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紀ノ国屋ホールで渡辺えり演出の『ガラスの動物園』と『消えなさいローラ』。
渡辺えりというか渡辺えり子の舞台は本多劇場でゲゲゲのゲとかを見まくっていた頃以来のような気がするし、紀ノ国屋ホールは子供を連れて劇団プークのエルマーと冒険以来だ。というか、エルマーと冒険のポスターが貼って合って、劇団プークは健在のようでなんとなく嬉しい。
ガラスの動物園は岡田トム版やオデオン座版に続いて毎年観ていることになる。
渡辺えりがアマンダ(母親)を演じる以上、上記2舞台のヒステリックで干からびた雰囲気を醸し出すアマンダのガラスの動物園とは随分と異なる印象となるだろうと思っていたし(だからアマンダがはしゃぎ出すとむしろ怖い)、実際その通りなのだが、それ以上に、笑いの要素をがんがん突っ込んできているのには驚いたというよりも、なるほど渡辺えりの作品だ! という嬉しさのようなものがある。かくしてそこら中で笑いながらガラスの動物園を観るということとなった。
たとえば、ジムの訪問を前にいきなりドレスを着て登場してくるときに過去の亡霊が立ち現れてくるのではなく、突拍子もない賑やかさがふりまかれる。で、セリフで腰回りがどうたらと言うものでそこで一笑。
というわけで、語り部であり主観の側のトムよりも、アマンダの子供たちに対するじれったさと、心から愛していた夫のあり得ない帰還に対する思いが強調されて、なるほどそういう解釈でも作れるのだなと感心した。
とはいえ、あくまでもガラスの動物園なので、どうにも出口なしの状況からトムがたった一人で逃げ出すことに変わりはない。
というか、ユニコーンの角が折れて普通の馬になってしまったことをローラはこれで良かったのだとジムには言うのだが、しかしそうはならないところがこの作品の一番恐ろしいところだな。
を2時間半休憩なしのぶっ通しで観て15分の休憩後にその後の家族を描いた『消えなさいローラ』。2時間半ぶっ通しは緊張感を持続させるためなのか、2本立てにするためのホール側の時間調整の問題なのかはわからないが、長丁場をそうは感じさせないうまさなので、始まる前は後者だろうと考えていたが前者なのかも知れない。
消えなさいローラは別役実が作ったガラスの動物園のその後という設定の劇(基本的に二人芝居)で、数年か10数年後に家族を訪問する葬儀社/探偵社の青年とアマンダ/ローラの会話劇という「/」が2つある奇妙な構造かつ、葬儀社/探偵社を演じたのが(僕が観た会では)トムの役者なので葬儀社/探偵社/トムの3重写しとなって異様な光景となる。
2本続けての上演なので、ジムの悪戯(単なる行儀悪さかも知れない)が実はネタとネタ回収になっていたりして笑わせる。というか、これまた深刻劇なのに笑いはまったく失われないのがおもしろい。
内容としては作り方次第でミステリーになるところを、そうではなくローラの心象風景の深みに潜り込んでいく物語として構成しているので観ていてスリルがあって展開が読めそうで読み切れずおもしろかった。が、今気づいたが、ラストの記憶が無い。どうにもならないままに終わってしまったのだろうか(もちろんいわゆる落ちや下げがあるわけではないのだが、どうフェードアウトしたのかの記憶がない)。
別役実の舞台はもしかしたらこれが初見かも知れないが、中学生の頃、寂しいおさかなが大好きで(おそらく本が最初ではなく何気なく視たおはなしこんにちはがおもしろかったので本を手に取ったような記憶がある)何度も読み返したのを思い出した。
妻が林芙美子邸の見学会があるから参加しようというので二人で申し込んだのは良いが、僕だけ当たったので観に行く。あいにくの雨だったが、庭が雨に濡れていて、それもまた風情があって良いものだった。
場所は中井の四の坂の登り口の角で、こんなところにあったのかと(中井には大沼映夫先生の家に用があって行ったことがある)思う。
玄関は坂の下の表玄関口からS字に曲がったところにあるのだが(道路に面した入口を開けても直接の玄関が見えないのは、アレキザンダーのパターンにもあったがそういうものなのだろう)、新宿文化事業としての入り口は坂を上ったところにある勝手口側にあった。
(坂の下の入り口から宅を見上げても玄関は直接見えない)
元は書斎(兼仕事場)のつもりの和室が明るくて賑やかだというので隣の納戸を仕事場にしたために、元書斎に続く和室に置き押し入れ(という言葉を初めて知った)を置いた(置くが重なるが、名前に「置き」が前「置」されているのでどうにもしようがない)とか説明された。元書斎には本来は本棚と仕事机があったらしき床の間とその脇にも床の間があってちょっとおもしろい。その向かって右の床の間には梅原龍三郎の薔薇の絵の複製が飾ってある。
なんでも緑敏はこの家で薔薇の栽培に目覚めて素晴らしい腕前になったらしい。というところから梅原龍三郎は薔薇を描くなら緑敏の薔薇と決めつけていたそうだ。
で、ふと中井英夫の流薔園を思い出したりしたが、中井英夫は中井に住んでいたわけではないだろうから、関係はないだろう。
玄関を右の1.5畳の上がり框(1.5畳が縦半分の半畳(初めて見た)が3枚)の右手が編集者の待合室で鬼門封じの庭が見える。おもしろいのは玄関の突き当りの左は母親用の小間へつながるようになっていて、入り口だけは2世帯住宅になっているところだ。
(小間側から玄関越しに控えの間を見る)
一方、勝手口に回れば明らかに異なる二棟となっていて、どうも建築当時(1941年頃)の時勢を反映して大邸宅はいろいろ差し障りがあるので2軒ということにしたらしい。
控えの間を無視して廊下を進むと左側に不可思議なアルコーブ(ただし和風。どうも謎の空間だったらしいが、他の参加者が気づいて学芸員に報せたらしく、学芸員たちが「あそこ、コート掛けだったんじゃないかって」「なるほどー」とか話していた。なんだかよくわからない仕掛けがまだまだ残っているらしい。平成元年に緑敏が死んで、平成二年に新宿区が文化財として買い上げて35年、まだよくわからないことが多いらしい。畳や障子は張り替えまくっているようだが、壁の漆喰は左官が消滅しつつある現在、ほぼ修復が不可能となっているらしくて、いつまで現在の姿で観られるのかが怪しいらしい)があり、その向かいに女中部屋がある。
巴里というか洋行仕込みで二段ベッドを導入したとか学芸員から説明を受けたが、普通に海軍では導入済みだから、別段洋行仕込みかどうかはわからないなぁとは思った。思ったが、女中部屋が二人用になっているのはなかなか豪気だ。
(女中部屋)
若い女性の部屋だから窓は三重にしてあると学芸員が説明する。
(女中部屋の窓は三重(多分、雨戸、網戸、ガラス戸で考えてみると当たり前だった))
そういえば、子供の頃の家には屋根裏に女中部屋があったが、時期的に林芙美子の1940~50年代とはずれているが、地方のそれなりの家庭の子女の結婚前の東京生活(見物)+家事作法の教育の場としての女中奉公という風習はいつ頃消えたのだろうか? (家の記憶だと昭和40年台頭のような。一回、家出騒ぎがあって子供心に何が起きたのだろうか? と不思議だったが、つい帰りが遅くなることもあるだろうとは今になってみればわかる)
いずれにしても、家にあった女中部屋にしても林芙美子の家の女中部屋にしても寝る用にしか使えないから、普段はいろいろ立ち働いているのだろうな。
その他、身長145cmの林芙美子が自分で高さを設計した台所の流しとか(実際に洗い物の動作とかしてみると、確かに低い)、檜の埋め込み浴槽(湯舟につかると窓から庭の紅葉が見える)とか見ておもしろいものがたくさんあり、学芸員の説明も知らないことばかりでおもしろかった。
どこからどう眺めても風が家の中を吹き抜けるように作られているのが実に見事だ。1940年代には暖房はあっても冷房は無いから、いかに風通しを良くして暑気払いしまくるかが肝要だったわけだが、冷房が普通に使えるようになった現在視点で日本の家屋は冬が寒いとか言い出すのは滑稽千万だなぁとか考える。もっともそのように使える技術が変わって夏場はエアコンで冷やせるのだから、冬場のあり方を考え直すのも当然のことではあった。
元書斎で受けた説明で、「まずは畳に座りなさい。立って見下ろしてもわからないことはたくさんある。なぜなら、畳の部屋は畳に座った目線で見るからだ。で、畳に座って縁側の向こうの庭を見て、鴨井を見上げ、床の間を眺める。壁を見る」というのはとんでもなく得心した。ていうか、小津安二郎の映画は視点が低いのではなく、往時に普通に生活している人間の目線ということではないか。と気づく。その家を訪れた良き隣人の視線であって、決して下男/奉公人の視点ではない。
それにしてもおもしろかった。新宿区は良い仕事をしている。
これは実に名舞台だった。
というか、新国立劇場のベルディは当たりが多い。昨年のリゴレットは素晴らしかったし、高田智宏のドンカルロは最高だったし(2014年のドンカルロも抜群だった)。
今回は指揮が大野なのでまた陶酔しまくるのかと思ったが(この人のマーラーの交響曲は聴いてみたい)、曲が構造的なので頭をフル回転させたのか、実におもしろかった。序曲の波の音からして良い。
ルングはもちろん、シモーネのフロンターリも実に渋みがあって良い(というか、この人は昨年のリゴレットの人だ。良いバリトンが入ると劇が締まってとても良いものだな)が、びっくりしたのはガブリエーレのガンチという人で丸顔小男なので日本人テノールかなぁとか思いながら観ていたら歌いだすと実にきれいな声でびっくり。これぞイタリア人テノールという歌手だった。
シモン・ボッカネグラの問題は始まってすぐの老人二人(といっても25年前なので中年と初老なわけだが)の対話が長過ぎてうんざりすること(単に背景説明のためだよな、この部分は)だが、それさえ終わると、父と娘の邂逅をはじめとして見事な歌と次々巻き起こるクーデタの陰謀やら小物感があるがイヤーゴの前身に見えるパオロの陰謀(最後捕まって引っ立てられるところも同じだが、クレドには成りきらない陰謀の歌が小物)、テノールはどうしても頭が弱い役が多いパターンに乗って誤解しまくりガブリエーレの立ち回りとか、おもしろさも抜群。それにしてもフィエスコを投獄していたことを忘れていたらしいシモーネの台詞はおもしろい。
とても良いものを観られて満足し過ぎて、来週のチケットを終演後に買ってしまった。
終演後にオペラトークがあって、特にフロンターリの話がおもしろいが、大野の話は質問関係なく一方的に話すのだが、歌手の話を引き取って膨らませるところは悪くない。
このオペラの特徴は同じ曲を再現しないことにある。
と聞いて、なるほど、すると誰も曲を覚えなくて楽譜が売れないからリゴレットでは女心の唄を3回も繰り返すのだな(と思ったらリゴレットのほうが先なので逆に金は十分に得たからいろいろ試そうとおもったのかも知れない)とか考えていたら、が、最後に海へ想いを馳せるところで序曲と似たフレーズが入ると説明が続き、あー確かに、と納得する。
他に特長として、人物が現れるときの特徴的なメロディがなく、いきなり歌手が次から次へと出てきては歌いだす(なるほど、そう言われれば、歌っている最中に背後で次の歌手が闇に隠れて出てくる演出だったが、曲そのものと合っていたのだな)というような話もおもしろい。
とはいえ、荒涼たる風景ではリゴレットの嵐の直前に似た雰囲気の音響を入れたり、奮い立てばいつものズンタタタッタが始まるし、ベルディはベルディなのだった。
それにしても、良い舞台だった。満足しまくった。
演出は、惑星終末の光景に見える。アルマゲドンの夢ではないが、合唱団というか民衆は放射能防護服か宇宙服を着ている。空には生きたクレーターを持つ衛星が今にも地上に激突しそうなまでに近づいている。
が、最後、衛星は遠くに去り、太陽を蝕して終わる(蝕なので良い前兆とは思えないが、それは別の物語となる)。
帝国劇場でミュージカルのルパン。
ルパン(というか綴りからはリュパンのような)は小学生の頃、子供用にホームズとルパンがそれぞれ確かポプラ社からたくさん出ていて、読むわけだが、どうもホームズと比べて良くわからなかった(というよりも端的つまらなかった)記憶がある。考えてみれば、ホームズは推理小説だが、ルパンは冒険小説だからだ(が、似たようなシリーズなので推理小説のつもりで読んでいたのでつまらなかったのだろう)。唯一覚えているのは、チョークで壁に落書きしている浮浪者を見つけたガイマールが追跡すると、彼をおびきだして相談するためのルパンの変装だったというエピソードと、奇岩城の不思議な造形くらいだった。とはいえ、観ていて高校生探偵イジドールが出てくると、そういえばそういう登場人物もいたなぁとかは思い当る。
どうでも良いがイジドールと聞くと、苗字はデュカスだろうと条件反射で考えてしまうのだった。まあ伯爵だし。
曲はモザールや1789のアティアで(だから観に行ったという面はある)特に1幕最後の曲が良かったし、クラリスの曲はだいたいどれもアティア調で悪くない。
蝶ネクタイが気球に化けてスポットライトで幕に月の中にルパンのシルエットのような演出は好きだ。
2幕目で敵役のマジパンのおいらはルシフェルの歌の中学生のような歌詞がうける。
26日までプライム見放題なのでやっと(というくらいに山中貞雄を見る機会がこれまでなかった)観た。なるほど、伝説化するだけのことはある。というか無茶苦茶おもしろい。
何言っているのかまったくわからないけど無問題。
広太郎が直侍(なんだが、元の天保六花撰とは違うので直侍とは呼ばれないし、三千歳の扱いがひどい(フィルムが消失されているだけかも))を名乗ったせいで宗俊と女将さんがぎくしゃくするとか、本来はクールな殺し屋金子市之丞が人情味あふれる髭面のおっさん(しかも、それほど腕が立たない)だったり、お笑い要素もふんだんに盛り込み(たとえば直侍が盗んだ小柄を売りに出して、大膳の家臣が頭悪い買い物(仲間同士で値を競り上げてしまう)をしてから大膳に戻り、そこに宗俊が強請に来た後日の何が偽物かの大膳と家臣のやり取り(後半になると台詞が聞き取れるようになる))を盛り込みながら、宗俊と市之丞が命を張って森田屋の襲撃から直侍を逃がす幕切れ(観ていて、ウィリアムホールデンとボーグナインのワイルドバンチを思わずにはいられないが、時間軸は逆だ)まで、まったく弛緩なく映画が観られる。直侍を逃がす話にするために、甘酒屋の姉のお浪(まだ16歳くらいの原節子なんだが、正直それほどきれいかなぁ)を出してくるのだが、直侍の頭の悪さと素行の悪さ、間の悪さが致命的で、観ていて腹が立ってくる(が、姉が16歳なら弟の直は14歳とすれば、まあそんなものか)。が、それだけに直に無茶苦茶迷惑かけられまくっている宗俊と市之丞が不憫な姉を助けるために命を張るラストが効いてくる。ドブ川での市之丞の戦いとか、橋の下とはいえ長坂橋の張飛のようだ(こっちは実際に戦わずに曹軍は引き返す)。最後の宗俊の槍衾は弁慶みたいで凄まじい。
というか、同じく天保六花撰の森田屋が敵側なのはいかがなものか。丑松がなんともいえない嫌な役回りにされているのもいかがなものかだが、要は天保六花撰ではなく、河内山宗俊というタイトル通りの宗俊の漢っぷりを描いた映画なのだった。
それにしても1936年に娯楽映画に必要な要素がすべて詰め込まれているとは。(もっともウォルシュのビッグトレイルは1930年だから不思議ではない)
とにかく河原崎長十郎の漢っぷりが実にかっこいい。
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