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中国の歴史は大体のところわかっているつもりだったが、明から清にかけての王朝交代の間に2か月弱ほど北京を支配した大順というものを知ったのは、叛旗 小説李自成を読んでからだ。叛旗という題と表紙の美しさ、そもそも李自成って誰? という興味から上下2巻を買って読み三嘆した。(本国では続編があるが、翻訳は李自成が他の盗賊を糾合するところで終わっている)
僕がまったく気づきもしなかったのは、どうもそれまで李自成と大順は正史からは無視されていたかららしい。それが、郭沫若(に準じてその後に毛沢東)によって農民反乱からの自治政府構築者という観点で再評価されたという文脈で李自成が広く知られたということらしいのだが、作者の姚雪垠は反右派闘争でやり玉に挙げられた(実体は田壮壮の青い凧に描かれていたようにほとんど運不運(まるでソフトウェアを納品するためには30%のバグをどうしたみたいなもので、職場に100人いれば3人右派がいるというような数値目標があったらしい)なのであまり参考にはならない)りして発表は遅れに遅れたようだ。書き始めたのは1940年代らしいのでまさに郭沫若に刺激されたのだろう。
いずれにしても陳舜臣が手を入れただけあって文章は雄渾にして精緻、実におもしろい小説だった。
再び李自成の名前を見たのは、安能務の中華帝国志を読んでいるときで、まあ癖がある人だけに李自成は俎上に乗せやすかったのかも知れない。
驚いたのは、叛旗ではほとんど水滸伝における呉用のように策を巡らして大活躍する牛金星が木偶の坊としてむしろ足を引っ張る役回りで、代わりに非実在の人物と断った上で(叛旗にはまったく出てこないのは史実ではないからだろう)李巌という挙人が出ずっぱりで状況を解説しながら大活躍することだった。
何しろ、まるで三国志の魯粛のような大人っぷりで義挙を働くのは良いものの、ちょっとした手違いで県令に捕まってしまう。そこをかって街で李厳を見初めた曲技団出身の美貌の女盗賊紅娘子によって牢獄から救出され、そのまま盗賊団の首領に収まるが(演義での後付け登場人物だけに、このあたりは水滸伝が入っている)、そうは言っても所詮は挙人、大事を成すには天命が無い。そこで情報網に引っかかった闖王李自成に合流して天下を目指す(要は、秦末の張良パターンとなる)。
という中華歴史パターンに当てはめた大順建国譚になるのだが、安能の筆になる李厳が実に良い。登極直前の李自成を捕まえて、明日になるとこういう会話を交わすことはできないので今告げておくが、皇帝になっても朝夕は空を見上げて星辰の動きに瞠目し自らの小ささを実感せよ、そうでないと道を誤るぞ、と告げるところは抜群だ。その後の呉三桂(明清の国境の守備をしている将軍で、大順につくか、清につくかで迷っている)との会談での振る舞いっぷりとか、安能版の李厳は実に良かった。
というのは30年近く前までの話。
先日、アマゾンを見てみたら、その名もずばりの李巌と李自成という小説があったので、つい買ってしまって、あっという間に読了した。
まったく知らない筆者だが、どうも中国史に題をとった小説を量産している作家っぽい。
おもしろかったので最後まで一気読みをしたのだが、小説にするために牛金星を極端に卑屈で(安能版でもそうだから、そういう役回りはしょうがないとしても、卑屈っぷりを示すために散々李厳に人物批評をさせているのが)鬱陶しかったり、物語の辻褄を作るために紅娘子を途中で病気退場させたりいろいろ行動させたり(実はこれもおれには鬱陶しい)、崇禎帝の死を王承恩(最後まで皇帝に殉じた宦官)に見届けさせたり(どうも崇禎帝を孤独死させるというのは、中国史においては非常に重要な点らしいので、これはひどい改変。安能版では通説通りに王承恩が後片付けに外している間についに王承恩にも裏切られたと思って孤独に死ぬ)、呉三桂をあまりにも小物として描いていたり、気に食わない点も相当ある。
でも、まあ全体としてはおもしろかったので良いのだが、新書のような小説だなとは思った。
ちょっと思い出したのでミクロイドSを読み返して、えらくおもしろくて感心する一方で、なんかデビルマンに似ているなぁと思った。
ミクロイドSは、人類の別進化系統のミクロイド(身長は3cmくらいで、言語ではなく思考で会話する。この設定のおかげで、アメリカでも日本でも人類と意思疎通が可能)と、ミクロイドを家畜として使役するギドロンという蟻の進化した生物が生息しているアリゾナ砂漠の地下のギドロン帝国での反乱軍の処刑とその処刑場へのミクロイド反乱者の攻撃から始まる。
ギドロンは世界中の昆虫から得た情報(公害であったり自然破壊であったり)から昆虫の生存を賭けて人類の殲滅を決意する。そのために人類の行動パターンを本能的に理解できるミクロイドを人類世界に送り込み、現地で調達した昆虫軍を使うことを計画する。
同じ人類の眷族(哺乳類仲間)としてギドロンの計画を許すことができないミクロイドの有志が反乱を起こし、そのうち、3人がギドロン帝国からの脱出に成功してニューヨークの国連ビルを目指す。のだが、小人の見世物として売られそうになったり、一笑にふされたりして相手にされない。そうこうするうちにギドロンが派遣した人類殲滅隊に見つかり、隠れた旅行鞄が向かうままに日本へ到着する。
ここで人類側の主人公の美土路学が登場。勉強はできないが剣道の腕前がある中学生で、父親は昆虫学者という設定で、なぜか意地の悪い教師が後のドンドラキュラになるノラキュラ先生で、多少のギャグパートの役割も果たすことになる。
紆余曲折の末、ミクロイドは美土路博士にギドロンの計画を告げることに成功する。学者だけに、目の前で3cmの人類が思考を使って会話するうえに、ギドロンの計画もそれなりに筋が通っているので信じることにする。偉い先生なので政治家やテレビで訴えるのだが、ついに頭がおかしくなったのだなと扱われる。
そこに昆虫の大群によるギドロンの第一次攻撃発生。
人々は、この事態を予想していた美土路博士こそが真犯人と考えて、リンチにかける。
壮大な話なのだが、3人のうちの1人のアゲハと、ミクロイド側の主役のヤンマー(トンボっぽい)の兄貴のジガー(ジガバチ?)が婚約していて、兄貴はヤンマーに嫉妬していて、ヤンマーは彼女をスパイと疑っていて、といった細かい話をうまく組み合わせてクライマックスへ突き進む。
手塚治虫だし、発表誌が少年チャンピオン(当時のマガジンやサンデーが全共闘世代の雑誌として大学生に向いてしまったのに対して、小学生路線を堅持)なので、最終的な破局は避けられる(したがってアンチハッピーエンドではない)。が、ハッピーエンドでもない。
この、美土路博士に対する市民の攻撃、人類と別の場所で進んできた別系統の種による人類滅亡作戦という設定がどうにもおれにはデビルマンに似ているように感じたわけなのだった。もちろんドラマ構成などは全然違うし、ミクロイドSはいかにも手塚治虫な感じの子供に対する優しい目配りと全体としての人類に対する嫌悪感が溢れていて、そこが永井豪のすべてはエンターテインメントのような割り切りは無いので、全然真似というわけではない。
とはいえミクロイドSは1973年の作品で、デビルマンは1972年から1973年の作品なので、まったく無関係というわけにはいかないだろう。
一番重要な共通点は、1972年の連合赤軍後(以降、大きな大衆運動としての新左翼運動は消滅して、各派、内ゲバの時代となる)だということ、光化学スモッグやヘドロなどの公害が蔓延し始めたこと、要は1970年代初頭の時代感に満ちているということだ。
・手塚治虫の作品では海のトリトン(というよりも青いトリトンが1969年の連載開始時には海の男の根性ものだったのが、1972年の終了時には反公害のために人類と敵対せざるを得ない海に暮らす別系統の人類の物語となっているが、その延長線上にあるとも言える。
・おれには、この1969~1973年あたりの手塚治虫の作品が一番おもしろく感じる。もっともリアルタイムにおもしろく感じて読んだ感触が残っているからかも知れない。
・手塚治虫のテレビ主導(1話完結で、回ごとに怪物対主役のバトル)のマンガ作品は、ミクロイドSもサンダーマスクも、実際のところえらい傑作になるのがおもしろい(意味わからない5人の刺客が出て来てカブトムシ以外は瞬殺されるのは、多分、アニメ連動の玩具のためなんじゃないかなぁ。今読むと余りの意味のなさに不可解だ。ちなみにあまりに学がバカなので全く理解されないままにたった一人で昆虫軍団の攻撃から眠りこけている学を守って死んでいくカブトムシが良い味出し過ぎている。ちょっとゴンギツネが入っているような感じだ)。後年、特にタクシードライバーの漫画で顕著だが、一定の枠組みを与えられてその中でドラマを動かすのがうまい作家だったのかなぁとか考える。
・ふと気づいたが、ヤンマー、アゲハ、マメゾー(仮面の忍者赤影の青影役だ)の3人のバランスの一般性(女性のアゲハは肉体的に足を引っ張る役回りだったり)に比べて、手塚オリジナルのワンダー3のウサギ(リーダー)、カモ(ホワイトベースのカイみたいな感じもあるが、知的だが皮肉屋)、ウマ(技術者)って、タツノコっぽい組み合わせだ。ミクロイドSの比較的ステロタイプな3人組は、アニメの設定由来なんだろうなぁ(もっともアゲハは最初は足を引っ張る役回りだが、途中から無茶苦茶強くなる)。
汐留の電通四季劇場でアラジン。見なくても、劇団四季だから演者は上手だろうし演出はちゃんとしているだろうし、音楽はメンケンだし、筋立てはディズニーだからつまらんわけがないわけで、そういう意味ではそれほど見なくても良い舞台ともいえるのだが、家族の誕生日記念というわけでなかなか良い。
入場時はいつやられたかわからないが検温と手へのアルコール吹付、マスク必須(能書きだとCOCOAのインストールなども求められているが、特にスマホチェックがあるわけではなかった)。トイレを出たところにもアルコールガールがいて手に吹き付けてくるのはちょっと驚いた。子供連れが多いから、可能な限り安全策をとっているのかな。
筋立ては大体アニメ版と同じだが、アブーという猿の代わりに、不良仲間が3人(リーダー格と、太っちょ、銀河鉄道の夜のマルソーみたいなやつ)で、2番目の願いが海に放り投げられるかわりに3人と一緒に牢屋に閉じ込められることに変わる(主演を休ませるためだろうが、この3人のやたらと長いアドベンチャーの歌があるが、テンポも演出も良いので悪くない)。同じくイヤーゴがオウムではなく、とてつもなく頭が悪い(すぐに敵対者を殺そうと言い出す)阿諛追従の塊のような人間として描かれている(オウムのもつ突如として入る客観性もなくなっているのでちょっと気分悪いくらいに極端だな)。あと、魔法の絨毯は猿と同じく人間が演じるのは無理があるからだろうが、単にジーニーが寄越す王子様セットの備品となっている。
逆にラストでジーニーが旅立つときにアロハを着ているというのがネタ的に踏襲されているのもおもしろい。
trust meは言いまくる設定でジーニーにまで言うのはちょっとおもしろい(し、そこは筋に合っているのでむしろうまいと思った)。
バルコニーのシーンからの絨毯の旅は単に月(地球かも知れないけど)がくるくる回るだけなのだが、すばらしい。アニメを見ている前提だろうけど、駆ける獣の大群が月に映るところの美しさや、時たま出てくる流れ星など、舞台表現としては抜群ではなかろうか。
それにしても、アニメもそうだが、ランプを擦られて10000年の眠りから覚めての大暴れはとてつもない。
確かメトライブビューイングのジークフリートのバックステージインタビューで、デボラ・ヴォイトかそれともジークフリートの歌手かどちらが言ったか忘れたが、最初から全力で歌いまくりながらファフナーやミーメを退治して、ヴォータンの槍を折ったりしながら岩山を駆け上って、さらに火の輪くぐりまでして来たジークフリートに対して、10数年ぐっすり眠って元気いっぱいのブリュンヒルデと一緒に歌うのは地獄というようなセリフがあったが、ジーニーもブリュンヒルデみたいに元気いっぱい歌いまくるのがおもしろい(し、死にそうに大変な気がする)。
アラジンの一番の肝は、しかしホールニューワールドではなく、10000年の退屈から目覚めたジーニーの大暴れと、アラジンとの友情にあるわけで、やはり最後に解放されるところは感動的だ。
あと、地味ながら王様が実はえらく開明的なのも気分が良いが、それにしては市中の貧富の差の激しさはもう少しうまく統治できないのか? という疑問にはなる。
アラジンの人は歌もセリフも抜群で、声質もオリジナルみたいな人をうまく配しているのだが、特に最初の時点のベストのみの衣装だと首がなくて妙な印象を受けた(普段は演者の外見は気にしないのだがなぜか引っかかるので、僕にはすごく首は気になる点らしい)。
読了したのは数週間前、購入したのは数ヶ月前だが、マルクスのドイツ・イデオロギーを再読したので記録。
前回は多分高校の頃に青木か岩波で読んだのだが、それから数10年、ほぼすべての哲学的諸概念をちょっとできるようになっているだけに、あれ? こんなにおもしろい本だったっけ? と実に楽しく読めた。もちろん、わざわざ再読したのは、今度の翻訳が良いという話をなにかで見たからだ。したがって、翻訳が良いという点もあるかも知れない。が、主な違いはスターリン主義のスティグマの有無らしく、でもそれは所詮細部だ。細部の比較検討は専門家に任せれば良いのでどうでも良い。とにかく、純粋におもしろかった。そして、自分でもちょっと驚いたが、マルクスの本気に感動した。
とにかく手稿なので、突然、TODOリストになったり、同じことを大事だと言わんばかりに繰り返したり(出版のあかつきには削除だな)、後で書くになっていたりするが、それもまた細部に過ぎない。
要は、まだ経済学という視点から人類の平等の実現を構想する前の若い(といっても27歳だが、哲学者としてはもちろん当時であっても若い)マルクスがエンゲルスの協力のもとに、当時の主流な左派哲学者群に対して、お前らは間違っていると断ずることが眼目の書がドイツ・イデオロギーなのだ。
完成させなかったのは、すでに哲学の領域で云々しても世界を変えることはできないから、より現実的に、缶詰がいかに構成されているかを考えたほうが良いと考えたからだろう。かくして、哲学者マルクスは、経済学者マルクスになり、第1インター内での組織者マルクス、過去の革命から知見を引きずり出す歴史学者マルクスと転身する。
というわけで、フォイエルバッハやブルーノ、おれも好き大正時代の人たちも好きだったシュティルナーを矢面にして、皮肉やあてこすり、嘲笑の的にしながら、どうやって世界を見るのか、そしてそれによっていかに世界を変えなければならないのかを書きまくる。
ほとんど統一原理ここにありといわんばかりの勢いなので、出てくる概念、用語、名詞にことごとく「諸」をつけるありさまだ。かくして世界の諸様相を巡る諸概念、つまりは諸個人における諸活動は……みたいな調子。
が、その気負いが、実に好感が持てる。本気で世界を変えるつもりだったのは間違いなく、水木しげるの悪魔くんに「釈迦、キリスト、マルクス、そして悪魔くん」と並列させられるのも無理はない。
ドイツ・イデオロギーでの論旨は明快である。すべての事象を解釈するには、それが経済活動と密接不可分だということをまず考える必要がある。要は唯物史観を持ち、世界が持つ問題を経済活動の矛盾点に焦点を合わせ解決する方法を考えることが必要であり、そうでなく、単に個人の考えだけで完結させるのであれば、それはまったく世界に対して意味がない、そういうことだ。
かくして、なぜか巻末に収録されている有名なフォイエルバッハのテーゼの最後の一文となる。
哲学者たちは、世界をさまざまに解釈しただけである。しかし、肝要なのは、世界を変えることである。
最近立て続けに一緒に暮らしている猫が病気というか怪我というかをして特に一匹は厄介な状態なのでずっと付き合って看病したりしていたのだが、いろいろ発見があった。
・猫もスカンクのように臭腺を持つ
後ろから見たらお尻の穴の下に2箇所大きなハゲができていてなんだこれ? となって病院へ行く。
猫にもスカンクように臭腺があって(ただし攻撃には使わないらしい)、そこに膿が溜まって爆発したとのことで、そんなものがあることにまったく気づいていなくて驚いた。
・猫の舌は鮫肌山葵下ろし並みの強力さ
手を舐められたりしたことは普通にあるのでザラザラしているのは知っていたが、本気で舐めると鑢をかけたような恐ろしさ
・猫の皮膚は強靭
良く良く考えてみれば、撥でベンベン叩いても平気だから打楽器と弦楽器ハイブリッドの三味線に使われていた(今も使われているのかな? 四谷の三味線屋さんは廃業したような雰囲気だが)くらいだから当然なのだろうけど、猫の皮膚はとてつもなく強靭
・猫のおしっこの仕方は合理的
猫は(雌猫の場合。雄はわからないや)座っておしっこをするので、それで砂(要は浸透性がある素材)でやるのかとあらためて知った。
結果として氷山のように表面の一か所が湿って、その下に巨大な塊ができる(固まる系の猫砂を使っているので、まさにそういう感じになる)。元気になったら砂を上から掛けるようになったのでそこまではっきりはわからなくなってしまった。
常陸化工 トイレに流せる木製猫砂 6L×6個 (ケース販売)(-)
・猫のうんこは油性コーティング
前から不思議だったが、やはり油性コーティングされているのでうんこした後の肛門がすっきりしているのだなと再確認。
というか、人間も同じような仕組みだったら、トイレットペーパー屋さんは破滅だろうなぁ。
・猫は流体
筒状の伸縮自在布に手足の穴を開けたものでくるんでいるのだが(トイレの仕方が上述なのでそんなのでも問題なく排泄できるのには感心した)、気づくとするっと腕が穴から抜け出して首のところから出ている(要はもろ肌脱ぎ)とか、尻尾がなぜか後ろ脚用の穴から出ているとか謎状態になる。良く観察していたらもろ肌脱ぎになるのは、ベッドの上に飛び乗るときに起きることがわかって(意図的に脱いでいるわけではなさそう)、一体どう腕を動かしているのか不思議ではある。
妻が図書館でジョニーは戦場へ行ったを借りてきたので一緒に観る。
戦場で爆弾(地雷と覚え違えていた)で手足と顔面を吹き飛ばされて芋虫状態で軍の病院に隔離された兵士の映画だ。作家はダルトントランボで、赤狩りで追放された作家の一人でもある。
なぜか忘れたが妻がジョニーは戦場へ行ったについて話たので、最後看護婦さんに殺してもらうんだよね? と言ったら、そうじゃないと書いてあったけどと言い返すので、はてまったく記憶にないぞと気づいたのだった。ベッドに寝たきりのを窒息させて殺すのは、よくよく考えたらベティ・ブルーだった。
確か、中学生の頃、名画座で観たのは間違いないのだが、驚くほど記憶になく、見返したら理由はわからないでもなかった。優れた脚本家ではあるのだろうが、必ずしも優れた映画作家ではないのだ。したがって、シーンに印象が無い。
始まるとクレジットの上に第一次世界大戦での出兵の様子がおそらく当時のニュース映像か何かを使って映される。ここでも記憶が間違っていたことを知り、ジョニーはベトナムへ行ったのだとばかり思っていたのだが、実際は欧州へ行ったのだった。したがって、当時のニュース映像からシームレスに物語が始まる。
本能的に急所を守るために体を折り曲げていたために助かったのだろうが、脳に損傷があるから実験用にしようと軍医が話す。しばらくして倉庫に隔離された負傷兵の物語が始まる。
基本は白黒の現在のモノローグ(最初はサクレクールあたりの病院で、1年以上経過した後も同じ病院のようだ。サクレクールという名前は仮に歴史的な事実だとしても意図的だろう)とカラーによる過去の回想と夢で、徐々に回想が減り夢が多くなる。思い出すことの残りが乏しくなることを示している可能性はある。
モノローグによって、抜糸のたびに、腕の切断を追体験し、脚の切断を追体験し、歯がないことを確認しようとして舌がないことを知り、ただ穴があることを自覚するところはモノローグの強さだ。ジョニーは見ること聞くことはできないが、人が入ってきたときの振動を感じることはできるので、それによって少しずつ事情を飲み込んでいく。
観ていてオルドリッチやロージーのような同時代人の赤仕草というか、何か別の意味を持つのだが、はっきりどころかほのめかしもせずに了解を求めるという作法が強い。オルドリッチやロージーはそれを無視しても問題ないほどのエンターテインメント性があるのだが、ダルトン・トランボにはそこまでの力量はないと感じる。しかし脚本、この場合は主として台詞回しということになるのだが、は抜群だ。
最初の回想では恋人、婚約者、妻か微妙ではある女性との最後の夜、その直前の女性の父親とのやり取り、そして出征時の駅での別れとなる。別れ際、二人は抱き合うのだが、女性側に促されて腕を回す。
父親の死に立ち会い、釣り竿について謝る。
子供時代、父親が釣り竿の手入れをしているのを眺めている。中国製の漆を塗る。おれの周りはすべて小さい。おれも家も畑もお前も、すべて小さく何一つ自慢にはならない。でもこの釣り竿だけは違うんだ。この釣り竿がおれの唯一の誇りだ。最後父親はジョニーを抱擁し、腕を回してくれと言うがジョニーは拒否する。
現実世界では医者の指示を守っている看護婦が薄暗い部屋でジョニーを看護しているところに婦長がやってきて、これはありえないと窓を開ける。ジョニーは額に熱を感じて嬉しくなる。
ジョニーは友人と父親の3人でキャンプへ行く。父親に友人が持ってこなかったので釣り竿を貸してくれと頼む。父親は目を見て、お前がおれのを使い、お前のを貸すのなら良いと言って貸してくれる。
カヌーで急流を進むと、あっと言って釣り竿が河へ落ちる。
父親に失くしたことを報告する。探し回ったけど見つからなかった(嘘かも知れないし、上のシーンの後に実際に探したのかも知れない)。
父親は、たかが釣り竿だ、と言って許す。
回想が次はパリで買った英語を話す娼婦(アメリカから流れてきたらしく子供はブルックリンの寄宿舎にいて、そのためにも稼ぐ必要がある)に進む。ジョニーは何もせずに眠ってしまう。
看護婦が変わり、ベッドをより窓際へ移す。
(この時点か、それとも婦長が窓を開けさせたときか既に記憶にないが、これによってジョニーは1日の経過を認識できるようになり1年以上が過ぎたことを把握できる。頭の中に表を作って消しこみ法で週、月、年を記録していく)
彼女は同情から涙を流す。その涙が胸に落ちたので不思議なものとしてジョニーは認識する。
ジョニーは爆弾にやられた日を回想する。司令官が前線に視察に来る。伍長に悪臭について尋ねる。ドイツ兵が有刺鉄線に引っかかって腐敗しているのだ。司令官は弔うように命令する。敵兵であっても死者には敬意を払うべきだ。
夜、伍長が死体の回収と埋葬を行う志願兵を求めるが、誰もやりたがらないことはわかっているので適当に指名する。ジョニーも選ばれる。敵兵を穴に埋めようとしたところでドイツ側の攻撃が始まる。ジョニーは塹壕へ逃げるが爆弾が落ちてくる。
後日、看護婦はバラを1輪コップに差す。もちろんジョニーには何が起きたかはわからない。このシーンでコップがアップになって切り替わる。
少なくとも、ジョニーは自分に好意的な看護婦が担当になったことを理解する。
一方、夢の世界では父親が見てきたサーカスの口上を真似することを思い出し、そのまま自分が見世物になることを考える。恋人は去っていく。このシーンでは色使い、砂、カーニバルの馬車というか移動式小屋といい、すさまじくステレオタイプなサーカスの幻影になるのだが、ステレオタイプの原型の1つなのかも知れない。
クリスマスの夜、看護婦が胸にMerry Christmasと書くのをジョニーは認識し、今日がクリスマスだとわかる。これで、日付がわかるようになったと喜ぶ。
夢の中で父親から頭を使えと教えられる。
頭を使ってモールス信号を送る。最初の医者が残したすべての運動は単なる痙攣だから鎮静剤を射てという指示によってやめさせられる。
しかしこの病院の司令官の視察時にはモールス信号だと気づいた看護婦か担当医によって通信兵が同行している。
意思の疎通が取れることが確認される。
最初の診断をくだした軍医は司令官によって退場させられる。
司令官はジョニーに何ができるかを尋ねる。それに対して、サーカスの見世物にしてくれ、さもなければ殺せ、と答える。
司令官はカーテンを閉めることを指示して去る。
看護婦は神に赦しを乞いてから気道へ空気を送る管を遮蔽する。ジョニーはそれに気づき感謝する。
そこに司令官が戻り、元に戻させる(この後の司令官の行動をどう読むかで物語はまったく異なるものに変わるだろう)。
ジョニーは取り残されてSOSを発し続ける。
出口なしの閉塞状況で終わっているように見えるがそうではないのではないか? と思った。司令官が看護婦に管のスイッチを戻させる(のではなく本人が戻したような)のに、高圧性もないし怒りもない。いずれにしても、赤仕草は異なる時代から読み解くのは簡単ではない。おそらく、最も素直に読めば、敵兵を埋葬するように指示したように、自らは手を下すことなく命令する司令官と重ねていてるのかも知れない。であれば、殺すことは悪であり、単に暗い部屋に生きたまま敬意をもって埋葬すると読むのが筋かも知れない。その場合、看護婦はジョニーに重なるのだろう。しかし状況は戦中ではないので異なる結末があるかも知れない。しかしベトナム戦争中ではある。意味は徹底的に多層化されている。
パラサイトのラストに通じるものがある。
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