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日々の破片

著作一覧

2018-03-03

_ 江添亮の詳説C++17

アスキーの鈴木さんからいただいた。

電話帳のような本を想像していたら、とんでもなくコンパクト(対電話帳比。ところで今も電話帳って存在するのか?)で驚いた。C++17の新機能に的を絞った本だからだった。

これはおもしろい。

とりあえず読み始めると、早くも本文2ページ目にして筆者がLinus翻訳で磨き上げた表現、つまりそびえたつものが出て来たりするので、単に規格書を翻訳して味付けした本ではないということがわかる。まあ、鈴木さんのところでそういう本を作ることはあり得ないだろう。というわけで、江添さんの規格書フィルターと特徴的な文体(客観的に突き放した主観表現)が特徴の本ということになる。割と好きだ。

それにしても(と読みながら思う)、プリプロセッサはクソだから捨てるべしとストラウストラップが書いていたように思うのだが、C++でポータビリティがあるコードを書くためには結局プリプロセッサが必須というのはおもしろい(というか、プリプロセッサが滅びないのは仕組み上当然だと思う。ストラウストラップが滅ぼそうとしたのはユーザー定義の関数的マクロだよな。でもそのための武器のinlineの扱いも本書を読むと変わっているが、そもそも登場時からサジェスチョン用キーワードであって、必ずしもinlineで修飾したからといってインライン展開されるということはなかったように思うし、そう規格化されていたように思うのだが)。

実際には最初から読み始めたわけではなく、ぱらぱら眺めているうちに、なんだろうと気になったconstexpr ifのパートからで、そこでautoという意味不明な、しかし関数の返り値を代入して初期化する変数宣言の型の箇所に書いてあるキーワードを見て、なんかC#でいうところのvarみたいなものがC++にも入ったのかな? と索引を見て初出の8ページにさかのぼって、とかやっているうちにおもしろいから最初から読み始めたのだった。

それにしても、元ネタのCの自動変数の型修飾子キーワードが、いつのまにやら推測を依頼する型名用のキーワードになったところがおもしろい(なぜ、varとしなかったのかなぁ。varはCのキーワードではないから利用安全だと思うのだが)。よほどJavaScriptとかC#とかを想起させないようにキーワードを選んでいるのかな、それとも知らんうちにvarがキーワードになっているのか? と索引を見ると、varはないがvariantという疑似(プリプロセッサによってstdネームスペースに組み込まれる)キーワードが導入されていたりして、確かにvariantだと思ったり。variantのコード例を見ると、もうunionのメンバー名を指定する必要すらないのだなと、ちょっと感動した。

それにしてもおもしろい。

if (int x = 1 ; x)の箇所は例が悪すぎて不思議になりながら次のページで導入のモチベーションが示されて、最後に意味がある例が出てくるが、else節では使えないのだろうか? とかは疑問が残った(で、ここでわからないから規格書をあたる必要があるので、その点に関しては、いまいちな詳説に思える反面、ifの条件式のスコープは直後のブロックだというのは自明なようにも思えるので、もしそうならば、言語仕様としては一貫性はあるが不自由だ。JavaやC#のtry節で宣言した変数がcatchやfinallyで参照できないのと同じだな……

適当に開けば、*thisが関数に閉包されるようになったとか、gcdとlcmとか今まで存在しなかったのかとか、std::byteが今頃とか(いや、これは21世紀の自然言語の扱い(の逆でバイナリデータの扱いが従になったことに)によって再発見されたものだと考えた方が自然だな、とかRubyのASCII8BITの扱いの変化とかを思い出したりとか。

と言う調子で、想像と異なり、読んでいると考えることがたくさんあっていつまでも読んでいられる。C++はやっぱりおもしろい。

という具合に実におもしろい本だった。気に入った。

江添亮の詳説C++17(江添 亮)

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ 江添亮 [varのような小文字3文字のキーワードを莫大なコード資産があるC++にいれることはできない。 auto型指定子はC..]

_ arton [説明ありがとうございます。まあCも新規に追加するキーワードは_Boolみたいな不格好なやつだから、歴史がある言語なら..]


2018-03-04

_ 新国立劇場のホフマン物語

3/3はホフマン物語。

あらためて思い出そうとすると、3幕の舟歌以外はまったく思い出せないことに愕然とする。

プロローグのクークルッスクランみたいな歌とかしつこいくらい歌うのにまったく思い出せない。1幕のオランピアの歌はさすがに覚えているが、それはいろいろ聞いているからで、それ以外は(群衆が家に入って来るときの歌は流れれば思い出さなくもないが思い出そうとすると思い出せない)、特に2幕は美しくて聴いている最中は素晴らしいのに終わった瞬間に忘れてしまう。

ただメロディーは覚えられないのに曲は覚えているのが不思議だ。2幕の最初にアントニア(砂川涼子、良い歌手だと思う。そうかリューや百合を歌った人か)が歌う鳥の歌はとても印象的(と聞いているときは思う)なメロディーが1節あって、それが尻すぼみになって何度も何度も繰り返されるという妙な曲で、どうもオッフェンバックはメロディー作りの才能がないのではなかろうか。そのため、たまたま美しいメロディを作れるとそれを発展させて壊してしまうことを恐れて単に反復させているのではなかろうか。

今まで気づかなかったが、ホフマンがオランピアを待っているときに歌う歌は素晴らしく美しい(が、これまたすぐに記憶から消える。コルチャックはもちろんレジェーロではないから異なることはわかってはいるのだが、フローレスの声(音質かな? おそらく倍音の含有量ということになる)に似ているなぁと感じた。ウェルテルのときはまったく思わなかったが。いずれにしても良い声だ。ミラクル博士をはじめとした悪魔がコニエチュニーという人で、素晴らしい。迫力ありまくり。

ニクラスはあまり出番がなく、ほぼ3幕の舟歌だけなのだが(最後の詩と芸術による魂の復活についての歌では少し声量が足りないのではと思ったが、そのときは後ろが開けていたので反響しないことからくる舞台設計の問題かもしれない。詩人になれと歌うところは良かった)見た目が良いので得している感じ。オランピアの安井はときどき違う音を歌っているように思ったがぜんまいが切れかけているのであればしょうがない程度で良い感じ。くるくる回るのは中で歩いているのか回転する台に乗っているのかどっちだろう。歩きながら歌っているのであればすごすぎる。

2幕、最後に上から四角い蓋が迫って来るのはどういう意図なのだろうか。

それにしても奇妙な曲だ。

子供が0時になると死ぬと教えてくれた(前回も観たからだが(国内の歌手の布陣はほぼ同じだなと見返してはじめて知る))、壁の時計は23時55分くらいから闇の中に消えてしまうので、どこまで演出意図があるのかわからない(と書いて思い出したが前回はバックステージツアーに参加できたので、そのときにそういう説明があったのかも知れない。そういえば、プロローグとエピローグに出てくる3つの扉は3人の女性用だったような)。

_ フィリップス

ちょうど誰が音楽をタダにした?(この題は最悪に近い。原題もHow Music Got Freeだから同じようなものだ。この題で内容の抜群のおもしろさを想像することすら不可能だ)を読んでいただけに、「半導体露光機で日系メーカーはなぜASMLに敗れたのか 」という題を見た瞬間に、フィリップスの根回し、FUD、買収、フェイクだろうと思ったら(誰が音楽をタダにしたでは、ドイツの研究者集団が音響心理学と圧縮の粋を傾けてMP3を開発したのに、フィリップスのいかさまによって(フィリップスが作った出来の悪いフィルタのエンコーダ/デコーダへの組み込みが必須とされ、それによってソフトウェアのモジュール構造が複雑化したためにその構造を欠点としてあげつらわれることになる)2重盲検テストでも圧縮効率でもすべての点で遥かに劣ったMP2に完膚なきまでに敗北してあらゆる市場から締め出されるところから物語が始まる)、本当にASMLというのはフィリップスの関係会社だった。

MP2にMP3が粉砕されたときも、同じような分析記事がドイツで出たのではなかろうか。実際はMP2に対するMP3同様にフィリップス方式に対する敗北の可能性は有りうる(コンソーシアムメンバーとの連携という書き方が少しそれをにおわせていなくもない)。

誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち【無料拡大お試し版】 (早川書房)(スティーヴン ウィット)


2018-03-05

_ かぞくへを観る

妻に誘われてユーロスペースのレイトショーで、かぞくへを観に行く。

予備知識なしに観始めたのだが(レイトショーなので広告予告編抜きでいきなり本編)、舞台は東京らしきアパート(狭い)で夫婦ものらしき2人が、誰を結婚式へ呼ぶかで話し合っている。妻側は15人に対して夫側は1人と言っている。施設育ちなので両親親戚はいないし、ヒロトという友達だけだ。それだとバランスが取れないとかで、妻の結婚式にかける意気込みとか、いろいろが語られる。語られるのだが、全然説明台詞ではなく、ちゃんと映画の話法で説明しているので、お、これは映画だ、と居住まいを正してあらためて観始めた。

物語は紆余曲折、これでもかこれでもかと偶然の積み重ねが夫婦の間に流れてくる。

最後、長い長い腰から上のショットによる長回しが橋の上まで来て収束する。

(1個所、アパートの入り口のシーンで撮り直したところの継ぎ目が悪いところがあって、そこがやたらと目立ったが、逆に言うと、そこが目立つくらいに、全体の映画としての流れは実にきれいで感心した)

終わったあと、おれの妻は、妻が発する「親って微妙」という台詞とその後の夫が駆け去る姿について語る。もちろんそれはキーワードではあるが、おれはあまりそこは気にならなかった。

それよりも、多分、お土産用に作っている偽物のケーキ作りを目覚めた夫が最初はベッドサイドの高さのやつを手にとって手伝おうとして投げ出すところ、次は机の上にあるのを手にとって手伝おうとして投げ出すところ、最後に机の上が片付いているところの表現っぷりに感心しまくっていた。妻によると、ご祝儀袋の熨斗を結ぶとか言っていたが、おれにはケーキの苺の飾りに見えた。どちらでもそれほど物語に違いはないので良いが(一方、ご祝儀袋と手作りのオーナメントでは資金力が相当異なるのでそれなりに重要ではなかろうか)、なぜこうも見えているものが違うのかちょっとおもしろかった。

心理映画としては傑作の部類だと思った。すさまじい居心地の悪さを感じるシーンがあって、そこは目を背けたくなる(同じことをトークショーのゲストの台本家かな?が語っていたけどまったく同感だ)が、まったくだれることなく映画が続く。

・一瞬、窓際のコートハンガーにぶら下がっている黒服に目をやってから結局そのままの姿で外に出るシーンとか。

喜多さん役の人が店のシーンで最初に見せる行動がえらく印象的なのだが、終わったあとのトークショーでも語られていたので、どうもその道では有名な怪演人らしい。

妻はあと、ちょび髭ネズミ男みたいな役柄の役者が実に美青年だと言っていたが、おれにはまったくわからなかった。おそらくクーリャン街のエンジェルみたいに、何気ないシーンで素顔がわかる瞬間が切り取られていたのだろう。

トークショーで語られた事務員の裏設定についての話と、住所を渡すところのシーンの突き合わせはおもしろかった。

・突然思い出したが、現役のボクシングコーチと漁師という肉体派が、都会の詐欺師との追っ駆けっこで差をつけかれるのは体力的におかしかないかというリアリズム的な疑問が湧いた。

・共同貯金通帳の扱いが、振り込まれていないことの指摘、施設への入所で金がかかると言って渡されたところ、ちょっと考えて持って行くことにしたところがあって最後の爆発になるとか、実にうまいと思った。

#思い出したが、この映画の何がすごいかっていうと、冒頭でちょっとだけ語られて全編では全く語られないことの映画だということで、しかもそれに対して文句のない了解が出来てしまうことだ。(トークショーで夫役の人がちょっと話していたが、別に作家からの説明はなかったようなので、どれだけ厚みのある作品なのか、それはすごいことだ)


2018-03-11

_ アジャイルエンタープライズに驚いた

翔泳社からアジャイルエンタープライズが送られてきたのでありがたく読み始めた(他にもいろいろあるのだが、紙質(表紙の固さ)とか字の大きさとかが妙に具合が良かった)。

1章を読み始めていきなり衝撃をくらわされた(注)。

アジャイルという言葉に対してのすでに持っている概念とエンタープライズという言葉から、大規模開発に対してアジャイルのメソドロジーを適用するための方法論の本かと思っていたからだ。

全然違った。

一言で本書の内容を言えば、常に変化に対応することで生存し成長する企業をつくるには、どのような文化がふさわしく、いかにそれを構築するか、について説明したものだ。

注)節題が「1.1 本書の革新性」とくるので、あまりの自信たっぷりっぷりに斜に構えて読んでいたからかも知れない。

冒頭の「最も高い顧客価値に目を向けている企業を想像してください。」が額面通りだった。

本書はソフトウェア開発に関する本ではない。

そうではなく、少なくとも意思決定階層が4以上あるような規模(この4という数は本書で定義しているのではなく、おれが読みながら考えた適切な企業モデルなので3でも2でも実際のところは構わない)の企業の経営モデルについての本だ。

以前勤めていた企業が良く出していたバリューモデルがあって、顧客、従業員、株主、地域住民(そういえばUSで地元の災害被災者に対する支援活動を行った初期の会社だったような)をステークホルダーと規定していたが、その規模に限りなく近い(地域住民は一応外して考えることにする)。

上で数十年前にみたバリューモデルを出したが、個々の項目については既存の知識やプラクティスのまとめである。適切なモデルがないか、あるいは既知のモデルが時代に追随できていないと考えられる場合に、ソフトウェアでのアジャイル開発から得られた知見を経営モデルに適用したものと言える。

たとえば、9章の「学習する企業を構築する」では、教育のレベルについて、下位からトレーニング、コーチング、メンタリング、(最後は初見)経験と貢献の4段階として、それぞれの内実をスキル、プロセス、役割、文化としている、というか、これ正しいだろう、どうあっても。最後が文化の形成だと明示していることがおれには新しかった。

要求ツリーの構築の章(15章)では、ナビゲート例としてルートから、企業戦略→部門戦略→アイデア→インクリメント(ここはおれには疑問がある)→エピック→ユーザーストーリー→タスクと具体化詳細化をしていく(と書いたところで読み直すと、インクリメントは言葉の問題で対応するロールはプロダクトオーナーなので、漸進的にプロダクトを進化させることが必要だから正しいと納得した(修正した))。

本書の重要であり画期的な点は、上で要求ツリーの項を出したが、ほぼすべての項目について同様な大目標から具体的なアクションへのドリルダウンを提示していることにあると読んだ。

それを企業活動の全領域に対して網羅的に施していく。たとえば14章は顧客フィードバックの取り入れだし、19章は予算編成、20章では成功指標(ゴールは株主総会での承認と株価の上昇につながる内容であって、個々のプロダクトレベルの話ではない)だ。

アジャイルエンタープライズ (Object Oriented SELECTION)(Mario E. Moreira)

下劣な言葉なので大嫌いだが「労働者も経営者マインドを持て」(本書にこんな言葉が出てくるわけではないことに注意)という言葉に出会ったときにまず最初に学習すべき内容が書かれた本と考えれば良い。

重要なのは、経営者マインドという言葉のくだらなさと裏腹に、実は非常に重要であり、頭を使って仕事をするにはそれが必要だということだ。したがって、当然読むべき本ということになる。

実際、良く整理されていて、網羅性もある。間違いなく良い本だ。


2018-03-12

_ 空海、長安で詩人と悪魔の黒猫に会う

チェンカイコー(チェンガイグとどっちが正しい読みなのだろうか? 陳凱歌)の空海を観に渋谷の東宝。

久々に映画館で観るチェンカイコーで楽しみではあるが、こんなに訳のわからない作家もあまりいない。そもそもあまり良い出会いはしていない。

最初に日本でなんだこれはと話題になったのは中国の黄色い大地だと思う。が、なんか物語(当時は映画の1/3くらいは物語を観ていた)がつまらなそうだし、感動がどうしたみたいな薄っぺらい宣伝文句に興味が惹かれるわけがない。

黄色い大地 [DVD](シュエ・バイ)

次に六本木シネヴィヴァンで子供たちの王様が上映されたが、辺境の教師が子供達を指導するという、どうやってもおもしろいはずが有り得ない映画のようでスルーした(予告編は相当観ているので、他の作家の作品はほぼ観ていて、あえてチェンカイコーは外したということだ)。結局、この映画は今になっても観る機会がないが、ばかなことだった。観ておけば良かったと後で考えてももう遅い。

子供たちの王様 [DVD](シエ・ユアン)

しばらくして300人劇場で大中国展があって、友人が電話をかけてきた。お前はチェンカイコーを観たことがないそうだが、それは愚かだ。大閲兵をやっているから観に行こう。

大閲兵? どういう映画?

天安門広場の大閲兵のために紅軍の兵士が行進の訓練を受ける映画だ。

なんだそれ?

つまらなそうだろう。その通りだ。しかも単なる共産党のプロパガンダ映画だ。だけど、それがチェンカイコーの映画なんだ。おれは3回目になるが、お前は観たことがないだろうから、付き合ってやる。白山へ登れ。

あまりに訳がわからないので観に行った。

衝撃だった。こんなおもしろい映画があるとは。

記憶に残っているのは天安門広場を行進しているところだけなのだが、とにかく大量の人間が行進するのを撮影しているだけで、こんなにおもしろい映画が作れるとは。これこそ天才というものだ。

余勢をかって中国の黄色い大地も観た。なんだこれ? ドラマは小舟が川に沈んでぶくぶく言って終わるだけでそれ以外まったく覚えていないのだが(沈んでぶくぶく言うのは真っ暗な中でセリフだけだったような記憶がある)、川岸でえんえんと太鼓を叩いて火を焚いて人々が飛びながら踊り狂う。イワン雷帝よりもすごい映画だった。

なるほど、チェンカイコーは普通ではない。

というわけで、わざわざ岩波ホールまで人生は琴のようにも観に行った。

人生は琴の弦のように [VHS](リウ・チョンユアン)

山の上に琴の先生が座っている。おもむろに琴を弾き始める。ベベンベンベン(音的には三味線に似ている)。

すると、カメラが引いて全景が映る。先生が居る山を中心に広い大地が映る。シネスコ並に横広の画面の右橋と左端から大群がワーと歓声を上げながら激突する。うひょー、これが映画だよ。(多分、ある時期のカップヌードルのTVCMはこの映像からヒントを得たのではなかろうか)

それ以外まったく記憶にないが、少なくとも、ベベンベンベンからワーまでは映画以外の何者でもない。

これは、角川春樹が天と地とで本当にやりたかったことではないか? とすら思った。

というわけで、合戦シーンとしては、オーソンウェルズのフォルスタッフ(激突に巻き込まれないように画面の真ん中をうろうろするだけのオーソンウェルズが印象的)、角川春樹の天と地と(赤い女性の鎧武者が印象的)と並ぶトップ3の一角となったのだが、中心人物が遙か彼方の山の頂上にいるという無茶苦茶っぷりで他を圧していた。

で、角川春樹と相性が良さそうだなと思っていたら、始皇帝暗殺が作られた。

始皇帝暗殺 DTS特別版 [DVD](コン・リー)

予算の関係か人が少ないのだが、それはそれで素晴らしくおもしろい。

最高の見せ場と思える、嫪毐と部下が攻め込むシーンは良く覚えている。

嫪毐を中心に10人くらいの兵士が宮廷にざっざっと進む。始皇帝を殺すためだ。

次に逆向きに嫪毐軍団がざっざと返ってくる。後ろから数10名の近衛兵がざっざっと進んでくる。ギャグか? いや、映画だ。

書いているうちに、荊軻が拷問されるシーン(鐘撞きの棒代わりにされて、ついに白状する)とか、趙の陰謀会議のシーンとか思い出したので、全体の構成や見せ場をうまく作れるようになったのかも知れない。

一体こいつは何者だ? というわけで、講談社新書から本が出ていたので買って読んだ。

私の紅衛兵時代-ある映画監督の青春 (講談社現代新書)(陳 凱歌)

どうもこの人は、紅衛兵時代を暗黒とは考えていないな、というのが印象で、むしろ、文革の大衆運動路線が大好きなように思えた。田荘荘(反右派闘争のころを描いた青い凧がいまいちタコな映画だった)とはそこが決定的に違って、それが映画になっているように思えた。

問題は、群衆がわーっと一つの方向へ向かって突き進むシーンは本当におもしろいのに、それ以外がほとんどおもしろくないことだ。唖然としたのはキリングミーソフトリーで、どうもハリウッドが発注を間違って、もっとも題材に不向きな映画作家を中国から取り寄せたとしか思えないできで、観ていてイライラしっぱなしの映画だった。最初のあたりのシェークスピア役者がうろうろストーキングしている(特にガラスの向こうを行ったり来たりする)シーンは印象的なのだが、山にこもってからはほとんどおもしろくない。もっとも、チェンカイコー自身は、中国では撮影できないポルノ映画(R15程度)を撮影できて楽しかったかも知れない。

キリング・ミー・ソフトリー [DVD](ヘザー・グラハム)

で、今は、群衆はCGでどうにか作れるし、キンフーから勉強したのか活劇が撮れるようになったので、空海での登板となったようだ。

長安の街のシーンや、妓楼へ船で近づくシーン、黒猫が天井を飛び回るシーン、極楽の宴の群衆シーン(全員、違うことをやっていて、それぞれにストーリーがありそうでむちゃくちゃおもしろい)とか。カメラワークは上から目線(人生は琴もそうだな)が多用される(白楽天が鍵を盗むシーンが特に印象的だが)が、まったくふらつかないので悪くない。

キングコング(ピータージャクソン版)の住処のような猫の家の高さの表現の極端さが楽しかった。(思い出したが空海の家もえらく高いところにあるので下界に降りるまでの旅のシーンがこれまたすごかったが、極端なシーンを極端に撮らせたらチェンカイコーはやっぱりトップだな)


2018-03-17

_ 誰が音楽をタダにした? 読了

通勤時に読んでいた誰が音楽をタダにした? を読了。

とてつもなくおもしろかった。インタビューや取材から再構成した1970年代から2000年代にかけての音楽の圧縮技術、マネタイズ(とレコード業界の栄枯盛衰、買収戦略)、盗難/共用技術と組織経営の3点を柱とした優れたノンフィクションノベルだ。このジャンルとしては大傑作だ。読書の楽しみを味わいまくった。

主要登場人物は3人(もっとも良く取材に応じてくれた人ということだろうが、明らかに異なる角度からの最重要人物たちからインタビューを取れたことそのものとその視点において、この作品が大傑作になることが保証されたようなものだと思う。あらためてすごい作家だ)。

1人はカールハインツブランデンブルク(辺境伯の子孫か?)というMP3の開発者。指導教官-学生の3代にわたる心理学的応用と圧縮技術の研究成果として元音源を1/12まで圧縮したMP3によって巨万の富と名誉を築く。ただし最初のうちは、フィリップスの陰謀やら政治によって絶望的な戦いになるのだが(MP2に標準を奪われたり)、スポーツ中継用として地歩を固めると同時にネットワークに放流したほぼフリーなエンコーダーとデコーダーによってインターネット標準の音源圧縮技術として莫大なライセンス収益を稼ぎ出すことになる。とてつもなくおもしろいパート。本人は少なくとも表立っては著作権侵害に利用されるのがいやでAACの開発へ進むことになる(が、収益は収益)。

1人は、デル・グローバー。ユニバーサルのCDプレス工場の労働者だ(影の主役としてカリと呼ばれる組織のリーダーもいる)。ガンガンCDを盗んではリッピングしてチーム(シーンという用語が利用される)のサーバーへ放流する。盗難のためのテクニックや、他チームの仕事のDVDのデータで稼いだりしまくるが、根は働き者。働き者が表で評価されてどんどん労働者としては出世するが、裏でも評価されてラップについては世界1の流出元となった(ようだ)。(刑務所で満期を勤め上げたあとにインタビューに応じたらしい)一方彼が知らないうちに流出先となった、パイレーツベイやナップスター、イギリスのピンクハウス(オウナーの金子と、軽口を叩こうとしたら、P2Pを語る上では欠かせない実在人物と名前が被ることに気付いてやめた)のサーバー管理者(提供者でもある)などの配布サイトとそれらを支えるドメイン、サーバーファーム、P2P技術についてもそれなりに書かれていたりもする。

1人はダグ・モリス。あまり売れないソングライターから出発して、マーケティングのコツを見つけて、最後はユニバーサルのCEOに上り詰める(本書執筆の時点ではソニーミュージックの相談役かなにか)。音楽泥棒や、iPod→iPhoneと起爆剤としてのiTSを作ろうとしているジョブズとからんだりしながら、音楽業界の生き残りの道を探る。孫と一緒にYoutubeを観ていて、VEVOを設立してグーグルから広告収入を取り返すビジネスモデルを発案したりもする(この条りは胸熱。すごいビジネスマンはすごいということの見事な具体例だが、思考描写が無茶苦茶うまい)。影の主役としてシーグラムを崩壊させた3代目や、55セントやらドクターなんとかとかスヌープドッグやらのラッパーが出てくる。彼らにとっては重要な金づるでもあった。

このお互いに出会う事が有り得ない3人が時代の流れに応じて考え、行動し、世界を変えていく様子が、他の人物や音楽業界、インターネット業界、コンピューティング業界のビジネスモデルや技術動向とともに書かれている。

抜群だ。

すげぇ作家だということでもある。ノンフィクションノベルとしては、メイラーあたりよりも遙かに優れている。ほとんどカポーティの領域だ。

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち (ハヤカワ文庫 NF)(スティーヴン ウィット)

・おれは一体、いつごろMP3と出会ったか? と思い出してみると20世紀のほぼ終わりか21世紀の頭頃に、何かの拍子でたどり着いた女子大生か女子高生のサイトで、CD1枚に7枚だか8枚だか入るからどうしたとか書いてあるのを読んだのと、Winamp(当然本書でも開発者が出てくるが、Nullsoftについても少し触れられている、で思い出したが、Gnutellaのカタカナ表記が間違っていて気になったような)を眺めたあたりかなぁ。なぜかダウンロードした最初の曲だけは覚えていて幸福論なわけだが、それによって椎名林檎のCDを買い集めることになるのは、おれが消え行くCD購入者だからだ。本書によれば、ある程度のマスマーケットとしてのCD購入者はアジアの一部にしか残っていないらしい。おそらく行動の自由に対して非常識な警察国家であるか、ネットワーク/コンピューティング環境が貧弱であるかのどちらかなのだろう。


2018-03-18

_ 愛の妙薬

新国立劇場で愛の妙薬。

ベルコーレの大沼が良く通る声で気持ち良い。主役のアディーナのドレイ、ネモリーノのピルグ、いずれも顔も声も良いし、ドゥルカマーラのジローラミという人も良い感じ。合唱は今回は三浦ではない(わからん)がいつもながらに楽しそうだし、というわけで最初から最後まで実に楽しめた。

なんか間違えて3階ではなく2階の同列同番の席に座ってしまって、子供が来ないがどうしたんだろう? 急用か? とか思っていたが幕が開いたら文句なく楽しくて取り合えずそれはおいておくことにした。

幕間に2階へ降りようとしたら、なんか、あっという間に1階についたので、あれ? 変だなと思って1階上って2階に戻ると子供がお前はどこにいたんだ? と怒っているので初めて3階ではなく2階で観ていたことに気づいた。

と、問題なく隣が空いている、間違った席にいられたくらいに、80%くらいの入りで、こんなに楽しくても、さすがに同じ演出でやり過ぎでいるし、歌手は若手が多くて知名度は低いし、ベルカントだしで、もったいないなぁとか考えたりした。


2018-03-22

_ 死刑執行人サンソン読了

マンガのイノサンを読もうと思ってアマゾンへ出かけたら、もっと読みやすそうな新書をお勧めされたので(マンガが読みたいと言うよりもサンソンという死刑執行人に興味を持ったことと、おれはフランス革命史が好きだからなのだ)、そっちを買ったら、これがめっぽうおもしろく、すぐ読み終わってしまった。

筆者の構成と書きっぷりが実に良い。

最初に当時のフランスにおける死刑執行人の地位、社会的評価が説明される。

日本の首斬り浅右衛門と異なり首を斬るだけではなく、拷問(処刑前に苦しめて、見世物ではなく見せしめにする)から車裂き(手足の骨を砕いて出血多量死させるものらしい)まで何でもやるので、基本的に人非人とみなされてほとんど村八分となり、全国の死刑執行人ギルド以外とはほぼ付き合いができない状態の生きるに困難な職業だ。これらから、一度この商売に足を突っ込むと、2度と普通の社会に戻ることができない。

ではなぜ初代サンソンがこの因果な職業に足を踏み入れることになるのかが、まず説明される。

運命だなぁ。

恋人を巡る親族間の行き違いあり逃避行あり災害あり死別あり人情あり恋あり恐怖の恋人の父親あり拷問ありで、結局そうなってしまったのだった。

かくして初代は、子孫に対して、なぜ自分がこんな因果な商売に首を突っ込んでしまい、子々孫々までのある意味禍根を残すことになったのか、神も照覧あれ、しょうがないだろうという自伝を書くことになり、これが見えざる家訓となり、サンソン家は代々自伝を残すことになる。

無茶苦茶おもしろい!

とは言え、世の中は、特にこの時期のフランスは、人権概念が成立し、平等が求められるようになりつつあるので、進歩的な立場の人がいる。

かくして、2代目サンソンは、進歩的知識人の校長がいる遠く離れた地方(地元では誰が誰だか知っているので死刑執行人の息子ということで確実に排斥される)の寄宿学校で学ぶことができるようになる。

校長は進歩派なので、愚かな生徒がいることを慮って、彼の正体(死刑執行人の息子)を隠して、教育を授ける。

しかし、ある夏休みが終わったあと、彼の正体をなぜか知った生徒がそれを言いふらす。サンソンに降りかかるイジメの数々。それに加えて学校にねじこみ、校長に襲い掛かるモンペの大群。

進歩派校長は信念の人である。教育は平等であり、学は独立だ。断固として跳ね返すのだが、保守派のくずは最後の切り札に訴える。兵糧攻めだ。

金には勝てない!

かくして生徒数が1/3まで減少して経営が行き詰った校長は、サンソンに自主退学するように要請することになる。

3代目サンソンに対する中傷と、それに憤って確認に来たおっちょこちょいの伯爵との友情物語とかもしびれる。

というような調子で、社会はほんの少しずつだが前進し、ついに4代目が登場し、革命が起きる。

死刑執行人を平等に扱うかどうかで、国民議会も紛糾する。保守派(とかっこつけるのは世の常だが、しょせんは反動)は差別当然と言い張るが、自由と平等と友愛の波はついに死刑執行人を差別して商品を売らなかったり、店から追い出したり、ののしったりすることを禁止するまでに至る。

が、革命の問題点は、次のことだ。

革命とは天と地を引っ繰り返す人類の偉業だが、天と異なり、地は基本的にくそだということだ。一部の指導層(努力と精進と克己の人たちでもある)を除いて教育がないから(教育を受ける権利や、権利があっても金や時間がない)、革命の理念も人類史における使命感もない。

あるのは、ルサンチマンだけだ。

こういった連中がいきなり天に昇ったら何が起きるか?

社会的復讐だ。つまり暴力と殺戮だ。

(同じことは反動についても言えるわけで、フランス革命後の反動期には、革命期に幼少期を過ごしたせいで教育がないマリー・テレーズとその取り巻きによる革命期生き残りに対する暴力と虐殺が起きる)

というか、教育ない人間は暴力と殺戮が大好きな獣で、そこには思想も何もないということは、人類史の実験からわかっているはずなのに、文革やポルポト(こっちは左というか進歩)、ピノチェトやユーゴ分裂後のバルカン(こっちは右というか反動)で繰り返して、今また中東でも起きているわけだが、漸進的進歩しかできないように制約されている民主主義が一番だよなぁ、と考えざるを得ないわけだ。

というような革命の動向(何度もサンソンは死を覚悟する)とは別に、どうギロチンの刃を作ると瞬時に断首できるかの実験を行い最適解を見つけるルイ16世(進歩派が仇となった悲劇の人だが、妻の母国のオーストリアへ旅行へ行こうとしたのが直接的な致命傷。それにしても王こそ一夫一妻制を守るべき(昭和天皇みたいだ)とした自己規律が逆に作用して国民の憤激を王夫婦が一身に買うことになったというのはおもしろい。管仲の分謗論の先見性というか)や、いかにギロチンが人道的か国民議会で熱弁を振るうギヨタンことギロチン博士、平等思想から引っ込みがつかなくなりサンソンの代わりに死刑を執行しプレッシャーに耐え切れずショック死する名もなき革命戦士など、登場人物がみな良い味を出しまくっている。

僕は、無実というよりも許容せざるを得ない尊属殺人によって死刑を宣告された青年を助ける指導者がサンソンに語るセリフが気に入った。

これからは、あんたがだれかを処刑するときは、あっさり殺さにゃいかん。車裂きのような、苦しめるために殺すやり方はいかん。地獄は神様に残しておこうよ。わかったかい、シャルロ

(翻訳というか語り口調が実によいのが著者の特徴だ。素晴らしい)

なぜ、欧州で死刑を廃止することができたか(その一方でいつまでたってもアジアでは無くならないか)、ちょっとわかった。

根底には神の存在があったのか。

死刑執行人サンソン――国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)(安達正勝)

実におもしろかった。

それはそれとして、ラングの死刑執行人もまた死すはタイトルも最高だが、映画としても大傑作。

死刑執行人もまた死す [DVD](ブライアン・ドンレヴィ)


2018-03-24

_ 花見

何10年振りに妻と花見に行く。

といっても飲む気もなければ人混みも嫌いなので、夜、桜の花が咲いているところを車で回るだけだ。夜でなければならないので、近年はまったくやっていなかったが、今年は妻が早寝していなかったので誘ったら乗ってきたのだった。

最初は目黒川に行こうとしたのだが、酔っぱらいがうろうろしていて危ないから嫌だと言う。そこまで危険じゃないよとは言ったものの、こんなところで問答してもしょうがないので、まずは青山墓地へ向かう。

246の伊藤忠の前から石屋のところの参道に入る。

最後の記憶だと屋台や酔っぱらいがいるはずだが、土曜の夜なので誰もいない。白いところどころの照明に桜が浮かび上がってきれいだが、どうも記憶と違う。

最後に花見に出たのは311の前だったから、まだ以前の照明にまでは戻していないのかも知れないのか、それとも単にまだ6分咲きくらいだからか。

次に、東京タワーの麓に向かう。ハリウッド化粧品のトンネルを抜けてがらがらの通りを芝方面へ進む。

それにしても空いている。

そこかしこに桜があってそれはきれいだが、もっと白く光る(まるで雪景色のように)を期待してさらに進む。

記憶の中の土曜の夜はもう少し混んでいたと思うのだが、完全週休2日制が完全に根付いたのかも知れない。それだと企業人が土曜にうろつくことは少なくなるから、空いていてもおかしくはない。

芝はいまいちぱっとしないので、愛宕へ向かう。

一本間違えたら、環状2号の工事と再開発で街の様子ががらっと変わっていて驚く。

新橋に近づくに連れてそれなりに混雑し、タクシーの数が増えてきた。それもあって、砂場のところに出る道へ入ってから左折して愛宕へ向かい、トンネルの通りに入ると、ここは見事だ。

見事だが、山へ入る道が見つからない。

筆の石がある寺を横目に愛宕山をぐるっとするのだが、どうにも勝手が異なる。まるで九龍城の再開発時のようだ。

環状2号に伴う再開発の規模が異様に大きいのだ。まったく異なる景観となるに違いない。

オークラのところから(ここも工事中)八木通商のところを通って六本木通りに入り、アマンドのところで外苑西通りに入って四谷へ抜けようとして、外堀通りの桜を思い出す。

まだそれほどでもないがやはり美しいものだ。

後楽園球場のところで右へ曲がり線路の手前の細い道を抜けて右折で外堀通りの内側(桜は岸側でトンネル状になる)に入ろうとしたが左折専用となっていたので、靖国通りに入る。おう見事だ。ここにはもったいない。

で、思い出して内堀通りから二松学舎のあたりで内側に入り千鳥ヶ淵に入る。

なぜか、ここは人、それも老夫婦みたいな様子の人が何組も歩いている。不思議なものだ。

桜の下には眠っているので何か報告に来る人がいるのかも知れない。

双葉の横から新宿通りに入って帰った。

もっと散り始めくらいのほうが華やかなことを思い出した。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ まるごし [目黒川は行かなくてよかったと思いますよ…車通れないくらい酔っ払い多くてひどい]

_ arton [そうだったんですね。妻に良い判断だったと伝えます。ありがとうございます。]


2018-03-26

_ ピエール・パトラン先生

スリービルボーヅを観に渋谷の街へ出かけた時に文鳥堂で売っているのを目にして買ったピエール・パトラン先生を読了。

といっても、元から知っているわけではなく、岩波文庫のいきなり復刊シリーズは気づけば買うようにしているからだ。

小一時間程度で読了。

カバー裏からして読ませる。

金はない、客は来ない、服はボロボロ。この苦境を乗り越えるのが「口車」という乗り物なのだ……

張儀、蘇秦の輩か? と思いながらも、確かにそれは最高の車ではないか、と買ったのだった。

最初に訳者の長い解題と翻訳の苦心談がある。これがめっぽうおもしろい。1960年代初頭の翻訳だが、このころまでは、翻訳家は、どれだけカタカナを使わずに日本語にするかに苦心惨憺していて、おれは、大好きなうえにそのての訳業についてはこよなく尊敬している(こういう苦労でみんなが知っている例だとストライダーの馳夫とかカテドラルの伽藍とかになるわけだ。日本文化の教養重要)。

で、読み始めると、ピエール・パトラン先生とはどうも弁護士っぽい。

15世紀フランスの弁護士か。というか、弁護士というのが、いかに社会的にみて怪しい職業かが良くわかる(ということはそれから200年たっているとはいえ、ロベスピエールやダントンがどういう社会的地位にあったのかとかいろいろ考える)いっぽう、15世紀には弁護士を立てるという形式のまともな裁判があるということに感心する。だてにおフランスと呼ばれているわけではない。

詐欺がばれてさらし者にされたことがある凶状持ちのピエール・パトラン先生、どうにかして服を仕立てようと、布屋(翻訳では羅紗屋)から布を巻き上げるための算段をする。

この方法はちょっとばかり落語に近い。

さらには、布屋の強欲っぷりに腹を立てた羊飼いの弁護を引き受けることになる。

という、実に豪快にどうでも良い戯曲なのだが、言葉遊びが実に楽しく、それを翻訳家がくそまじめに格闘していて(脚注として原本ではこれこれこうだから日本語のこれこれこうに翻訳してみたというような説明がたくさんある)さらに楽しい。

最高だと思ったのが、Saint Leu(ルー聖人)のところで、この5世紀の聖人の名前の発音ルーがloup(狼)に通じるということで、15世紀にはすっかり、羊飼いの守護聖人として認められていたという、フランスでの言葉遊び(とはいえ守護聖人にしているのだから半分まじめではあるわけだが)にしびれると同時に、訳業は

狼上人様

で、さらにしびれる。

(日本語だけではなく、フランス語もある程度わかるほうがさらに楽しめる)

ピエール・パトラン先生 (岩波文庫)(一夫, 渡辺)

楽しいひと時だった。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ 柴鳥次郎 [仏文出身で、何十年も前に買ってあったのに、『ピエール・パトラン先生』を読んでいませんでした。今日中に読みます。]


2018-03-27

_ ほうれん草とかき菜の炒め物ハムユイ味

今度は車ではなく歩いて青山墓地へ花見。えらく閑散としているが、良く見ると立て看で屋台禁止とか書いてある。4半世紀たってここも随分お行儀良くなってしまったようでつまらんが、酔っ払いがいないのは良い点だ。

キラー通りの陸橋のところで、さてどうしようかと考えて、適当に南青山方面へ向かい、予約していないから無理かと思ったら席が幾つか空いていたので結局エッセンスに入った。

で、青菜の炒め物でも食うかと見ると、本日のお皿はほうれん草とかき菜となっている。かき菜は家にもあると妻が言うが、かき菜ってなんだ? それはそれとして味付けはいくつもあって選べるのだが、最後にハムユイというのが書いてある。髪結いみたいだなと思うが、良くわからない。

店の人に聞くと、しばらく考えてから塩味だ、という。塩味にしては塩味は別にあるから、要領を得ない。したがって、それにした。

出てくると、どこかで知っているような香りがする。アンチョビだな。食べるとやはりアンチョビっぽい。

後で調べたらイシモチなどを発酵させた調味料だというようなことが書いてあって、アンチョビはヒシコイワシだからものは違うが、似たような香りと味になるのだな。

で、すさまじくおいしかったので、ピーコックへ寄ってハムユイを探すが、無い。イオン系列になってから品揃えが随分とつまらなくなったがしょうがない。そうはいってもアンチョビなんだから瓶詰めのアンチョビと、あとほうれん草を買った。一時に比べて随分と安くなった。

で、帰ってから早速作ってみる。

中華風に炒める場合はボイラープレートがあるので、それに従う。

まずフライパンにごま油を入れて煙りが出るまで熱する。

次に適当に切った長ネギを入れて香りを出す。

次に、茎のほうを根元から順に5mm、1cm、2cm、4cmと切った部分を入れる(太さ固さと長さを乗じた数が同じくらいになるようにするのだ)。少し炒まったところで味付け、この場合はここでアンチョビを入れる。

エッセンスでは形が見えないくらいに混ぜ込んでいたが素人料理だから、適当にかき混ぜるくらいでいいや。面倒だし。

最後に葉っぱを入れて、両面に油が馴染むくらいに炒める。というのをやっていると、あっという間にフライパンからあふれそうだった青菜が小さくなるのでできあがり。

で、食ったらおれが作ってもやっぱりうまかった。


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