著作一覧 |
子供と見に行く。クリスマスイブの最終回。がらがら。
子供とあとで話すと、2回泣いたらしい。シャーロットと別れるところ(それはそうだ)と、子供たちが次々と旅立つところ。ああ、そうなのか。
視点の移動の映画だ。それほどすごいわけではない。しかし2点の困難さがある。
まず、実写では(CGを使っていても実写映画と呼んで差し支えあるまい)蜘蛛はそれほど好かれてはいないということ。子供も蜘蛛が出てくる点ではひいていたそうだ(がらがらだったと言ったら妻がすかさずその点を指摘した。そういうものなのか――実はこの困難さにはまったく気付いていなかった)。すると、シャーロットの視点に自己を投影するのは難しかろう。しかし、それが見えなければなぜシャーロットがウィルバーに約束するのかはわからないはずだ。実際にはひいてはいたものの、見ている間にそれは感じていなかったように見える。したがって、シャーロットに対する嫌悪はありえない。(ネズミの極端な演技を利用することで、シャーロットに対するネガティブな観客の視点を分散させているのかも知れない。であれば、ネズミの過剰な演技は計算ずくだということだ。すごい話だ)
主人公が途中で変わる点も難しい。最初の主人公は間違いなくファーンだが、納屋が出てからは基本的な視点はウィルバーに変わる。しかし常にファーンは存在するので、母親の心配や、品評会での自分の手柄と言う箇所(それは正しいのだが)や、父親がファーンに彼女の行動がどれだけ自分にとって誇らしいことかと語りかける。彼女が子供から成長するきっかけになる観覧車は下から撮影する。ウィルバーの視点であり母親の視点でありファーンの視点ではない。すでにファーンは主役ではないことが強調される(観客の視点は主役の視点に基本的に一致する)。最初にファーンが学校にウィルバーを連れていくエピソードでは教師の視点と同級生の視点を入れている。教師の視点があるため母親はそれなりに安心でき、同級生の視点があるため、チケットを失くした後の展開が自然になる。
まったくの部外者であるカラスとカカシとネズミのエピソードがしつこく入る。カカシは見てくれだけだということが最後にわかる(この目玉はボタンだ)。カラスは一貫して部外者であり、単なる間抜けなにくまれ役を割り当てられている。それがシャーロットに対する嫌悪を納屋の中で分散させる役回りを割り当てられたネズミに対する嫌悪感を解消させるために利用する計算なのだろう。カラスが完全にしくじったあとになって初めて、最後の最後にネズミは本音を語る。それに対してウィルバーは心情を理解して申し入れるのか、それともプロトコルに単にしたがっただけなのか。むしろウィルバーの言葉をどう解釈するかに視点を誘導する。
多数のプロダクションがかかわっているため最初のクレジットが複雑でありそのまま市民ケーンのようにカメラが中にもぐりこむ(アラジンもそうだったが、こういったカメラの移動こそがアニメーションの強みに思える)、すでにして視点が多数に分離していることを示している。
アイコンタクトによって演出する。きわめて技法的でかつ完成されている。感動的でもある。マスターピースだ。
しかし、計算が巧妙過ぎる(子供が自然に楽しめるようにするために過剰に演出しているということでもある)のが後になってはなにつかないでもない。
(見ている間中、ずっとコッポラの映画みたいだと感じていたが、そのあたりに原因がありそうだ)
映画が始まる前に本屋で時間をつぶしてたら、子供が読めというので読んだ。説明し過ぎず、感傷的になり過ぎず、しかし複雑な感情を伝え読後に余韻を残す。つまりは優れた児童文学だ。こういう作家もいたのか、と思った(調べると教科書に採用されていたりするようだ)。
へー。こういう方向もあるんだなぁ、とおもしろがる。
#追記:そしてなぜか、今頃になって初めてIE7の左のほうにある田みたいなアイコンのタブをクリックしてみたり。あー、そういう方向というかそういう時代というか。
ジェズイットを見習え |