著作一覧 |
ロバートスミスのギターが聴きたくなったが、CDが見つからない。
アベルガンスの真似をして、キャメラを振り子のようにして撮ったやつ。
ガンスはキャメラのキャッチボールだったと思ったが、効果は似たようなもんだ。
#この場合、カメラとは書かない。
いい加減にエコーアンドザバニーメン飽きた。この連中は飽きるんだよ。だから、手元にクロコダイルもポーキュパインも残って無い。売ってしまうからだ。当時のだと車に放置したせいでゲイムだけが残ってたりするんだが。再結成1作目と脱退後の妙なの(なんていうかサイケデリックファーズのジャケットに、ヒューコンウェル脱退後のストラングラーズのような嘘臭さがあってそれなりのできのような気もするんだが)を先日買ってずっと聴いてたら飽きたという話。
で、結局グールドのギボンズとかに戻る。
忘れようとしても思い出せない。というのはバカボンの中の科白。
井の頭公園。3年前くらい。
行進だ。
針をふりふり揺さぶりながら。
3頭? 4頭かも。たまに道を逸れるやつもいるんだが、基本的には隊列を乱さず行進だ。尻に鼻先くっつけて。
その後、日本リス、サル、鳥、子供(遊園地のことだ)見て戻ってきても、まだ行進している。
なんか、非常に得した気分になったのを覚えている。
その後、上野含めて7〜8回は見ることはあったが、あんな行動を見たのはあれっきり。
でも、生物学者じゃないから、その光景を記憶に刻み込むだけで完了。
今、TVブロスを読んでたら、タランティーノが夕張映画祭に言及していて、それで思い出した。
日本人の兄弟の故郷が夕張で、そこに遊びに来た台湾(か香港)の女の子。ビルの裏の階段。白い道。雪。夜。街灯。映画のポスターの商店街(青梅みたいだ)。勝手口じゃないな、縄暖簾かな、間口が狭い。スノーキャップ。吐く息の白さ。
ほとんどホームビデオのようにカジュアルで、映像もラフ(と言ってもパリステキサスのそのままビデオとは違って明白にフィルム)。道路の雪は白く光るし、空は夜だから黒い。その間を3人の若者がじゃれ合いながら通って行く。静けさと礼儀正しさとそこはかとない無軌道さ。
これ、誰の、なんていう映画だ? 全然、記憶にないんだが。
(30分経過)
こんな映画を撮れるのは台湾だな、多分。侯かな? いつ見たんだろう。
(30分経過。侯の字を調べてたら、夕張映画祭のページを見つけてそこで確認)
ミレニアムマンボだ。すごい傑作だ。半年も忘却していたにもかかわらず、突然、映像とその映像に伴う心象が浮かび上がってくるんだから、これこそ映画だ。
(10分後)
パリステキサスのはビデオじゃなくてスーパー8のような気がしてきた。ざらつき感が。
原子心母(嘘)。機会があったら聞いてみます。
In Cって聞いたことも聴いたこともありそうだけど、テリーライリーとかかな?
(続きは後)
で、Amazonの一緒に買ったCDとか見るとライヒだったりして、ミニマリスト(とは音楽家の場合は言わないかも。でもいいや、ライヒ、ライリー、亀ちゃん、グラス、ラヴリーミュージックとかひっくるめてこう呼ぶことにする)のようだ。で、僕はバラードにはミニマリストのようないかがわしさ(それは、インドかぶれのヒッピー臭さであったり、ニューサイエンスの似非タオイズム−とは言え、老子はいかようにも解釈できるから、別に彼らのタオがあっても一向に構わない−の持つ腐敗臭のようなもの)とは全然別のもの、たとえば明晰さであったり、単純にテクノロジーの持つ美しさ−ハイテクの元祖−艶かしさといったものに対する賛美であったり、を感じる。どちらかというと人間の技術能力に対する懐疑から自然回帰するのとは、対極の姿勢、技術に対して素晴らしいと感じる心の動きが持つ鋭敏さに対して、思考がそれに追いつけないもどかしさ、といったものを感じる。
それは、ハンガリー民謡の構造分析から、黄金率をすべてに当て嵌めようとする徹底した人工的な意思と、その人工性から引き出されるものが、ほとんど対極にあるとしか思えない非常に感覚的にしか聴こえない夜の音楽に代表される複雑さ。
なんてことは旅先のノートパソコンで書くには荷が重いので気がむいたら、また。
ジェズイットを見習え |