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大学生の頃、当時使っていたビクターのSX-3IIに付属していたケーブルがついに断線して、しょうがないからDACで適当なやつを買ってきたら、どえらく音が悪くなって仰天したことがある。
多分、元のはストレートだったのに対して、より線に変わったため抵抗が大きくなり(音が痩せた!)、元の音量を得ようとヴォリュームを上げるとノイズが混じり(音が悪くなった!)というようなことが原因だろう。いずれにしても、えらく音が貧弱になったのであった。
というわけで、ケーブル変える話をカーゴカルト扱いしているのを見掛けると、実証精神に欠けた愚か者というバイアスがかかるのだった。
ジェズイットを見習え |
お久しぶりです。「自分で試しもせずに風評だけをもとにものの善し悪しを決めつける輩」を指してのお話だと思いますし、その点については全く同意なのですが、<br>その辺りの界隈において「カーゴカルト」扱いされているのは<br>メーター辺り50万円のケーブルを100万円に変えて云々、といった、インピーダンス整合等の初歩的な信号劣化要因は除去された上での環境において、<br>「音が変わった」と主張される割には二重盲検法を通過しないものであったり(評価の厳密性の疑義)<br>極太のケーブルが接続されているアンプのソケットは細い銅線で繋がれていたり(ボトルネックの誤認による改善箇所の誤り)<br>ケーブルやその他機器を選定する理論が頓珍漢であったり(原理の無理解による手法の誤り)<br>といった点が見られることについてであって、かような扱いをする人々がありとあらゆる「ケーブルを変えると音が変わる」ケースを否定しているものではないと思います。<br>(もちろん、artonさまが想定される「ケーブルで音が変わる」と「カーゴカルト」が直結していてむしろ自分自身が「カーゴカルト」と化しているような輩もいるのでしょうが、多数ではないでしょう。)<br><br>つまり例示が微妙なために本旨が伝わり難くなっているのではないか、などと。
これだけではなんですので、「カーゴカルト」とみなされそうな例をご紹介しておきます。<br>http://www.procable.jp/setting/index.html<br>( http://www.procable.jp/setting/19.html 辺りから見るとわかりやすいかもしれません)<br>こういったケースですと、発信者の方も凄いのですが、受け手の方々も「物凄い」訳です。<br><br>今回artonさまがあげておられるケースは、上のようなものとは異なるものである事は明確であるわけですが、<br>それぞれのサイドの、それこそ「よく見もしないで決めつける」類の輩に「上の人々の同類」あるいは「我々のお仲間」と認定されても面白くないのでは、<br>と要らぬ心配をしてしまった次第です。
お久しぶりです。<br>実は人間の耳たぶの形ごとに聴こえるものが違うとか、その時の気分で感覚が変わるということや、満足感には尺度がないとか、合わせて考えれば、100万円払えば50万円では舞い降りることはあり得ない天使じゃなかった飛行機がやって来ることはあり得るでしょうね。<br>つまりカーゴカルトの例として音の世界のケーブルを引き合いに出すことが最初から筋が悪すぎだと思います。<br>というか、なんで金持ちの他愛ない道楽にケチつけるんだろうか? そこがおれには興味深い。
たびたびすみません。<br>>カーゴカルトの例として<br>どちらかというとカーゴカルトという単語自体に含意があって一般の錯誤には使い難い表現だと思います。<br>あえて別の呼び方をするなら「偽陽性の誤謬」などになるでしょうか?<br><br>>なんで金持ちの他愛ない道楽にケチつけるんだろうか? <br>多分、道楽している方(つまり買う側)にはケチを付けて無いのだと思います。<br>買った側がその結果をどう受け取ろうと買ったものの買った側の勝手である上に、買った側ですら不満となるような結果となったとしても、<br>その種の人々の世界では「道楽でつかまされた」などというのはむしろ話のネタや武勇伝の類なわけで。<br><br>つまり正論なり社会正義なりを盾に内心の嫉妬の感情を晴らそうとするような野卑な心性の人々がいたとして、的にかけたところで傷を負いえないような方々を相手にするか?というと疑問ですよね、という。<br><br>むしろ売りつける方(と、評価する方)が悪意の有無はともかくとして、誤謬をばらまいている点について、<br>野卑なうっぷんを晴らすという意味でも社会正義(笑)という観点でもターゲットにされうるし、実際されているのではないかと。<br><br>ホメオパシーに例えるならば、大枚はたいて飴玉を買い求めるのは買い手の勝手だし、<br>売る側がどんな値付けをしようと買い手が納得しているなら他人が口を挟むことでもない。<br>しかしながら、飴玉の販促にあたって「飴玉で病が治る」であるとか「水に記憶がある」といった話を喧伝されると迷惑である、といった論法でしょうか。<br>(正確には、所詮道楽でしかないオーディオと異なり、ホメオパシーの場合は科学的治療を受けられない被害者が発生し得るゆえに、買った側も叩かれるケースがありますが。)
正論でも社会正義でもないと思うわけですよ。だって、(ペリーのプレゼンじゃないけど)間違いなくWin-Winの関係を築いていているわけだから。にも関わらず、おそらく資本主義社会で暮らしていて、それなりに消費生活を営んでいると思える立場の人間がケチをつけているのが実に興味深い。価格によって許容範囲が変わるのかな、と想像したりするわけですが。<br>という道楽の問題に対して、健康の問題を引き合いに出すのは変だと思いますが、そこはわかってらっしゃるところがおもしろい。