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あるユーザーのシステム教育の現場に立ち会ったことがある。
で、当然のようにシステム部の人間が、これをこうやってこうやるとどうなるっていうような説明をして、集まった人間に教えるのだが、こいつ大したやつだな、と思ったのは、おそらく集まった人間の中に同期入社かなんだか、インフォーマルな関係を持つ人間が結構な数いて、その連中と休憩中とかに、インフォーマルに忌憚ないやり取りをしてたことだ。「で、この機能はすげー大変だったんだがどうよ?」「そりゃわかるけど、〜は確かに欲しかったんで嬉しいが〜はいまいち」「どうして?」「そりゃ〜な時は〜だろうが、〜な時は〜じゃん。で、〜な場合は……」「そういうことは先に教えろよな」「でもさ、やってみなきゃわかんないじゃん」「では、それは〜でいけそうだから、正規リリース時には変えておこう」とかいった具合。で、こっちの知識と比べて内容を咀嚼してみると、お互いにそのシステムの目的と利用価値はきちんとわかっているわけで、本来、そうあるべきだよな、と感じたのであった。つまり、ここでインフォーマルにやっている質疑応答と要求仕様の吸い上げは検討内容とそこで交わされている具体的検討のレベルから傍目にも重みがあった。
で、それと同時に、当然ながらフォーマルな質疑応答もやったり。で、そっちのエンドユーザー側からは当たり前な話しか出てこないし、システム側も当たり前な回答しか出てこない。フォーマルな発言権を持つ連中って上っ面しか見てないんですな。
インフォーマルセッションで出た要望を吸い上げるというのは外れれば危険な香りがぷんぷんしてくるのだが、結局はキーパーソンを抑えられるかがすべてで、たいてい、キーパーソンって忙しかったりするわけでフォーマルな場所には出てこなかったりするのが問題。また、全国組織だと地方にいるキーパーソンはなかなか発言の機会がなかったりするわけで、その意味で教育の場というのは幅広く人間を集められる機会だからそれを有効に利用するのはうまい方法だと思った。もちろん、完全に完成して絶対にこれ以上手をいれることは無いとなった時点でやったら後の祭りだろうが。
全体→部分という流れが本来のもののはずなのに、ある時点から部分→全体という逆転が起きることがある。それはシステムが成長したために、部分的に文化が生まれるからだ。しかし、文化の発生と成長の理由をわかっているまして形式化できる人間はそんなにはいないわけで、逆にそれを理解している人間を抑えておけば文化の再構築(部分を捨てて全体を再構築後)も可能だろうし、おそらくそのほうがきれいにやれるはずだ。
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