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essaさんの企画に合わせて、田壮壮のデビュー作だか、2作目だかについてあさましがてら書いてみようと思ったが、カタログにない。
このどちらかというとモダニストの映画作家(まったく理解できかねるが、シュールレアリストという肩書がつけられているときもある)は、最初、辺境映画からキャリアを積んだわけで、モンゴルだと思うどこかを舞台にした狩場の掟にしろ、チベットを舞台にした盗馬賊にしろ、言葉よりもシーンで物語を語る傾向が強い。辺境映画なので、言葉の喋らせ方が難しいからかも知れない。かくして、ここぞというところでは、言葉がない。
たとえば、盗馬賊の最後、だと思うのだが、連続して狩場の掟も見たので記憶がごっちゃになっているが、赤い風車が無数に回る(はずないな。卒塔婆が回る……はずもないけど、チベット仏教の何かのシンボルだと思うからやはり盗馬賊か、が回るのと合わせて夫婦が塔のまわりを這いずり回るシーンであるとか、あるいは青い凧で主人公の父親の運命が決まるシーン。党の命令で工場から一人、だれでもよいから反革命分子を供出する必要があって重苦しい幹部会議が開かれる。沈黙。お互い、お互いをうかがうだけで、何も言葉が出ない。主人公の父親が会議の雰囲気にいたたまれず、トイレのために退出し、実にほっとした顔で用を足し、そして部屋に近づくと歓談しているのが聞こえ、それで嬉しくなり、そして扉を開けた瞬間に全員の歓談(それは部屋を出るまではありえないことなのだが)がぴたりと止まり、全員の視線が彼に集まり、そしてなぜそれまでの雰囲気が変わったのかに気づいた父親が黒板に書かれた自分の名前を凝視し、しかし、党の指令を受けて会議が始まるまでは実に仲の良かった、今は後ろめたげに顔をそむけたり、困った顔をしていたり、無表情を作ったりしてる顔たちを眺め、そして、自分の愚かさを思い返し、まあしょうがないなと運命を受け入れるシーン(そのあとは子供が中心になるため、それなりに騒がしい映画となって、それほど大したものではなかったが)。春の惑いでは、旧家、田舎の三角関係と、使用人が、それぞれ言いたいことを言わないまま、日課のように崖のある場所へ散歩し、露地から門と母屋を行ったり来たりしながら、時間が過ぎていく。
盗馬賊はそういう作家の初期作品で、チベットが舞台である。
すべての映画はプロパガンダなのだから、もちろん盗馬賊もプロパガンダ映画である。したがって、あたりまえではあるが、代々僧侶の家系の人間が僧侶となる宗教国家というのは、僧侶ではない人間、つまり単なる信者にとっては、実に住み心地が悪いところであるな、ということがこれでもかこれでもかと主人公の不幸とともに描かれる。現世で善行を積めば、僧侶ではなくとも極楽に行けるという教えの宗教国家で、どのような現世がもたらされていたか、ということをいたたまれないほど教え込んでくれる。
ではプロパガンダだとして、現実に目を向けてみる。デモに参加しているのは、農民だろうか? 商人だろうか? 工員だろうか? 技術者だろうか? 誰が革命によって割を食って、誰がそれによって以前よりましな状態になったのだろうか。いつだって闘争が起きれば前衛となる学生たちの動きは?
占領か、解放か、同じことが寄って立つ位置によって変わる。ということだけはわかる。それ以上のことはわからない。
盗馬賊は解放前のチベットを描いた映画だ。
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