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プロジェクト杉田玄白の設立趣旨を読むと、青空文庫の中のどれよりもデカルトとかのほうが今のわれわれのベースになってるじゃんというような記述がある。
まあ、そうかも知れない。ろくに覚えてはいないけど、エラスムス、デカルト、ベーコン、それからパスカルやルソー、ボルテールあたりは確かに考えるためのツールとしてベースになっているとは思うからだ。
でも、それだけではないよな、と思う。
いかに辻潤や坂口安吾(高校の教科書に確か不良少年とキリストが出てたのだが、何度読み返したことだろう)あたりの大正から昭和にかけての文人の書いたものや(最近、このリストに織田作之助が加わったわけだ)、あるいは二葉亭四迷の書き方論(たとえば井戸のつるべにみたいな慣用句を織り交ぜることで言文を一致させることができるかという論考)や坪内逍遥の翻訳論あるいは翻訳そのもの(おいなう、おいなう、妹や)、其角の洒落っ気の下に隠された陰鬱な無常観、上田秋成のリズム感、御伽草子に描かれた融通無碍な世界観と批判精神と軽薄でファンキーな日本人像の数々、太平記に出てくる豪快な割り切りっぷり、あるいは梁上秘抄にみられる音韻重視と軽薄極まりない仏教観、さらにさかのぼれば……とえんえんと続く、この国の言葉と生き方に関する成果物から影響を受けていることか。つまるところこれらによって作られた世界観こそ、日本である。
猿蟹合戦に見られる馬のうんこの生き生きとした戦いっぷりや、わらしべ長者のラッキーっぷり、でも良い。
1500年以上ある歴史の中から生き残った文物に対する執着以外に何が必要だというのだろうか?
僕が愛する日本とはこれらを通して見られる世界であり、そして何より融通無碍に形や音を変えながら続く日本の言葉だ。
家じゃないよ、人だよ、重要なのは。家を愛するなんてごめんこうむる。それに家ははやりすたりに合わせていくらでも変わるもので、それは単なる方便に過ぎない。摂政関白政治と武家政治はまったく異なる(大体、あのころの西京の住人たちは、東に棲む野蛮人に占領統治されてるような感覚を持ってたみたいだし)。家は変われど人は生き残る。しっかり中の人を風雨から守ってくれればそれで良い。いや、滅び去ってもかまわない。しかし人は永遠である。古代ギリシャはとうの昔に存在しないが、ソフォクレスを味わうことはできる。
#大体、気候風土を考えれば、多少建て付けが悪くて隙間風が入る程度のほうがカビもはえずに住みやすい(まあ、まっくろくろすけとかがそこら中を跳ね回ることになるが、そのくらいで按配も良かろうというものだ)。それをサッシでがちがちに密閉するようになったせいで、そこら中にカビは生えてるし、シックハウス症候群なんてものにお目にかかるようになったと言えなくもない。そろそろ、竹と紙と木で作り直してもいいんじゃないか。引越しするときには折りたたんで持ち運べばいいし。焼夷弾が落ちてきたら燃えて崩れて灰になる。そこから復興できればそれも良し、滅びて消えればそれも良し。
それは言える。確かにそうだ。
誰かに教えるために青空文庫に……と思うと、どの一編として評価に値するような作品はないからだ。その中では長い分だけあれになるわけだ。
でもぼうふら全部やですぺら全部、あるいはその生涯すべてを眺めてああ、そういうものであるな、と。結局のところ、それは文人としては三流だということになる。個々の作品は評価しがたいからだ。でも端々にうかがえる眼の良さ、つまるところ眼高手低な人でもある。
人生インスタレーション。
僕は、インスタレーションを通して作品に入ったので、はっきりとは気づいていなかった。むしろ、青空文庫でばらして眺めてはじめて気づいた。なんか、どうしようもないなぁ、と。
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