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米原万理の最後のエッセイ集らしいのだが、読了。
以前、題が妙なので読んだ嘘つきアーニャの真っ赤な真実がやたらとおもしろかったので、内容を見ずに(Kindleショップだし)買って読んだが、やはりおもしろかった。
読んでいて、なぜ中年過ぎた昭和の比較的早い時期に生まれた女性のエッセイがおれにはおもしろいのだろうかと不思議に思う。たとえば三宅菊子とか武田(名前忘れたけど泰淳の奥さん)とか。その一方で、男性のエッセイはほぼ面白くない。青木なんちゃらとか、イギリスかぶれた人とか。
たとえばロストロポーヴィッチがスバラシーという日本語を覚えて使いまくるというエピソードに関するエッセイ。
ヤマハの子供の作曲コンクールの審査員としてロストロポーヴィッチが参加しているので通訳する。5人目くらいから、突如ロストロポーヴィッチは講評の中でスバラシーという日本語を連発し始めた。
終わってから理由を聞こうとしたら、ロストロポーヴィッチのほうから説明した。日本語は便利だ。なんでもスバラシーで済む。実にスバラシー。
最初は彼の講評に出てくる「輝かしい」「素敵だ」「驚異的だ」「胸を打つ」「感動的」「美しい」といったほめ言葉を直訳していたが、どうにも日本語の発言としてはおさまりが悪いので途中からすべてスバラシーにしたのを、しっかり聞いていて、どうも褒め言葉はすべてスバラシーと言えば良いと考えたらしい。
この手の賞賛語の語彙は書き言葉としては日本語でも当然たくさんあるが、話し言葉としてはどうにもスバラシーくらいになってしまう。
ところが、ロシア人の会話では、コンテキストに合わせて常に適切な賞賛語を瞬時に選択して発話する。これはロシア語にかかわらず、他の欧米語でも大体そういう傾向がある。そのコンテキストに合わせて適切な語を瞬時に選択し発話するというのがインテリジェンスとして周囲からも認められる要因でもあるようだ。
逆が難しい。日本人の政治家がやたらと素晴らしいと発話するのを同時通訳するときに、直訳してすべてナイス(のロシア語)と訳したら、ノンインテリジェンスな人間として受け取られる可能性があるということでもあるからだ。
というようなところから、文章のコンテキストから語彙の選択が決まる論理性に対して言葉はニュアンスが重視されるため語彙はむしろ少なく絞り込む言葉の差というような文化的な考察が行われる。
経験的に少し納得する点がある。発話に漢語を混ぜると意外と日本では通じない。開いた言葉は比較的語彙は乏しくなる。
そこから筆者は敷衍して、なんでもカワイーとか、イイジャネ(という時代ではないのでこの言葉は出てこない)とか言う若者言葉の傾向を否定する年寄は、自分の話し言葉の語彙をチェックしてみると良い。実は同じはずだ。同時通訳しているとそれが良くわかると結ぶ。
さらに別のエッセイでも話し言葉と書き言葉の東西比較を行う。
中国、韓国、日本は、世界の中で中世期から近代まで、最も紙のコストが低い文化圏だった。それが書き言葉文化の高度な抽象化と、それに対する話し言葉文化の情緒性に結びつくのではないか(特に日本語においては、発話時の音節の多さが、言葉を少なくしニュアンスを重視する傾向を助長したのではないか)と考察する。
ケンブリッジ大学が筆記試験を導入したのは1920年代(1880年代かも)に過ぎない。それまでは口頭試問だけだった。
それは紙のコストの問題だったということはわかっている。
紙のコスト(日本は低)と、発話コスト(日本は高)の差が、論理的な話し言葉の重視と、情緒的な話し言葉の重視に分かれたと考えると腑に落ちる。
それは教育にも通じる。
日本の小学校では、教科書を読ませる。それ以外は書かせる。
ロシア小学校(この人は小学校高学年くらいからチェコのロシア学校で学んだので両方を知っているのだ)では、教科書の音読もあるが、読ませた後に必ず教師は、読んだ節の大意や感想などを、続けて言葉で言わせる。発話での説明を重視する。
そうやって訓練された結果としての(最初に戻って)コンテキストに合わせた語の選択の洗練であったり、論理性があるのだろう。
この人のエッセイがおもしろいのは、地に足がついた思考実験にある。
そういえば、昭和の早い世代の女性エッセイストというのは、たいてい、本来の職業(家事の場合もある)経験に基づいた観察や派生した知識を元に思考が展開される。調べごとが出てきても、それは実地経験の理由を調べたりした結果としてだ。
そこが、ジャーナリストや職業物書きであることが多い男性エッセイストとの違いのように思われる。(長澤節のエッセイがおもしろいのも、そういう意味では同根のようだと気づく。するとたまたま手にする女性のエッセイが職業婦人のもののことが多く、男性のエッセイがそうでないだけで、男性の他に職業を持つ人のエッセイは同様におもしろいのかも知れないと思い当たる)
勉強はできるが、ITはまるでダメ。OECDの調査結果が示す日本人の課題
shiroさんによると、元の調査(pdf)は宿題に対する家庭でのコンピュータ利用だそうだけど、さもありなんであり、逆に教育のカリキュラムの改革すべき方向も見えてくるような。
実に単純なことだけど、数学と社会科と理科はコンピュータ利用で共通化できるジャンルがあるし、国語でもある程度まで教材として準備をしておけば共通化できるジャンルがある。こういったジャンルを教科とするか、あるいはハイブリッドな宿題とする。
たとえばおれの5分程度の想像力で考えつくところでは、清少納言のお気に入りの(頻出する)単語を5個挙げよ。それらの語を使って当時の社会について説明せよ。あるいは、最近30年の京都の気象データから、最も望ましい修学旅行の日程を求めよ(晴天の可能性が高く平日であること程度)。機械学習も使えるのではないか? 楽譜を食わせてバロック音楽とクラシック音楽を分類させるとか。
世界をデータと関数として捉え、処理する能力ということだ。
で、そうやって教育された生徒が社会に出てくれば、妙なグラフも方眼紙データも努力と気合の手作業も意味が無いことがコンセンサスとなっているから、世の中も良くなってくんじゃないかな。
なぜ買おうとしたのかは忘れてしまったが、多分デザインに対してなにがしかの引け目を感じているからだろうけど、フラットデザインの基本ルールという本のKindle版を買って、ちまちまと読んでいる。
フラットデザインの基本ルール Webクリエイティブ&アプリの新しい考え方。(佐藤 好彦)
iPad版のKindleで読んでいるのだが(PWでは読む気にはなれないし、おそらく読めない)、横持ちして見開きで読むと実に感じが良い。ほとんどのページ(見開き分)が、左側に能書き、右側にいろいろなサイトやアプリケーションのキャプチャとなっていて、それがうまくレイアウトされていて、本そのものがフラットデザインの基本ルールにおそらく則っているように見える。
シズル感がある本だ。
また、文体が自分のものとはかけ離れているのだが、なかなか新鮮で(とは言え、MAC POWER文体というか、このタイプの客観性を装う主観文体はある種の領域で見かけなくもないが、最近目にしていなかった)それも楽しい。自然と、フラットデザインになるのが、時代の当然の要請のような気分にさせてくれる。そうか、デザインとはアフォーダンスだった。
つまり、眺めていても、読んでいても気分良く、フラットデザイン主義に傾いて来るのだった。
その本の60%のところに、『引き算のデザインよりも、論理への愛を』というコラムがあり、それにしびれた。
フラットデザインは引き算のデザインだというが、それはおかしい。引き算しなければならないということは、すでに過剰だということではないか。
個別に考えるのではない。引き算とは、ローカルルールによる個別事情の反映ではないか。そうではなく、グランドデザインがあり、そこから個別の美が生まれる。
要約すると矛盾がわかるが、まあ、それがデザインというものだ。
で、そこで類推ロジックが頭の中を駆け巡る。
つまり、フラットデザインとは、関数型プログラミングのことだったのだ。
OOPLフレームワークを個別ソフトウェアに適用するというのは、多くの場合、まさに引き算となる。そのため、個々のフレームワークが過剰なものとなる。
類推ロジックが、ハートブリードと囁く。誰も使わない機能を追加することで、誰もまともに向き合うことなくばらまかれ、目立ちもしないので引き算することを忘れて、気付くと血が流れ出している。
過剰な機能はバグだ。
グランドデザインは、機能の組み合わせのためのフレームワークとなり、個々の美は関数としてプログラムされる。
ソフトウェアにおけるフラットデザインとして考えれば、その美しさは明らかだ。
日曜は初台でヴォツェック。
3幕の美しさ。特にマリーの最後の歌が素晴らしい。
子供は(ヴォツックとマリーは知り合って3年なのだから2歳だが、舞台では5~6歳として表現)最後にナイフを手にしているように見える。
子供が要所要所で言葉を書く。最初はPAPA。2幕は金、3幕は売女。
ヴォツェックを最初に聴いたのはベームのLPで(フィッシャーディスカウがヴォツックだったのではないかな。忘れた)、そのときと今では随分聞き方に差があるように感じる。
演出は、ヴォツックと子供は肌色をした人間。マリーは少し白く、残りは全員白い。ヴォツックと子供だけが生きている。ヴォツックが見ている世界は、死者の世界で、この現実感の喪失は作品のテーマにとても合っている。
ヴォツックは1時間30分なので、4時には終わってしまった。
バルト9でアナと雪の女王を3D字幕で観る。
エレナが山を登って城を建てるところがなんといっても良過ぎる。ラプンツェルの発展解消というか、2人に分けてモティーフを明解化したというか、そういう印象を受けた。
ミュージカルに相当近くて、ディズニー映画としては魔法にかけられて並に良い感じだった(子供に言われて気付くが魔法にかけられての最終的に妃になる人が女王なのだった)。しかし、アナとヨハンセンみたいな名前のロバに似た人の山行はもう少し歌があったほうが楽しそうだ。
本国のFrozen以外はどの国でもアナと雪の女王のような題名だと子供が言うが、もしかして、アメリカ人はアンデルセンを全然知らないのではないかという気がする(ディズニーの人魚姫は知っているわけだが)。
が、現在の日本で雪の女王がどれだけ読まれているかは疑問ではある。氷が入ると人間が変わるというところと雪の女王という名前だけにインスパイアされたのだろうな(冒頭のトロールの長老の言葉だと心臓に刺さると性格が変わるというような内容だったような気がするのだが、2回目では単に死に至ることになっていてちょっと不思議に感じた。読み間違いなのだろう)。
ということからどうせアンデルセンとはそれほど近くもないのだし、アナと氷の女王のほうが良いかなぁとか感じた。美しいのは氷だし。
イタチ公国のイタチ大臣がそれほど悪い奴ではないというのが意外だったら、本当に悪い奴が別にいるからだったとか、観ていて先が思ったよりも読めなくておもしろかった。
それにしても、王子様の世界から、美女と野獣の野獣とは言え公爵、アラジンはちょっとおいておくとして、ノートルダムでは守備隊の隊長、ターザンでは子爵子息とは言え野蛮人、魔法にかけられてでは広告代理店マンと、どんどんろくでもない地位の男とペアになり、ラプンツェルでは盗賊、ついには採氷労働者となって、次はおそらく乞食王子となるのではなかろうか。この男性側の地位低下というか収入低下というか学歴低下は実に興味深い。
雪ダルマはビルドする。
プログラムはUnixではメイクし、Windowsではビルドする。
サントリーホールにデセーの歌曲を聴きに行く。
プログラムを見ずに聴きはじめて、最初はシューベルトなのかなぁとか思ったら、クララ・シューマンと知った。シュトラウスの1曲目のワルツでは踊りっぽい動き。
白眉は第二部のプーランクだと思う。が、ドビュッシーの異才はやはりとんでもない。
アンコールはショーソンのガブリエルのような題の曲が佳品。ラフマニノフはピアニストのためだろうか、3曲目はポピュラーミュージックかと思ったらドリーブだった。緑、赤、白と楽譜のバインダーの色がそれぞれ異なるのがおもしろい演出。ラフマニノフがあまりに変な曲で驚く。スクリアビンとプロコフィエフにはさまれて、どうでも良いハリウッドタイプの作曲家だと思っていたら大違い(と書いて気付くとマーラーとシェーンベルクにはさまれたコルンゴルトと同じ位置だな)。あらためて作品を聴き直そうと思った。
1部も2部もキラキラした服。ピアニストのカサールと並ぶとそれほど小さくないなぁと思ったが、歩くとえらく高いヒールを履いていてなるほどと思ったり。
(もう廃版なのか)
この人の歌声は本当に独特に美しい。しかもエモーションを感じさせないので、なるほどオランピアが出世役になるはずだとも思うが、それが少しもネガティブな意味にならない。生身で、しかも異様な声なのでデッセという個性に裏打ちされているのに、なぜか繊細な楽器のように感じる。
それで、最近読んだばかりのフルーテッドガールをどうしても想起してしまう。もっともまったくエロティックではない。
非常に不思議な歌手だ。オペラを生で観ることはかなわなかったが、それでも同時代にこういう不世出の歌手がいて、その演奏を観ることができたのはとても嬉しい。
米原万理のマイナス50℃の世界を読了。
なんかえらくページ数が薄い本だったみたいだ。
良くわかっていないが、この稀有なエッセイストが世に出るきっかけとなった本らしい。TBSの取材で、イルクーツクの奥地に行くにあたって、優秀な通訳が必要ということで出て来たらしい。イルクーツクなんて、まともに行った日本人は大黒屋光太夫からこのかたほとんどいないので、筆が立つ人間に紀行を書かせることになり、毎日小学生新聞(TBSだし)を担当したのが米原万理だった(のかなぁ)。
何しろ、一年の8か月はマイナス50℃はあたりまえで、マイナス70℃にまでなるところに冬に行ったわけだから世界が異なる。北極や南極よりも気温は低いのだ。南の山脈にさえぎられて寒波がとどまり、海から離れているから湿潤さがまるでない。そうなるとひたすら気温は落ち込むばかり。なるほど、水は温まりにくいが冷めにくい。しかも地面は夏の間に温度を貯め込んだりはしない。氷河期の名残の永久凍土だから、むしろ0度に冷やす。
でも、乾燥し切っているから、むしろ零下30℃程度の都会よりよほど過ごしやすい(カイロに行ったとき、気温は40℃を上回っても、日陰にいると、30数度の日本よりはるかに涼しく過ごしやすかったのを思い出した)。
道路は冬しか使えない。というのは、川が多いが橋をかけられない。しかし冬には川が凍るから道路がつながって使えるようになる。(夏にシベリア鉄道に乗ったことがあるが、電信柱がみな地上30cmくらいのところに立っていて、すごく不思議だったのだが、冬になると氷で2mくらい持ち上がるからこれで良いのだと車掌に教えてもらって驚いたのを思い出した。建築するのも大変だ)
というところまで読んで、それは氷の上をそのまま車で走るってことじゃん。と不思議に思いながら読んでいると、しかし行きかう車はチェーンをつけたりはしない。むしろつけないほうが安全で、一番良いタイヤは溝がないツルツルのやつだと書いてある。で、そもそも滑るのは、摩擦で溶けた水によってうんぬん、マイナス50℃では溶けない。だから滑らない。と説明されて、おーと得心する。
室温は20℃に暖房されているが、普通の家ではトイレは庭にある。マイナス50℃あたりまえの庭と行き来することで、心臓の収縮が頻繁におこり早死にするという仮説があるのだが、実際にはコーカサス地方に次ぐ長寿の町である。食事が良いのだろうとか書いてあって、とにかく野菜なんてどこにも取れないから、馬の血を飲み内臓を食べてそのあたりの栄養素は摂取するらしいことが書いてある。食事はものすごくおいしそうだ。食ってみたい。
というか、馬と人間以外は存在しないようだ。
哺乳類ってすごいなぁ。冷血動物は生存できないところで生活しているのだ。
で、さらにどういう服なら寒くないかとか、いろいろ書いてあることすべておもしろかった。
それにしても、行ってみたいものだ。
土曜日は大江戸Ruby会議04で、両国。
特に印象的だったのが、3セッション。いずれもファーストコンタクトではないけれど、境界を越えることについてのセッション。
レオによる、外国人が日本で仕事を得て、生活を続けるためには、というセッション。続けるが強調点で、本当の題はなんだっけかな? persistentじゃないし。
レオに最初に会ったのは、確か、千代田区の学術会館でのRuby会議だったと思うのだが、そう考えるとずいぶん長いことになる。
オーストラリア人のレオが日本に来て、日本語を習得するまでで、DoとDo Notにうまくまとめていて、実は一番重要なことは他の何ものでもなく本人のスマートさだよなぁとか考えてしまうのだけれど、それはそれとして
・言語習得について
カルチャーを知る
たとえば、2チャンネルを読む
わけわからないコラ(というか、吹き出しのセリフ変えを何ていうんだっけ?)を見て(と、例としてジョジョが出てくる)、とにかく、この言語の話者かつ自分に関連するクラスターがそれを楽しんでいるのだから、それについて知る必要がある→ジョジョ全巻読破(ちなみに、まだの人は2部以降をお勧めとか)
英語について逆をやるのであれば、まずreddit。特にIAMA(違ったかな。有名板として紹介されただけかも)、ELI5。
次が西村さん。英語でらくらくとインタビューできるようになるために、30にして一念発起してサンフランシスコに留学して、イギリス時代のレーニンのように毎日図書館に通って英文法を勉強しまくった。レーニンは大英博物館だけど。ちなみに、その時点でTOEICは900点だったけど、全然お話にならないと実感していた。
最悪でも20000語は単語が必要だから、一日に10語覚えるとして2000日、5年は毎日勉強しなければものになるはずがないのだから、まじめに勉強しましょう。
日本人は英語を勉強している時間は長いがものにならないというけれど、だらだら少しずつ学校で勉強しているだけでは短すぎて使い物にならないというだけ。
なんか、集中せずに、9時から23時まで仕事をしているってのと同じことのようだな。
全然、そういうことは言ってなかったけど、そういう内容。
そして青木さん。並列RDBなんて1980年代からあるんだけど。エンタープライズとオープンな世界にはやはり情報、技術、基盤の違いがある。
おれは両方見られて、回り道のようだったけど、まあ良かったかな、という話だと受け取った。
技術ネタでは、mputさんの、まじめなJSON実装(RFC7159)の話が印象的。RFC7159をまじめに実装してみて、既存の実装の挙動と比べてみる。
で、おそらく上記の一番の成果物は、ヴァリッド、インヴァリッドのテストケースなのでみんな利用してね、ということなのかな。
完全に名前を忘れてしまったけど、Bundlerの人のセッション。なんか最後のほうでえらくこれは良いと思ったのがあったのだが、まったく忘れてしまった。なんだろう? 小さくなる系(もあった)のやつとは別の話だった。
ザックの中田さん伝説。育てのネコが途中で樹海へ一人寂しく帰るところで思わず涙ぐむ。だが中田さんはドライにビールを飲みながらロズウェル状態で両脇を科学者の両親に固められて栃木へ行ってしまう。
追記)どうも、自然な感覚としてファーストネームとラストネームで書き方に差がある。しょうへいのセッションと、うらべさんのセッションはおれの中では敬意等価だ。レオによる、と、チンさんによる、も等価だ。しかし、ザックとmputだとおそらく違う。多分、mputというのは識別子なのでmputさんが自然で、ザックはファーストネームのうちなのでザックが自然なのだろう。で、非日本名だとファーストネームとなり、日本名だと苗字となる。良くわからん。
ふと、akrさんからWindowsでは4GBしかメモリをアサインできないと言われたのを思い出して試してみた。
が、61Gまでいけるんだが。RubyのString実装に限定した話なのかな?
それともコードが間違ってるのかなぁ。
#include結果は#include int main(int argc, char* argv[]) { const _int64 giga = 1024i64 * 1024i64 * 1024i64; size_t i; for (i = giga;; i += giga) { char* p = (char*)malloc(i); printf("%I64d = %p\n", i / giga, p); if (!p) break; free(p); } return 0; }
c:\Users\arton\Documents\test>test 1 = 000000000136A040 2 = 000000007FFF8040 3 = 000000007FFFD040 4 = 000000007FFF7040 5 = 000000007FFFC040 6 = 000000007FFF4040 7 = 000000007FFFA040 8 = 000000007FFF3040 9 = 000000007FFF8040 10 = 000000007FFF4040 11 = 000000007FFF1040 12 = 000000007FFF1040 13 = 000000007FFF8040 14 = 000000007FFF2040 15 = 000000007FFFB040 16 = 000000007FFF3040 17 = 000000007FFFD040 18 = 000000007FFF6040 19 = 000000007FFF0040 ...(略) 55 = 000000007FFF5040 56 = 000000007FFF2040 57 = 000000007FFFB040 58 = 000000007FFF2040 59 = 000000007FFFB040 60 = 000000007FFF3040 61 = 000000007FFF4040 62 = 0000000000000000
なんか微妙にポインタがずれるのが不思議なような興味深いような。
甲州街道を走っていて、適度に車は流れているし、ステレオからはカラスが歌うMon coeur s'ouvre a ta voixが流れて来たし、実に気分が良い。
が、信号待ちだ。少し興を削がれる。
ふと左を見ると、国領神社の素晴らしい藤が見えて、おおそんな季節か、と信号待ちに感謝する。
コードを変えるには次の3つの方法があるのではないか?
1) 声を上げる
→目安箱(官僚制)、袖の下(高度な官僚制)、陳情(代表制)、ロビーイング(高度な代表制)
プルリクエスト
2) 中の人になる
→科挙、宮廷革命(秩序保持)、革命
コミット権の取得
3)逃げる
→移民、亡命、逃散
フォーク、乗り換え
現実世界では、1→2→3とハードルが上がる(覚悟や危険が増える)のに対し、ソフトウェアの世界では3→1→2とハードルが上がる。3が一番簡単であり、それがOSSであればフォークが容易という現実世界ではあり得ない選択が可能。
4回目になるが、最初の30%くらいは通勤電車でぼつぼつ読んでいるのだが、結局、夜更かしして全部読むパターン。小説としてのうまさは抜群ではある。
が、やはりどうにも気に入らない。気に入らないのが思想の問題であるのは明らかだが、面倒くさぇな。
そうは言っても作者も21世紀も10年過ぎた時代の作品を書いているのだから単純化するつもりがないのは読んでいてわかる。
特に今回のは憎悪と愛の2つについての鏡像を利用して警察的な薄っぺらな正義観に陥らないように工夫している。のだが、それがあまり効いていないようにも思う。機龍によるバトルものとしての側面に合わないからかも知れない。
当然、読んでいる間は、こちらが知っている風景として、セルゲイボロドフのコーカサスの虜の風景(ボロドフの立ち位置からはロシア側になるわけだが)を眺め続けることになる。
どうしてカフカスといえば少女なんだろうか(というくらいコーカサスの虜のポスターはうまくできている)?
-keepclassmembers class * implements java.io.Serializable { static final long serialVeresionUID; private void writeObject(java.io.ObjectOutputStream); private void readObject(java.io.ObjectInputStream); }を追加。
須藤さんが作った知らない話を聞く会の第1回目として量子暗号について聞く会に参加。西新宿でひっそりと開催。
(以下、ほとんど覚え書き。そもそも聞いた話は20%しか覚えていないということだし、そこからさらに1晩たっているのでさらに減衰しているはずだ。というわけで、とんちんかんなことを書いているかも知れない)
最初に量子とは何かについて。量子というのは、原子とか光子とかいったある特定のものの種類を示す言葉ではなく、それらの種類の中での単位となるものを示す用語だ、という説明を受ける。そういう存在があるのだと思っていたので、まずそこでおもしろがるおれたち。
最初にいわゆる暗号についての説明。普段使うAESやRSAを数理暗号と呼ぶ。数理暗号の問題点は、総当たりを有意な時間内に行うことができれば解けることにある。そのためには秘密キーの場合はビット数を長くすることが解決策となる。次の問題は通信のピア同士の鍵の交換となる。一方の公開鍵暗号化については2つの十分に長い素数についてのやはり計算量に頼った方法での秘匿を利用している。それに対して物理暗号がある。量子暗号は物理暗号のうち量子を利用したものだ。OSI7階層にマップすると、物理層とデータリンク層での暗号化を意味する。そうだったのか、とおもしろがるおれたち。
現在、量子暗号には2種類ある。
1つは日本の国家プロジェクトにもなっていてすでに予算もたくさん注ぎ込んでいるワンタイムパッドを実現するための量子鍵配送(QKD)に関するもので、ベネットとブラッサードが1984年に(原理を)考案したBB84。
もう1つがユーエンが2000年に考案したY-00で、日本では玉川大学の広田先生が実用化をやっている。Y-00ってこの論文かな?。
ユーエンというのは超天才のたぐいの変な人なので、何を言っているのかわからない。変な人なので敵も多い。しかしこちらはUSではDARPAの支持を取り付けて実用化しつつあるらしい(DARPAがらみなのが理由なのか多少謎めきらしい)。
世界に冠たる超天才として認められている人を、まったく知らない(業界が違うってことはそういうことだよな)ことをおもしろがるおれたち。
まずはBB84の説明。
それぞれの光子は「偏光」と呼ばれる向き(以下角度で示す)を持っている(案の定すっとんきょうなことを書いていたようでした。修正ました)。光子が持つ偏光は直交していれば識別できる。縦スリットを通り抜ける光子と横スリットを通り抜ける光子の違いは、偏光の違いだ。今0度と90度の2種類を想定し、それぞれビット0とビット1を示すことにする。
それに対して別の直交関係の光子をおく。45度と135度で、それぞれビット0とビット1を示すことにする。
ここで直交していなければ識別できないという性質に着目する。もし、0度と135度の2つの光子が来た場合、その2つは識別できない。正しくは0-1というビット列だが、0-0、1-1、1-0と誤判定可能で、それぞれの確率は1/4となる。
むちゃくちゃおもしろいと興奮するおれたち。
まあ、むちゃくちゃおもしろいので、みんなBB84に飛びついたってことですが、と続く。
さて、アリスがボブに情報1001001を送ることを考える。このとき、すべての光子を直交させるのではなく、送信時に乱数発生器を利用して0-90ペアと45-135ペアをランダムに配置するとする。結果として以下の光子を送ったとする。90-0-45-135-0-0-135。
ボブはこのビット列を受け取るためには、それがどの角度か見極めなければならない。が、それは不可能だ。同じく乱数発生器を利用して読み取ることにする。たまたますべての乱数発生器が0-90を選択したとすると受け取るのは90-0-?-?-0-0-?となる。?は0または90のいずれかと誤判定される。
その後アリスは乱数発生器の選択について0/90-0/90-45/135-45/135-0/90-0/90-45/135だったと公開する。ボブは答え合わせをして1-0-?-?-0-0-?を得たことがわかる。わかった情報は秘匿したまま0/90-...0/90を選択したことを公開する。
アリスとボブは送れなかった情報と送れた情報をお互いに知る。
判定器の不一致の確立は1/2なので1024ビットのキーを配送するには2048ビット(ビット数=光子数)を送れば良い。お互いに乱数発生器の選択を知ったので一致したものを利用して秘密キー1000を得る。
ここにイブが介入したことを想定する。
イブはアリスとボブの通信の間に読み取り器を挿入する。イブも同じく判定器を使わないとビットを判定できない。判定しないとボブへ送ることはできない。
そこで乱数発生器を利用する。たまたま乱数発生器がアリスと同じ選択をした場合は、イブは盗聴に成功する。その可能性は1/2をビット数分乗じたものとなりビット列が十分に長ければあり得ないことになる。逆にすべての乱数発生器がボブと同じ選択をした場合もイブは盗聴に成功する。
ここではたまたまボブと逆にすべての乱数発生器が45-135判定器を選択したことを想定する。
するとイブが送信するのは?-?-0-1-1-?-?-1となる。ボブが受信するのは?-?-?-?-?-?-?-?となる。
イブの介在を知らないアリスとボブは秘密キーをそれぞれ求める。アリスは1000を利用する。ボブは????を利用する。
キーが不一致となり、ボブはイブが盗聴していたことを検出する。あぶない!
一方イブはアリスの公開情報から自分が得たビット列は0111とわかる。しかしボブの公開情報からアリスは秘密キーとして0111を利用しないことがわかる。結局、秘密キーを得ることはできないため、後にアリスが送った暗号文を解読することはできない。
すげぇおもしろい。
が、世の中は理論と物理では異なる。まずノイズの問題がある。今0-90と45-135を送ることができると仮定したが、30-120になったらどうだろうか? もちろん判定できない。減衰もある。途中で光子が行方不明になったらシーケンスが成立しない。途中にリピータを噛ませて減衰に対抗することもできない。それはイブの盗聴と同じ結果となるからだ。
というわけで、200億円以上の予算と国内の大企業が超優秀な研究者と技術者を動員して頑張った結果、現在の成果として200km離れた地点を結ぶ特殊な光ファイバーを使って秒あたり12光子を送ることができるようになった。
12光子ということは秒速12ビット?
そう。というわけで、BB84の連中に対して、彼らの最も偉大な発明はmbpsという単位の発明と呼ぶことがある。ミリビットパーセカンドを使うと12000mbpsというそれなりの速度っぽく見せることができるので成果発表のときに胸を張れる。
一方、ユーエンは全然異なる発想をした。
そもそも量子は光子だけを意味するのではない。
(続く)
ジェズイットを見習え |
_ 高尾宏治 [すごい!本家でもコンパイルは難しいと言われていたDXRuby 1.4.1の64ビット版が同梱されているなんて!? (..]
_ arton [え、一応サンプルが動作するのは確認したけど、難しい点はなかったですよ(そういわれると逆に何か間違えているんじゃないか..]