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調子悪いな
さすがに、晩飯食いながら読むには難しい(書いてある内容を確認して先へ進まないとあっというまに置いてかれるというような意味)ので、全然、先へ進まない。かといって、きちんと解釈しながらいっきに読む時間を取るんだったら別に読む本がある。というわけで、結局、晩飯ながら本のまま、とりあえず最初の最初、予備的注意を読み終わった。っていうか、このペースだと読み終わるのに2年くらいかかりそうだ。
ある言明(主語+述語)を2つに分ける。1つは分析的判断、1つは綜合的判断。前者はアプリオリな矛盾律(Aかつ非Aということはない。あるAがB=Aは非Bではない)。綜合的判断は悟性に基づく(というか、こういう用語の文章を書くには、素の学習がしにくいIME2007はぶんなぐりたいほど役立たずだな!)ものつまり経験的判断と、数学的判断、そして形而上学的判断にわかれる。で、形而上学とは形而上学的判断を取り扱う学問である。と言明した瞬間から、この言明それ自体が分析的判断となる。したがって、形而上学について教えることはできない、ただ哲学することだけができるということなんだろうなぁというところまで読んだ。
現代の物理学のある領域みたいだ。かつ、コンピュータと知性という問題の領域も含まれている。現在のコンピュータはつまるところ分析的判断の塊であり、したがって、何かを付け加え、領域を広げることはできない。4+8=12の例だと、コンピュータが4+8に対して12を出してくるのは、これが分析的判断となっているからだ。それに対して、本来の状態では4+8から12を求めるのは綜合的判断のうちの数学的判断で、それぞれ独立した4という概念、8という概念、+という概念、12という概念が、4という概念と8という概念を+という概念を適用することで、初めて結合することができる=認識を広げることができる。と考えるらしい。12という名前ではなく(12という名前を知っているとあたかも分析的判断=矛盾律のように見える。だがそういう意味じゃないだろう)、○○○○という概念に、○○○○○○○○という概念を結合して○○○○○○○○○○○○という新たな概念が生まれたということ。(確認したら4+8じゃなくて5+7だったけど、どうでもいいや)
別に考えたこと。
分析的判断というのは、形式知のことだ。暗黙知を形式知にするということは、実は、暗黙知(これは綜合判断の集合だろう)で一番重要なのは、言明それ自身よりも、その知を獲得するにあたって、理性を使って広げた概念そのものと、概念の追加という格闘そのものではなかろうか。もし、そうならば、暗黙知を形式知に変えるうんぬんというのは、抜けがらを作るようなくだらない行為だな。でも、抜けがらを作れば、新たな体で気分良く空を飛べるし、抜けがらだとしても栄養は栄養で食えばうまい。したがって、くだる行為ではある。まさに形而下の学問にするこということだ。というようなことをとりとめもなく考えてみたりしてみたり。
#それにしても、読むのはおもしろく、しかも楽しくもあるが、なんかハイティーンくらいのころに読むほうがもっと良さそうな本だな。そういう意味じゃ、ふたつのスピカとか読んでるときと同じような感覚だ(後者は子供も読むから良いけれど、前者はおれしか読まないわけだが)。
ふたつのスピカ 12 (MFコミックス フラッパーシリーズ)(柳沼 行)
っていうか、12巻が出てるじゃん。
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