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相変わらずゆっくりとみんながやって来るを読んでいるのだが、Wikipediaの章になって、いろいろ考えるものがあった。
asphaltの項の成立を例にしているのだが、最初にどうでも良さそうなスタブを置くことがどう意味を持つのかがあり、それがどう発展したのかをヒストリを元に解釈する。
ブレヒトの「言い出したるは我にして、」を思わず想起する。誰も言い出さなければその後はないとか。
で、たくさん(実際には数値が出ているが)の人の手を経ているけど、その人数に着目しても実は真実は見えない。というのは、実際にほとんどの記述は2人の手によって為されている。この現象は同じようないわゆる「集合知」の世界では普遍的に見られる。Flickrのマーメイドも圧倒的な1人とその1人の半分を提供している2番目(5番目までが同傾向)、平均は全然下で、1枚のみを提供しているmode(どういう意味かわからん。真似っこ野郎というような意味かなぁ:追記 最頻値)がたくさん続く。このグラフ構造が、集合知と呼ばれるものの実態である、と来る。
おもしろい。
世界が100人の村で2人だけが主に働き、残り98人がその成果を貪るとしたら、おそらく2人は嫌になってしまい、結局、世界は成立しないように思う。狭い世界である。
しかし世界が1000万人の街で20万人が主に働き、残り980万人がその成果を貪る(でも気休め的にちょっとは手を気まぐれに動かす――ノイズとなるかも知れないが)としたら……なんか妙に現実世界そのままのような気がしてくる。GDPってそういうものじゃないか?
消費者は消費するが、供給者は供給する。
であれば、それを現実としたらどうだろうか。
そういう富の分配というのは既に考えている人たちがいたような。
マルクスや韓非子は、原始共産制が成立しえた理由を社会を構成する人員の少なさに置いた。
そうではなく、社会を構成する人員が巨大であれば多様性の原則により2%くらいの働き者が存在し得るかも知れない。さらに30%は、時たま働き、残りは消費する。
(機械を利用して)生産性を高めるということの最終的な目標は100%がフル稼働しなくても、2%が100%以上の供給を可能とすることだ。と、設定するといろいろ整合性が取れる。
Here Comes Everybody: The Power of Organizing Without Organizations(Shirky, Clay)
Wikipediaの歴史の箇所は江渡さんの本で理解していたので読みやすかった。にしても、objectionという単語が目的を意味するobjectから生まれているようなのに、異議とか反対という意味だとわかるまでは実に奇妙な読み取りをしていたのであった。なんでNupediaのメンバーがサンガーに強硬な目的(動機づけ?)を与えたのだろうか、とか(もちろん、猛反対したということであった)。
ジェズイットを見習え |
> mode<br>モード(最頻値)じゃないでしょうか。<br>1枚のみを提供している人が一番多い、という。
おお、モードにはそういう意味があるんですね。<br>どうもありがとうございます。すごく納得です(実際、グラフ上1番多い)。