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桜ヶ丘にあったころのユーロスペースでも観たのだが、また行った。
次の特徴が妙に気に入っているからだ。
・動物園に通勤する動物たち
・動物園に勤務する動物という発想
・カエルの子供はカエル
・あこがれのピオネール
・鶏小屋は造れないが、公園の遊具は作れる
・コンプレッサ泥棒だが、成果でOK
・金をちょろまかすオレンジ商だが、いいやつ
少なくとも、子供用にこういう内容を含んだ作品を作って公開して、それが国民的な人気があったという事実から、ブレジネフ時代もそれほどはひどくはなかったのかも知れないなぁというか、生活実感のレベルでの不平不満については、それなりにOKという姿勢があったと考えられる。というか、以前も感じたが、音楽に対する感覚の違いを除くと、それほど彼我に違いはないというか(ウィットフォーゲルから見れば、ロシアも日本も同じアジア的独裁国家なのだろうし)。
今回、壁に貼ってあるPR文を眺めていて、へーと少しだけ目からウロコが落ちたと言うよりは先入見が増えてしまったことにオレンジがある。
いかさまオレンジ商(買い物客に軽いオレンジを与え、秤に乗せた瞬間に指で重みをかけて高い値段で売りつける)がいかさまオレンジ商なのは、オレンジはまっとうには入手できないからだ、という指摘(ちょっと違う)があって、なるほどと思ったからだ。
冷戦の真っ最中で、少なくともアメリカはソ連を経済封鎖していたわけで、その時代のオレンジの輸出国というのはこれはアメリカなので、南方に植民地を持たないソ連の人にとって、オレンジというのはあこがれの南国の夢の食べ物だったから、オレンジ商が道路に店を出すと、それだけで祝祭的様相を示すという(書いてみると、あまりにヨタっぽいが、日本に置き換えて、戦後〜昭和30年代初期のバナナで考えると、確かに、そういうことはありそうだ。バナナが日本の街角にもたらした祝祭的様相って、寅さんが最後に伝えていたが、遠い過去の話だな)、その箱の中に大事に包まれてやって来たチェブラーシカというのは、また祝祭的性格を帯びるとかなんとか、何が書いてあったかそのあたりは覚えてない。
併映は、ロマン・カチャーノフのママ。
眠っている子供を置いて朝の買い物に行った母親が、行列が進まないカフカ商店の列に並びながら、子供が強盗の置き土産の銃をもてあそんだり、カミソリの舞を舞ったり(シャブロルの奥さん)、小鳥に呼ばれて窓から外へ飛び出したりする、恐怖の妄想に襲われるという、ポランスキーの映画のような悪夢と恐怖に充ち満ちた作品。
最終的に彼女は危機一髪の状況で家に帰り着くのだが(子供が無事でほっとした瞬間に窓から小鳥が呼び出しをかけて子供が目を開く)、スリルとサスペンスと親の気持ちを示しながら、なんとなく子供は別の見方で楽しめるだろうなぁ、というすごい作品で、これもユーロスペースで観たはずだがまったく忘れていた。
音楽が、シャバダバダバダ系の60年代のヨーロッパ映画ならではで、チェブラーシカの作家と比較すると遙かにモダンで、作家性も強い。強いから、カチャーノフという名前が出ているのだろうが。
正直なところ、ママではなく、ミトンを見たかったのだが、ミトンは先週までだったので、ちょっと残念である。DVDで出ているのだから買えば良いのだが。
と、書いてから、ではチェブラーシカの作家は誰だと調べたら、
同じ人なのか。ちょっとびっくり。
でもないかな? チェブラーシカは4本やったのだが、そのうち特に2本目、ゲーナが送った電報をチェブラーシカが読んでない(そのため、空港に迎えに来ない)のにゲーナが怒ろうとすると、足下のゲーナのパズルに気づき、チェブラーシカが自分のことを本当に好きなんだなと悟るシーンとか、あるいは、チェブラーシカがまったくゲーナの怒りに気づかずに、無邪気に「電報だよ」「ゲーナが来たら読んでもらおうと思ってたの」と答えるシーン、そこから畳み込むように今日は8/31だから明日は9/1で新学期、学校へ行こうと話が進んだり、そこで怪しいばあさんが、一緒に自分も学校へ通うことを妄想する(どれだけ不幸な人生を送ってきたことやら)とか、事務的な制服屋の店員とか(商店は理不尽な場であるという共通認識。もっとも、それがソ連だというイメージはあるのだが、本国の人間がそういう作品を本国の人のために作ってるわけだし)、言われてみれば同じ作家の作品っぽくはある(2作目は)。時期的なものとか原作の強さとかいろいろな要素があるのだろうけど、そうか、同じ作家だったのか。
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