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東劇でメトライブビューイングのナブッコ。
脚本は雑だが、言葉が美しい(黄金の翼にのっては最たるものだ)。とはいえまだこの時期の作品は妙に退屈になるところがある。歌手も演奏も曲も悪くないから、おそらくまだベルディに詰めが甘いところがあるのだろう。
カッレガーリの指揮はきびきびしていて好きだし、リュドミラ・モナスティルスカの迫力は凄まじい。ギャグニッザはなんか品行方正な暴君という感じでいまいちかなぁ(好きな歌手だけど)。ベクソクジョンというテノールは美しかった。
演出というか舞台装置は玉座が実に立派で文句のつけようがない。
帰りは三越の地下で升本の弁当を買ってから帰宅。
天気がそこそこ良いが、日差しは大して強くないし、休暇を取ったので、以前から興味津々だった野川の近くの横穴墓を見に行くことにした。
確か、野川公園の中だったなと野川公園のホームページを調べたが、どこにも遺跡系のことは書いてない。
はて? と調べると、野川の近くとはいっても三鷹だった。
しかし、ほとんど同じ地区なのだから調布と三鷹で共同事業にすれば良いのに(調べるのが楽だし)と思ったが、縦割り行政ってやつだな、しょうがない。
幸い野川公園の駐車場からそれほど離れてはいないので、予定通り野川公園に行って駐車場に停めて、そこから歩くことに決めた。
で、東八道路を天地神明館を横目に坂を下って野川公園のあたりに来て駐車場の矢印を左折したら、うんざりするほど遠い。なんて広い公園なんだというか、うかつに東八道路近くの駐車場に入れなくて良かった。が、道間違えたか? と不安になるくらいに延々と細い生活道路を進んで矢印に従って左折すると妙な建築物が出てきた。これなんだ? と思ったらアメリカンスクールだった。ほう、ここにあるのですな。
としばらく行くと駐車場が出てきて停めた。(公共駐車場だからそんなに高くはないだろうと見もしなかったが結局最終的に600円だった)
で、野川公園は無視して出口を出ると五差路か六差路の三角地帯に妙な神社があって幸先が良い。これはいろいろ楽しめそうな散歩になりそうだと嬉しくなる。
竪窂地神というのは初めて見た。
で、大きなといっても片側1車線の道に出るとかって知ったる人見街道で、まるでスナックのような古物商(営業時間外っぽい)があったりするが、ふと見ると看板が出ている。妙な神社の説明かと思ってみたら、近藤勇の生家跡とある。
妻が、日野なんじゃないか? と言い出したが近藤勇と書いてあるし、結局、土方歳三は日野だが近藤勇はこのあたりだということで落ち着いた。どうでも良いが、実家の庭には土方歳三の家にあった石灯籠というのが置いてある(祖父が買った)のだが、騙りに掴まされたんだろうということで落ち着いている(ので、多摩の奥のほうだという印象は確かにある)。
で、案の定いろいろ地図が道にあるので水車通りというのを通ってまずは水車小屋を眺めてから、横穴を見て、ついでに古民家を見ようとコースを決めて歩き出した。
・家に帰ってから水車小屋や古民家でもらったパンフレットを見ると掩体壕とかほかにも見たいものがたくさんあって、再訪を期すことになるのだが、そのときは気付いていない。
で水車小屋ということから、神宮前小学校に置いてある模型みたいなものを想像していたらびっくり仰天。圧倒的におもしろい。
水車通りから入ると裏手に出て、そこにも見学は~という看板があるのだが、封鎖されていて入れない。一体どういうことだとプンスカしながら表に出たら、そちらが本当の入り口らしく入場料200円を払って中に入った。
茅葺の母屋は修繕中(クレーンで持ち上げて耐震用の土台に交換するらしい)で入れなかったが、脇にある水車小屋の中に通されたら、複雑怪奇な木の歯車(万力と呼ぶらしい)を組み合わせた巨大な産業機械(木製)がどーんとあった。直径4.8mということだ。
係の人がスイッチを入れてくれると凄まじい音と共に水車が回り始める(回りの機構との連動装置は外してあるので動かないが、どう動作するのかは想像がつく)。12rpmということは分速4.8×π×12m の流れということだな(野川がそれだけの速度かどうかはわからないが、水を引き込んで一度貯めて流すような機構になっているらしい。これの遺構も見逃した)
なるほど、これが産業用の水車なのか。水流ってすごいな。全盛期(明治~昭和初期)には近郊で256(きりが良過ぎるから端数は間違っているだろう)箇所にあったらしい。
近郊の農家と契約して挽いたり撞いたりする集積所の役回りでもあったらしいが、1杯あたりは安いとか説明ビデオで言っていた。粉にしたら船に乗せて出荷するのかなぁ。が、電化されるとあっというまに駆逐されてしまったらしい。木だけに擦り減りも早そうだしわからなくはないが、それにしても凄まじい仕組みだ。
回転運動をいろいろ変化させるための仕組みがいっぱい。
篩が重要とかいろいろ。
大唐泥犁獄の水流と木の歯車のストリームパンクもあながち出鱈目とは言い切れないな。
実におもしろい。
で、妻がトイレを使おうとしたら案内の人に、ここのは古い家屋のやつが使われていて(便器は新しくしたらしい)あまりよくないから、古民家のほうに行ったほうが良いと言われる。
では、横穴は後回しにして先に古民家へ行くか、となって水車小屋を後にした。
水車小屋で一番おもしろかった(感銘を受けた、までは行かないがなんか感じ入った)のは、最後の水車小屋経営者(この人が廃業後も小屋を確保していたので、現存する水車小屋として三鷹市が生きた博物館として公開できるようになった)の叔父さんの存在だった。
水車小屋で観た展示説明ビデオのうろ覚えになるが、叔父さんは日露戦争で砲兵だか工兵だかで戦って、技術者魂に目覚めるのだが、最終的には家業の水車小屋経営に落ち着く。
が、そこにとどまらずに、次々に新たな万力(歯車)の改良改善拡張に励んでどんどん機構を作っていく。
その結果、臼に入れた種籾ということになるのかな? が無くなるとガラガラが鳴って空挽を防止する仕掛けを作ったり(これは単純な仕組みなのだが、そうは言ってもどこにでもあるわけではなさそう)、挽き終わった粉を自動的に運搬して袋詰めする機構(とは違う気がするが、終わったものをベルトコンベアではないが自動的に移動させる機構)などの仕掛けを作り出して行く。
それを中央でグルグル回る直径4.8mの水車の動力で賄うのが実にしびれる。
使っているのは水力と木工なのだが、やっていることは経理部で働くEUC大好きExcelマクロおじさんとか、DevOpの神髄は自動化にありとスクリプト書きまくりマンとかの技術者スピリットと同じじゃん。最高にしびれるタイプだ。
(というおじさんの水車小屋経営に同じくしびれた最後の管理者が、おじさんが残した水車とその周りの機構群をどれだけ大切にしたかもわかりまくる。Excelマクロおじさんの仕組みを解きほどいてエンプラ機構を作り出すみたいな感じで継承ー発展させるみたいな)
・とあらためて書いて気づくわけだが、おれは、だから本当にここの水車小屋がおもしろくてたまらなかったわけだな。
と、ちょうどアカデミー賞の長編アニメーション賞を『君たちはどう生きるか』が受賞したので、発明家(とはちょっと違うが、なんかバランスを取る積み木が万力組み合わせでさまざまな加工を行いまくる水車から思い出された)の叔父さん繋がりであらためて思い出した。
東劇でメトライブビューイングのカルメン。
カルメンはアイグル・アクメトチナで27歳、むちゃくちゃ若い(とはいえ物語上のカルメンは例によって16歳くらいなのだろうが)が、幕間インタビューで正式なカルメンデビューはロイヤルで21歳のときというから、ちょっと普通ではない。(実際、抜群にうまい)
プロダクションが、DV男と自由な女といういわゆるフェミニズム解釈の演出なのだが(演出家インタビューでもそれっぽいことを言っている)、これまた悪くない。
軍需産業の工場、そこを監視する米軍、メキシコとの国境を超える密輸団(当然、物は麻薬だろう)、エスカミーリョはロデオの英雄と読み替えているが、子供も言っていたが、たばこ工場の前の広場を工場の入り口に置き換えたせいで、1幕は動きがなくてそれほどおもしろくもない(=良い演出とは思えない)のだが、その後は抜群となった。とてもおもしろい。
帰営ラッパが鳴り響くところでのカルメンの茶化しっぷりがとんでもない。
それにしてもスニガは無事に帰還できるのだろうか?
エンジェル・ブルーのミカエラ(ブルーの服)も良いのだが、ベチャワのドンホセがこれが初ロールとは信じがたい。ベチャワは只者ではない。
ホセに振り払われて倒れたカルメンを助け起こそうと駆け寄るミカエラ。
幕間インタビューでエスカミーリョ(ケテルセン)が、演出と舞台設定は違うけど、エスカミーリョはエスカミーリョだから全然OKみたいなことを言っていたが、エスカミーリョは確かにエスカミーリョだった。8秒ロデオマシンに乗るらしいが、映像上は出もしなかった。
そして最後の最後、本来であれば刺し殺すつもりでドスを懐に入れたホセがカルメンの前に立ちふさがるところを、手ぶらのベチャワが真情あふるる後悔の念で寄りを戻そうと歌いまくるのを、カルメンにきっぱり断られて追い払われそうになったところを激高して殴り殺すというとんでもなく真に迫った演出で戦慄した。様式美ではない。とんでもない衝撃だ。
指揮のルスティオーニは、いきなり振り始めて凄い速度で突き進む(が、花の歌などではテンポを落として歌わせまくったり、緩急自在)。好きなタイプだ。
とても良いカルメンだったというか、今まで観てきたカルメンの中で最高峰ではなかろうか(演出がとにかく光る)。
ピッコマで無料だったので読み始めたわけだがおもしろい!
とはいえおもしろいと思えるまでは紆余曲折がある。
最初は薔薇の葬列=ピーターと松本俊夫の超カルト映画の連想があって読み始めたわけだが、なんか絵柄が気持ち悪い。気持ち悪いが嫌ではない(微妙な不快感は伴う)。が、全然薔薇の葬列ではなく、薔薇は薔薇でも薔薇戦争だなとわかったわけだが、いろいろ勝手が違う。
普通に考える通りにリチャード三世(即位前なので単なるリチャードだが)が主人公なのだが、セムシ(何故か変換できない)ではなく、どうもリボンの騎士というか男として育てられている女性に見える。が、王妃から悪魔扱いされて虐待されている。わけわからんと読んでいると、下賤のものにレイプされそうになったところで実は男だということがわかる(おそらく極度の分泌異常で、女性ホルモンに極端に偏った分泌がされている男性なので、胸は膨らんでいるし皮膚や体つきが華奢とはいえ、鍛えまくっているので筋肉はついている。かっこいいなぁ)。
待て、であれば悪魔ではなく天使ではないか。と考えたが、天使が地上に落ちているのだから、なるほど確かに悪魔と言えなくはない(サタンは元は天使のはず)。
ウォリックが中年の勇者のはずなのにインテリ青年(絵の書き分けが下手なのだな)っぽかったり、バッキンガムにいたってはどこからどう見ても超秀才の眼鏡男子だったり、漫画家の趣味が出まくっているのだろうが、さすがに5巻まで読んでいると、そういう趣向でそういう絵柄であるなと納得も出てきて、純粋に薔薇戦争の再解釈ものとして楽しめる。というか、無茶苦茶おもしろい(シェークスピアのヘンリー4世からリチャード3世までは、超愛読書なので、薔薇戦争時代はちょっとわかる)。
リチャード三世といえば猪なわけだが、唐突にそこだけはマンガっぽいとんでもなくかわいい白い猪がここぞというときに登場してくるのがご愛敬だったりする。ここぞというときに登場するといえば、火あぶりにされたジャンヌダルクの亡霊をここぞというというときに登場させるのもおもしろい(設定上と歴史上の微妙な共通点があるからだろうし、薔薇戦争をジャンヌダルクの呪いとして考えることは確かに無茶ではない)。
というわけで、これまでまったく知らない名前だった「菅野文」という端倪すべからざる作家を知ったのであった。
というか、無料期間は明日までなのに、まだ5巻だから買うしかないのだろうか?(買うんだろうなぁ)
薔薇王の葬列 王妃と薔薇の騎士 1 (プリンセス・コミックス)(菅野文)
それはそれとしてATGの作品群はだいたい観ているのだが薔薇の葬列は未見なのだよな。
いろいろと信じ難い名演だった。
そもそも主役二人が次々と交代(理由は知らん)なんだが、よく探してきたもんだとトリスタンのゾルターン・ニャリは見事なヘルデンテノール(但しイゾルデより声量がなくて負けるのは惜しい)で演技も堂々たるもの(2幕最後の決闘の終わらせ方の上手さにはびっくり)、イゾルデのリエネ・
キンチャも最初のうちは張り上げて愛の死では微妙にオーケストラに負けるとはいえ実に立派、大野は前回と違って陶酔しまくりの大遅延とかなくキビキビすべきはキビキビ、陶酔的なところは元から抜群な指揮者だけに抜群、むしろ作曲家の粗(3幕最初の牧童のソロが長過ぎるとか、2幕のマルケの能書きが長過ぎるとか、3幕のトリスタンの台詞が何が何でも錯乱し過ぎ(友よと褒め称えてすぐに愚か者見張りに行けと喚きだすとかクルヴェナールに対する態度の一貫性の無さはもしかしてワグナーはげらげら笑いながらこの部分の脚本を書いていたのではないか?)のほうが目立つくらいだ。
幕切れ、赤い太陽が沈み闇の世界へイゾルデが去る演出も素晴らしい。赤い太陽と白い太陽が交代する舞台設計は実におもしろい。マクヴィカーはただものではないなぁ。
歌手は全体にとても良かった。クルヴェナールのシリンスもそうだし、長過ぎる歌はともかくマルケ王のシュヴィングハマーの朗々たる歌いっぷりも実に見事だった。誰よりも拍手を受けていたのは藤村実穂子だが、他の演者と並ぶと実に小柄で華奢なのに(しかも相当年期も入っているだろうに)どこからあの声が出て来るのか不可思議だ。それにしても凄い歌手だ。
と、実に良いものを観た。
ベルトルッチの孤独な天使たちがあまりにも素晴らしかった(一方、観ていて胸が痛くなるほど、イタい青春映画なのだが)ので、イタリアの青春文学も悪くないなと思っていた。
で、その記憶も生々しいうちに青山ブックセンターをうろうろしていたら、素数たちの孤独というハヤカワepi文庫が平積みされている(と記憶している)のに気付いた。
数学書? いや違うだろうと手に取ると、イタリアで200万部のベストセラー(人口から考えると凄い売り上げだ)の恋愛小説っぽい。
それで孤独な天使たちの記憶と相まってすぐさま購入した。
孤独な天使たち スペシャル・プライス [Blu-ray](ヤコポ・オルモ・アンティノーリ)
まま、放置していた。平積みされていたというのは出版直後だろうから10年放置の刑だったようだ。
で、連休を取ったのでつい手に取って読み始めたのであった。
これは痛い。あまりに痛い。
最初、9歳の女の子の話が導入として書かれる。
強権的な父親によって無理矢理スキー教室に通わされている。オリンピック選手を目指させたいらしいが、本人は嫌で嫌でたまらない。
ついに、猛吹雪の中でうんこを漏らして一人逃げ出す途中で崖から落ちて左足をぐちゃぐちゃに壊してしまう。
次に男の子が出て来る。一卵性双生児の妹は白痴らしい。面倒は一生懸命みているのだが、いっぽういやでいやでたまらない自分も自覚している。妹をいつも世話しているので学校では孤立している(イタリアの公立小学校には特殊学級みたいなものはないのかな?)。
唐突にクラスメートが誕生会に招待してくる(本人全然乗り気ではなく、どうも母親が無視はいけないとポライトネスっぷりを発揮したらしい。当然妹も一緒に招待されるが、妹は何も理解していない)。男の子の母親は大張り切りになって(それまで子供たちが誰かに招待されたことなどないからだ)豪華なプレゼントを用意したりする。それも男の子にとってはいやでしょうがない。
男の子は途中でやはり妹を連れて行くことはできないと考えて、公園に残して一人で誕生会へ行く。楽しい時間(何しろ妹から解放されている人生最初の時なのだ)を過ごしているうちにあたりが暗くなっていることに気付き、あわてて妹を迎えに行く。公園の川は流れる。
そこまでが導入編らしい。
二人とも高校生になっている。少女(女の子というわけでもない)は拒食症の跛としてクラスの中で孤立している。クラスには誰もがうらやむ美少女がいて(姉から聞いた話を脚色した)大人の世界を巡る冒険している自分という作り話をしまくっている。
少年は、両親をはるかに超えた知性を持ち(両親は息子の考えや言葉をほとんど理解できない。描写がおもしろい)、その知性故に教師から疎まれ、他の生徒からは距離を置かれている。何度も自殺を図っているらしきことがうかがわれる。そのためそのタイプの生徒を集めている学校へ転校せざるを得なくなる。
というところで全体の1/5。当然ボーイミーツガールになるのだろうが、読み進めるかどうか相当悩む(つまらなくはなく、むしろおもしろいのだが、あまりにイタタタタな設定の小説なんだよなぁ)
1と自分自身でしか割り切れない数が2つ、という題からして(と読み始めて理解した)痛い。
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