみる。エラーになる。
・TechShareStoreのチュートリアルのHTMLのひどさにあきれる。サンプルプログラムはpreタグで囲まなきゃコピペ(先頭に空白も入っているのでこれもだめだが)できないじゃん。しかも、インデントが全部消えているから厄介このうえない。
・しかし、やはり2つ目のLEDが点灯しない。
・目が悪いこともあって、結線がおかしいのかと何度もチェックするが、おかしくない。
・というかGPIOの回路図の線がおかしくないか?
・周りに聞ける人がいるというのはありがたい。@youchanが、数字がPIN番号だから、回路図の並び順はまったく関係ないと教えてくれる。なんで、こんな絵を掲載してるんだろう。
・が、やはり2つ目のLEDが点灯しない(この2つ目側から圧電スピーカーに繋がっているのだ)
・良く良く見ると、配線図にGNDへつながる線が載っていない。これか。
・で、とりあえずPWMをPythonから操作するところまで進む。PWMってなんだ?
・HIGH/LOWはわかるがと言ったら、隣でギターの練習用ネックをスイッチにした楽器を作っている人が、指定された周波数になるように自動的にHI/LOWを切り替える機能だと教えてくれた。
Andoer ポケットギター ギター アコースティックギターの練習ツール 6弦 4フレット 初心者対応 バッグ付き(-)
(世の中にはこういうものがあるんだなぁ)
というのとは全然関係なく、会場にOculus RiftとOculus Touch(と、取っ手がついた強力そうなPC)を持ち込んで伝道している人がいて、デモゲームのようなものを体験させてもらった。
すげぇ。
フロッピーを掴んでコンピュータに挿入するとおもちゃのロケットが転送されてくるから、目の前のロボットに向かって発射するというものだったが、完全にノックアウトされた。
こりゃ、人生を賭ける人や伝道師が出てくる道理だ。まったく新しい体験じゃん。
Oculus Rift CV1 US版 オキュラス・リフト[並行輸入品](-)
・ウルトラマンに始まる特撮ものや超人ものの中で多分アイアンキングだと思うが(違うかも:追記ジャンボーグAだった。はぶさんありがとう)、自分が直接変身して巨大化する(ウルトラマンとかビッグXとか)のでも外部から操縦する(ジャイアントロボとか鉄人とか)のでも内部から操縦する(マジンガーZとかガンダムとか)でもなく、なんか端子のようなものが手足と頭について、中で身動きすると外側のでっかなロボットか巨大生物が連動して動作するのがあったが、それに近い独特な感覚と没入感があってむちゃくちゃおもしろい。とにかく、目の前に何かがあり(空中に浮かんでいるのだが、それがあるものとして見える)、それに対して手を伸ばして掴んで運べるとか、首を振るといった動作と視野が連動しているとか、あり得ないことが現実にあるものとし否応なく体感してしまうのが圧倒的だ。理屈ではないな。
数年前、我が家に牛すじ煮込みブームがやって来て(子供が何かを見て食べたいと言ったからなわけだが)、しかし、何度目かに妻の怒りが爆発してそのまま消滅していた。
先日、高田馬場のY'sマートへ行ったら、100gあたり380円くらい(これはすじとしては異常に高価)の解凍牛すじの半額セールをやっていたので、最近寒いし、何が妻の怒りを招いたかはわかっているのでその点について妻と交渉して、800g程買い込んできた。400g弱の青森のほうの牛と同じく400gほどの千葉のほうの牛だ(国産のトレースされた牛なので高いのだろうとは思う。すじは通常100gあたり200円を大きく割り込む価格で入手できる。高級スーパーで買っても(そもそもあまり売っていない)300円を割り込む価格だ。その意味では半額セールでふつうの価格か、ちょっと高めという感じだった)。
参考までに都内山手線渋谷-目白区域だと、富久町のイトーヨーカドー食品館、大久保の三徳あたりでは良く売っている(売っていないときもあるが、数年前の記憶では、三徳だと、店の人に言うと奥から持ってきて呉れることが多い。それほど売れないのか、店頭出ししていないことが多いようだ)。
・準備
まず、調理台と流し周りを片付ける。流しに洗い物があったら洗って拭いてしまっておく。
ここが重要で、すじ料理は異様なほど、調理中、調理後がヌルヌルになるからだ。最初牛脂だと思っていたが、それにプラスしてコラーゲンというか溶けだした膠も相当影響するのだと思う。
台所がすっきりしたところで、調理を始める。
で、途中まで書いていて、どうも以前も書いたようだと思って調べたら2012/1/15に作り方を書いていた。5年前に牛すじ旋風が吹き荒れて台所と流しに放置されていた皿やらフォークやらがツルテカになりまくっていたのか。
というか、成人式のあたりは牛すじ煮込み日和なのだなぁ。
とにかく煮込むことだけが重要な料理なので、料理のプロセスとしては、とにかく、コラーゲン+牛脂(あるのかどうかわからんが)とアクで、流しが汚れまくるのを事前に片付けておいて、こまめにキッチンペーパーかトイレットペーパー(で十分だ)で拭き取ることが重要なのだ(これが今回、変えた点。こまめにやれば大した話ではなかった)。
今回はショウガは入れず、ニンニクは3房にした(以前書いたやつを読んだのではなく、なんとなくアドリブ)。
あと、2度目の煮込み(最初の湯通しみたいなのではなく、本格的に3時間くらい煮込むところ)の後で、以前はわざわざゆで汁をボウルにあけていたが、それはやめて、直接大根を放り込むように変えた。
ようは、大根を下にうまく入れたい(と田村先生流の水量になるように調節したいから)だけなんだから、そんな面倒な手順は無視できる。というのは、牛筋を十分細かく切っておけば、大根は菜箸で押さえて下に沈められるからだ。水を足さなくても良いのは、断熱調理器具を使うことで、蒸発させないで済むからだ。あらかじめ、大根分の体積を考えて水を入れておけば良い。簡単なことであった。
この時点でミリン(後から砂糖を入れるわけなので、酒ではなくミリンでも味は問題なさそうに思うわけだが)ではなく酒をダバダバ入れるのは、ミリンの砂糖を最初の時点で入れると浸透圧の具合が良くないからだろうと思う。目的は臭みを散らすことと、温度調整のためなんじゃないかな。
あと、大根は丸々1本入れるくらいで良い(4.5リットルの断熱調理鍋の場合)。今回なんとなくこんなものだろうと2/3本くらい入れたらすぐに食い終わってしまって、後から追加することになったからだ。昆布は今回、家になかったから日高昆布を買って1枚をちょん切って入れたが、食べるとあっという間なので2枚入れたほうが良い。
いずれにしても断熱調理器具は実に便利だ。
サーモス 真空保温調理器 シャトルシェフ 4.5L クリアステンレス KBG-4500 CS(-)
・家のは買って余裕で4半世紀はもっている。ステンレスだから錆びないし、中で炒めたりはしないので焦げ付きができるわけでもないし、頑丈だから全然壊れないからだ。そう考えると、1年あたりのコストはとても安い鍋だ(というわけで壊れない部品だけだとメーカーとしてはうまみがないので内蓋をガラスにしてみたのかな? 家のはステンレス蓋だ)。
子供がチケットがあるから西洋美術館へクラーナハ展へ行こうと誘ってくれた。何を言っているかわからず聞き直すとクラーナハと言う。さっぱりわからず聞き直しているうちに、クラナッハか、そりゃすごく見たい、行こうということになった。
この人もまたギョエテやシルレルの仲間だったのか。
おれがその名を初めて見たのは多分中学か高校の頃で、澁澤龍彦が書いた美術史関連のエッセだ。いずれにしても、その時点で平凡社のギャラリーシリーズか何かを後で眺めて確かに妙だなと感じたのは記憶しているというわけで、クラナッハの画は見ればすぐにわかる。あまりに特異だからだ。
(これかなぁ? 今となってはまったく思い出せないが、読めばわかるだろうけど……と思ったら時期が全然違うからこれではなかった)
子供が名前の変遷について解釈してくれた。クラナッハのナッハはバッハと同じなので、クラナッハと最初は表記したのだろう。が、残念なことにクラナッハという字面は(おれがまさにそうなように)ナにアクセントが入る。それは正しくない。なので平坦になるようにクラナハと表記するようになったのではなかろうか? が、残念、クラナハと書くとアクセントはナかハに来てしまう。それも正しくない。そこでクラーナハと表記するようになったのではなかろうか。これなら正しくラにアクセントが入る。しかし、これをクラアナハの5音節にするのは大間違いで、あくまでもこの場合の長音記号は日本語としてのアクセントの位置を示すもので、ドイツ人であればアクセントがあるから他の音よりは若干長めに発声される可能性はあるが、あくまでもクラナハが正しく、その意味ではクラナッハのほうがより正しい。しかしカタカナとしての音韻は……
いずれにしても、それで最初何を言っているかまったくわからなかった道理だ。というか、生まれて初めて(おれ以外の人間が)音でクラナッハ(と発声するの)を聞いたのだな。そのくらいマイナーな画家なのかと気付いて驚く(その名と画風を知って数十年たつから当然ふつうの存在だと思い込んでいたのだった)。
で、入り口の能書きにこれが日本で最初のクラーナハの展覧会とか書いてあって、なんと、これが日本で最初の個人名での展覧会なのかと驚くと同時に納得もしてしまった。
おれの感覚だとデューラーやフェルメールくらい良く知られまくって人気がある画家になっていたからだ(画そのものはなんだかんだと良く使われている印象もある)。
説明を読むとザクセン選帝候の庇護を受けと出て来て、出たなサクソニアと先日読んだミヒャエル・コールハースの運命を思い出すというか、ルターの有名な肖像画を描いたということもあって、言われてみればそりゃ出てくる道理だ。ミヒャエルコールハースでもルターが大活躍していたのだから、そりゃザクセンだ。
クラナッハは1500年代あたりからがんがん署名入りの作品を描き始め(少なくとも展覧されているものについては)、1510年代がどうやら安定期、1520年代から画風にエロが加わり1530年代に様式美を確立、しばらくすると仕えて3代目の選帝侯(最初はフリードリヒ賢明公に仕え、次に賢明公の弟にあたるヨハン不変公に仕え、最後に不変公の息子のヨハン・フリードリヒ豪胆公に仕えて、そこで豪胆公が神聖ローマ皇帝軍に敗れて廃位(拘留されているところに面会に行ったとか書いてあるから、どれだけ仲良しだったんだ、というか最初のあたりにある、まだ子供の豪胆公が大きな上着を着て(なので袖から手が出ていない)馬を駆っている作品が印象的なくらいだから仲良しというのとはまた違うんだろうけど)させられた後はモーリッツザクセン選帝侯に仕えて(このあたりで子供のほうのルーカスクラナッハに代替わり)ばかでっかなモーリッツと奥さんのデンマルクみたいな名前の人の肖像画を作っている(贈り物なので木の台ではなく持ち運びが手軽なキャンバスに描いてあると説明があって、こんなでっかな絵をもらって何が嬉しいんだ? とかその時は考えたが、受け取る側の居城のばかでかさや、おそらくある種の(意識せざる)呪術的な意味合いを持つ人質の役割とかあるのかなと思い直す)。
宮廷画家としてのクラナッハの存在感のでかさはWikipediaのザクセン選帝侯4代の画が全部クラナッハだということで再確認してしまった。
さてクラナッハは工房を作り、木版画の技術を駆使するだけではなく、画家としても速画家として知られて、がんがん作品を作りまくる。息子も大活躍。
プロダクション体制から考えるに現代のマンガ家さんにえらく近いものがあるのだろう。
そういえばグエルチーノも速い、安い、うまいで大人気だったなと思い出す。
というか、グエルチーノ(1591年生まれだから活躍は17世紀初頭)も途中からガンガン女性の裸体画を売りまくった男だった。
ドイツとイタリア、16世紀と17世紀とえらく異なるが、やっていることは同じじゃん。
宗教画で修行を積みながら速い、安い、うまいで名をなし、その後は裸の女性で大儲け体制に入るというのが、画家の成長戦略だったのだろうか。
というわけで1500年あたりには、やたらと豊饒なヴィーナスのお尻だったものが、1520年代には白くてお腹だけぽっこり出ているツルペタ女性を個人から依頼されて描きまくったようだ。
比較のためのデューラーの同工異曲の作品も展示されている。デューラーの作品はダヴィンチと似たような、人体の正確な再現だ。筋肉ありき。
が、クラナハは全然違う。異様なほどデフォルメされているのだ。そのデフォルメの方向が異様に見える。が、もしかすると少しも異様ではないのかも知れず、ほわほわの髪、ツルペタ、脚線とかそういった個々の要素に、何か妙な刺激性があるように感じる。その意味で3次元とは関わりなく2次元であれば表現可能なこうあって欲しいというある種の依頼主の共通願望を持つ画なのだろう。
この時期のアダムとイヴが特におれには素晴らしく見える。特にイブの顔と髪と脚(なんか、売れるパターンを数種類持っている作家らしく、この画の脚のパターンについての言及が説明板にあったような記憶がある)が素晴らしい。あと、とってつけた木の枝が最近の指1本にやたらと似ていてまあ500年の伝統芸だなぁと思ったりした。
少なくとも(と、順路をたどると)マルセル・デュシャンもアダムとイヴにぴんぴん来るものがあったらしく、本人が全裸になって再現写真を作ったり再構成した画を描いたりしている(というように、時代を超えた影響作も展示しているのがおもしろかった)。
時代を超えた影響作として、本邦では岸田劉生と村上知義の作品が展示されていたが、その2作はどうにも牽強付会とおれには感じられた。
その前に、市井のしかし衣装と装飾具からは金満な夫婦の2枚画があり、説明には当時の女性観から妻は小さく控えめで……とかあり、いやそうは見えないぞ、単に小柄だったんじゃないか? と思ったら、後で子供も同じことを言っていたので、どうも説明が牽強付会……と思うと、すぐ脇に展示されているモーリッツ選帝侯と奥さんの2枚画だと全然そんなサイズの違いはなく、さらに圧倒的なルターのやつだと奥さんもまた堂々たるもので、でもまあ、画の依頼主の指定もあるだろうなとかいろいろ考えて良くわからなくなる。
ルターは左側で目線は左側、奥さんの目線はルターなのには意味があるのだろうかとか考える。そういえば、目線が常に妙だ。
女性がたくさんいると、かならずこっちを見ているのがある(誘惑がどうしたとか能書きがつくが、それは確かにそうなのかも知れない)。
で、良く見かけるユディットには圧倒される。この目つきだな。
左下にあるホロフェルネスが、目は上向き三白眼、口を半開きのあへ顔ぽく、続くサロメが持つヨカナーンがこれまた目は上向き三白眼、口を半開きのあへ顔なのが相当おもしろい。子供はクールに、秘伝のパターン集の生首がそうなっているからだろうと言うが、歯を悔しそうに食いしばるパターンとかでも良いのに、おそらく注文主がそうであってほしいパターンでフィルタリングしているうちに落ち着いたパターンなのではないかとか考える。
最後のあたりで、イランのアーティストが中国の贋作家をたくさん集めて模写させて作成したインスタレーションが展示してあり、これにもしびれまくる。すごくおもしろい作品。ザハといい、レイラ・パズーキ(この作家)といい、おもしろい作家をイランは輩出させているなぁとか考える(とはいえ2人だし、ザハは画家ではないが、ある種のインスタレーションではあると考える)。(追記:ザハはイラクでした。八木サンチームありがとう)
最後のメランコリーが最高だ。画の左から全体の2/3を使った大きな部屋の中で15人の裸の幼児というか天使というかがてんでばらばらに踊りまくっている。メランコリーに苦しむ女性は右端に、どうでもいいやと言わんばかりに置かれている。むしろ上のほうの怪物たちのほうに存在感がある。が、圧倒的なのは愉快な子供群だ。まるで、これはパンダの幼稚園ではないか。
と、実に粋な終わらせ方をしていて、牽強付会の4文字が常について回るのも含めて、主体たるクラナハのみならず、美術館のキュレーターの意思から生まれたインスタレーションとみなせるわけで統合的におもしろかった。
とにかく、楽しみまくった。素晴らしい展覧会だった。知らずに期間が終わるところだったので子供に感謝しまくる。
・デリラの深紅の服。
・ピカソはいい加減に書いているようでもやっぱりピカソだなと感じ入る。というか胸の谷間がどれだけ好きなんだ、このおっさんは。
追記:ちゃんと書いておかないと忘れてしまうかも知れない。実は1番感動したのは、心を打たれたのは、蔵書票の展示のためにガラスケースの中に置かれたクラーナハの友人の蔵書だ。500年の時を経ても、書籍の形で、色は焼けているけど、紙は紙として、しっかりした布の装丁を保っていて、物理的な存在する言葉の塊として、その書物(それがなんなのかは知らないが)は、そこに500年の歳月と共にあった。それが本なのだ。
(吐夢大佐から)
_ http://desireart.exblog.jp/ [こんにちは、 私も「クラナッハ展」を見てきましたので、ブログを興味深く読ませていただきました。デューラーfは生粋の芸..]
昨晩は池袋ジュンク堂で高橋さんの2017年版このコンピュータ書がすごいに参加。
いろいろ買ったが(やはりドンカルロス スペインの皇子は無いな)、コンピュータ書では取り上げられていたマイクロサービスアーキテクチャを購入。
この2〜3年ほど、いつの間にか作られていた野生のマイクロサービス相手にいろいろ手直ししてきたが、あまりのひどさにここ数ヶ月で新規に設計し直して実装し直している。
おれの設計はどう考えても理に適っているし正しいが(必ずしも美しくはない)、そうはいっても世の中の趨勢とかけ離れているような見識や業界の狭さに起因する設計バグがあるかも知れないな、と考えたからだ。
そもそも野生でそのへんをうろついているくらいに、マイクロサービスは、分散システムではむしろ自然な実装形態となる。
問題は、依存性(実行時のDIとかだけではなく、設計レベル、仕様レベルでもあるし、配布レベルでもある)の解決と、状態の管理だ。
状態の管理からはセントラルコンテキスト方式が最適なのではないかと考えるが、他にも賢くて効率が良くかつ安全な方策が考案されているかも知れない。
依存性を減らすには、サービスの層を薄くするのが肝要ではないかと考えているが(野生のゴミクズは、何も考えずにモデルという名前のデータ転送オブジェクト、無意味に複雑なデータアクセス層、名前だけはリソースとなっている外部インターフェイス層の、典型的なばかの1つ覚え3層構造になっていてうんざりさせられたので、それに対するアンチこそが正しいと結論づけたからだ)、もしかすると異なる賢明な多層構造があるかも知れない。
というわけで今頃になって読んでいるのであった。
というか、前書きにも名前がついたのは最近だが、普通に作ればマイクロサービスになるよなとか書いてあって苦笑する。そりゃそうだ。
なぜか、マイクロサービスの本だと思って読んでいると2章が、アーキテクトの役割とは? みたいな内容で面食らう。
P.19のバグ
誤)「例えば場合」
正)「例える場合」
が、意図はわかった。
まず、再定義を行っている。
建築士ではなく、都市計画者。つまりシムシティをプレイするように進めろ。
常に変化し、市民の要求は変化し(退屈だ→野球場を作る→渋滞はごめんだ→公害をどうにかしろ)、しかし区画の中は放っておくか、環境(外部インターフェイス)を変えるかしか、手はつけられない。
で最初の時点で、フレームワークの作成者であれと書いている。
戦略目標←アーキテクチャ原則←プラクティス
の図はうまくまとまっていて参考になった。
復習とか再確認の章だ。
というか、全体がそんな感じとも言える。
悪くない。
ちょっと絵を書いてみた。用語はおれさま用語なので違う言い方があればそれは知りたいし、カテゴライズについて異なる見方はいくらでもあると思う。
意見はツッコミまたはメンションでどうぞ。
で、上の絵の「2.支援」「4.分析」についての本が、はじめよう!プロセス設計。
はじめよう! プロセス設計 ~要件定義のその前に(羽生 章洋)
で、上の絵の「5.業務設計」と「6.支援」についての本が、はじめよう!要件定義。
拍手が止むかやまないかのうちにいきなり序曲が始まる。おそろしく思い切りが良い指揮に驚いた。イヴアベルで、この人の指揮はいつも好きだ。
ドンホセはマッシモ・ジョルダーノという人で実に良い声で気持ち良い。ミカエラは砂川涼子という人できれいな通る声で、ドンホセに伍していて良い感じ。カルメンも迫力十分。エレーナ・マクシモワという人。
エスカミーリョは最初、なんか通らないなぁと思うのだが、時々実に美声になったり、またくぐもったり、舞台装置との位置の問題なのかなんだか不思議な感じだった。
2幕は素晴らしい。3幕も悪くない。占いのところがなんだか妙に新鮮な感じ。
最後、山を降りるエスカミーリョの声がやたらとよく通って、ますますなんだか不思議になる。ボール・ブレッツという歌手。
3幕から4幕は休憩なし。
4幕の闘牛士たちの行進はおもしろいし、その後のホセの泣き言と未練たらしさの音楽はやはり好きだ。ジョルダーノは実に良い。
最後イヴアベルは三浦と手をつないだのは、合唱あってのカルメンだからか、合唱指揮者と指揮者の関係は本当に人それぞれだな。
1幕はちょっと退屈したが、カルメンはやはりよくできたオペラだなと思った。
終演後に、飯守監督による来季演目の説明。とにかくオペラとしてはだめなフィデリオを、しかしこれこそがドイツオペラの原点として楽しませるのだという決意表明みたいな感じ。何しろ聞き所?と聞かれて、囚人の合唱は良い曲で、新国立の合唱団は世界レベルだからどうしたとか、あまりオペラの聞かせどころ説明とは異なることになってしまうところが苦しそうだ。
そのあたりで演出にカタリナワーグーナーを持ってきて、退屈さを減らそうという魂胆がありそうだ。が、最近は美しい演出をするように変わってきたというようなことを何度も繰り返したのは、マイスタージンガーの素晴らしい演出に対する反感みたいなものがあることを恐れているのか、本気で言っているのかどちらなんだろう。
ジェズイットを見習え |
_ はぶあきひろ [ジャンボーグAですかね?]
_ arton [それだ! やっとわかった(時期的に覚えないくらいしか見てないのも思い当たりますね) https://ja.wikip..]