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って、実際全部1個しか売り上げてないよ、と思ったら2個売り上げたのがあった(3Qは、舞波一人勝ち、僅差でDI&AOP)。
その輝かしい1位は、
The Glenn Gould Edition - Chopin/Mendelssohn/Scriabin/Prokofiev(Chopin)
確かに、名盤だと思う。すごく緩慢なスクリアビンの5番のおどおどした胎児も良いが(って言うかプレスト コン アレグレッツァってどういう意味なんだろう。プレストのほうがアレグロより早いってことは、アレグロ風のプレストなんだと思うから少し遅めのプレストって意味かな? それを「遅めの」プレストと読み替えてすさまじい遅さで弾いているという感じだ)、3番の美しさときたら天国だ。でも、ショパンはほかの演奏を聴きなれてないのでなんとも言えない。というか、ショパンのソナタってピアノ協奏曲もそうだが、なんていうか、構成力が奔放ですね。
というわけで、スクリャービンにはダンスランギド(読み方知らん)という小品があるが、おどおどした胎児(SONATA No.5 Op.53(1907)——なにげに神秘和音100年記念になってるな)から、それを利用した第1主題相当の部分の柔らかさとか。
(しかしlilypondは難しいな。もっと簡単に文法チェックができる仕組みを考えないとだめだな。)
スクリャービン全集1 (世界音楽全集 ピアノ篇 新校訂版)(伊達 純)
おれが持ってるMCA PIANO LIBRARYのソナタ全集みたいにお得な楽譜はないのかな?
もし、midiの生成まで自動的にしてくれるんじゃなきゃ、誰がこんなかったるいことをするだろうか?
上のたかだか8小節を入力するのに、10回以上のコンパイルエラー(コンパイルには1分は余裕で必要だ)に出くわしたり、楽想記号をすっぽかしているのに気づいてパッチを当てたり。
でも、なぜコンパイルエラーをつぶすんだろうか?
それは、楽譜が見たいからだ。midiでこの音群を聞きたいからだ。
つまり、おれはフィードバックがほしい。
自分の(いや、これはスクリアビンの作品だが)作品を、モノにしたいからだ。そうでなければ、考えるだけでよい。「ここのdivの中には楽譜があるつもり。クリックすればmidiがダウンロードされてメディアプレイヤーを鳴らすつもり」
音楽は、ではなぜ音楽なんだろうか? 作曲家の頭の中にあるだけではそれは音楽ではない。ただの夢だ。
では楽譜は? まだ記憶媒体が、作曲家の頭から、紙へ変わっただけじゃないか?(LilyPondの場合は、謎テキスト—TeX—pngと変遷を遂げるが、謎テキストは音楽じゃなく、TeXソースも音楽じゃなく、もちろんpngも音楽ではない) つまりそれも夢だ。ただ、可視化されたという違いはある。
ここまで来て、ただの夢から、伝達可能な夢に変わる。もう一声(と変換ミスされた。本当は「一越え」だが、逆にうまい言い回しに驚く)。
そして声が出て、空気を振るわせる。この振動は音楽か? いや、媒体が波に変わっただけで、まだ夢の続きだ。
そして、それが鼓膜を震わせ、脳の中で、ほら、音楽だ。
でも、それってエネルギー保存の法則ってやつじゃね? 作曲家の頭の中の夢と同じじゃないか?
もちろん違う、ぜんぜん違う。エネルギー保存の法則とは異なる。なぜなら、その夢は聴いた人の数だけ増加するからだ。
うむ、波は波でもちょっと電波っぽい。
つまりは、情報というのは、伝えられて初めて完結する。
(伝達されたことを見届ける必要は、多分ないはず。無人島からボトルにメッセージを入れて流したって、ボイジャーを宇宙の果て目掛けて飛ばしたって、それは多分、情報になっている、と思う。でも本当だろうか? ボイジャーは宇宙人の届かなくても、地球の我々に情報を伝えている。すでにしてこの地上におけるメッセージは伝わっている。ボトルの中のメッセージはどうだろうか? 多分、それはボトルにメッセージを詰めて、海に流した、その時点で元の発信者にとっては十分に情報として、フィードバクがあったと言えるんじゃないだろうか。つまり、頭の中でボトルにメッセージを入れて流そう、と考えている状態とは異なる状態に変わったからだ。——情報とは、ある状態Aから別の状態Bへの遷移のトリガー/イベントである、と考えることができる)
だから、プログラマーはプログラムし、動かし、修正し、完成させる。TDDの正しさが直観的なのは、フィードバックのシステムがそこにあるからだ。音楽家は、紙に楽譜を書いたり、楽器を使って即興したり、口三味線したりする。脳の中の音を実際の音にしてそれを耳に戻して完結させる。
おれはそのフィードバックの過程がすごく重要だと思うが、そのフィードバックを生じさせるためには、「表現」にしなければならないということだ。単に夢を見るのではなく、モノ化すること。
だから、実際には、プログラムをテキストにするだけで、夢を越えた状態にはなる。それが実行され、結果がフィードバックされればより望ましい。
さて、では数学とは夢なのか? おれにはそう見える。だから数学は美しいんじゃないだろうか? (でも、それが応用され実世界の何かとして具現化されたときは、もっと美しいかも知れない)
たとえば上の2つのエントリーの中に最初に想定されている結論と、8合目あたりの結論めいたものと、最後の部分(メタな情報と本来の情報が区別されずに書かれているのであれだが、本来の情報は夢であって、メタな情報は当然可視化できるわけなのでなんだかわけがわからなくなっている)では、異なることが語られている。これは書くことにより、最初にあった情報がフィードバックされ、それによって状態が次の状態に遷移したと見ることもできる。
演説しているうちに、結論が最初に話し始めたときとは逆になることがある(というようなギャグがあるが)それがフィードバックでそのフィードバックストリーム内のデータが情報ということだ。
えーと、結局のところ、人間にとって手を使って何かするというのは相当重要だということとか、外部の媒体に出力することでそれなりに客観化できるためにフィードバックループが生じて、それによって多少は先へ進めるかも知れないとか、そんな感じらしい。
というか、デバッグするには、実際に動かしたほうが楽だな。
ジェズイットを見習え |
確かに数学は「夢度」は高いと思います。最近いろいろな場所で数学の美しさに言及されることが多くてそれは結構な事なんですが、美しさは数学の属性の1つに過ぎないことも確か。応用されて更に美しさが増すといえるかもしれないけど、応用されない分野の価値が相対的に劣ると考えられてもちょっと困るかも。じゃ唐突だけど椅子はどう?ハンス・ウェグナーは「椅子はそこに人が座って初めて完成する」と言っています。椅子はアートでも情報でもなく、人は椅子を解釈するわけではないけど。
マルセルデュシャンの美術論みたいですね。便器はトイレにあれば便器だけど、デュシャンと名前を書いて美術館に置けば芸術作品だ。もちろん、芸術作品は芸術作品という商品で、もうどうしようもないくらい下品なほど市場価値がありますよね。<br>つまりはコンテキストということだと思います。<br>数学の美はメタ情報としての美であり、しかも学としてその情報の取り扱い方がすでに確立されています。そのメタ情報を情報化することを「応用」と書きましたが、すでに学として成立している以上、応用されていなくてもその価値は明らかです。<br>だからこれは優劣の問題ではありません。<br>ただし、比率としては、メタ情報:情報で市場価値は右側のほうが大きいのはしょうがないんじゃないでしょうか。というのは、左のほうが拡散しやすい(というか拡散できなければ学じゃない)ので薄まってしまうというか。もし市場価値を等しくしてしまうと、逆に右側が成立できなくなるのではないかと。
あ、でも違うかも。コンサルト:システム構築 と書くと、市場価値は左のメタのほうが高いな。<br>というか、学問の重要性をきちんと訴えることが必要ですね。というか、ベーコンの学問の進歩が絶版なのはどうなのかと。
ウェグナーは椅子職人・デザイナーで、椅子のモノとしての性質をシンプルに述べているのです。デュシャンとは言ってる内容はむしろ対極にあるのだけど、一見似ているのが面白いな。
ああ、なるほど。そういう意味の引用でしたか。<br>僕が上のほうでぐちゃぐちゃ書いている「情報」は人間に与える状態の変化と規定されることになったので、椅子のメタじゃない情報は「腰掛けろ!」ってことです。つまりウェグナーの言う完成した状態こそが椅子の持つ情報である、と。で、メタ情報として美とか、デザイン性とか、素材感とか、環境とのマッチとかがあるんじゃないですかね。