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目黒雅叙園の百段階段ツアーに行ってみる。
目黒雅叙園は、デブサミとかで行くと、わーなんて趣味が悪いんだ! という妙な居心地の悪さを感じる場所だが、最初から趣味が悪いわけではなく、ある時点まではまるで天国のようなものだったものが、時代の変化によって趣味の悪さに変わり、さらに時間が流れて独特の様式美を獲得したものでもある。
そのルーツを知るには、百段階段ツアーはもってこいではある。
実際のところは、たまたまコスモポリタンの仕手戦がらみの情報を追っていて、直接は関係ないが舞台が近いところで雅叙園を調べていて、そこに百段階段と呼ばれる昭和十年代の傑作建築+内装があるという情報に突き当たって興味をそそられていたというのがある。そこにたまたま妻が何かで調べて百段階段ツアーの存在を言い出して、そこで行ってみようと話がまとまったのであった。
百段階段は、現在の雅叙園のビルの左手、傾斜部にその傾斜にそって奥へ向かって続く階段で、その向かって左手に絢爛たる5つの部屋(上2つは仕切って利用できる。また地図には頂上の間というのが書かれているがこれは別格らしい)が並んだ建物だ。現在のビルでは正面入り口入ってすぐ左手のエレベータ(内装は螺鈿の唐獅子牡丹だが、これは平成の作らしい)で2階まで上って降りたところから始まる。
ツアーの案内人は、眼鏡をかけた老人である。
同じツアーには、中年女性のカップル2組と、老夫婦らしき二人連れが参加していた。
(百段階段を見学して内装の参考にしたとのことだが、確かにそうなのだろう)
福井の生まれの細川力蔵、東京に出てきて風呂屋に丁稚奉公して、ついには自分の浴場を持つに至る。そこで何か思うところがある。
庶民が楽しめる料亭というものを考えてみよう。田舎に作れば安くつくし、周囲に森もあれば山も川もある。日がな楽しめるに違いない。と、まるで現代のうかい鳥山のような発想のもと、細川力蔵は思いつき、コンドルが設計した(忘れた)の別荘を買い取り作ったのが雅叙園。もちろん昭和初年の目黒というのは、現在の八王子市のような場所である。
庶民とくれば、値段も知らなければ料理の種類も知らないに違いない。お任せとかが通用するとも思えない。とさらに考えて、メニューという仕組みを考案。さらに回転テーブルも考案して大皿をどーんと提供してもOKな体勢ではじめたところ大評判。
しかし、根が風呂屋だし、客が野山を楽しんだ後では汗もかいているし手足も汚れていてこれでは落ち着いて飯にはできぬ、それではでっかな浴場を用意しようと豪華絢爛たるラヂウム温泉百人風呂をこしらえた。かくして、健康ランドという業態の創始者ともなった。
さらによくよく客を見ていると、なぜか金襴緞子の花嫁を中心によたよた橋を超えてやってくる集団の姿がちらほら見える。あれはなんだ? 近くの大鳥神社で結婚式を挙げた集団が、その後にみんなで食事をしようとやってくることに気づいた。
あれでは大変であろうなぁ。という考えの裏でソロバンがピピピピと弾かれ、出雲から7柱の神様を呼んで(最初は1柱だろうが評判が評判を呼び、最終的に7柱となった)神社を作り、結婚式と宴会を同じ敷地でできるようにした。と、今度は総合ブライダルセンターの創始者となる。最盛期には1日270組余りの縁組をしたというのだからすさまじい。
さて、大もうけをしたところでふと考える。大金持ちの使命とは、残すべきものを残し掬うべきものを掬うことである。
そこで、伊豆の大棟梁とたくさんの職人を呼び寄せ、螺鈿、七宝などの装飾を随所に散りばめた和風建築の集大成と成し、若い芸術家を結集し一つの部屋に一人の画家、自ら興の赴くままに画を描かせ(なんかへうげものの世界のようだ)、世に問うたのが百段階段。欅の段を99個並べ、百は王を意味し、それは不遜であるから99として最後の一段はお客様が御自分で架け給へ、古来多数あることを九十九と称するのであるからここには実際に九十九段を用意して多数の段となし、云々と絢爛豪華たる昭和の竜宮城を目黒の地に建てたのであった。
昭和二十年料亭廃止令により海軍横須賀病院目黒分院として接収されて、途中なんどか爆撃を受けたものの、そこにいるのは病や怪我に倒れたとは言え海軍のつわものども、火を消して周り、残念なことに百人浴室は失ったものの、ほとんどは無事残ったまま敗戦を迎える。
その後、目黒川拡幅工事でコンドル由来の建物は取り壊しなどいろいろあったけれど、百段階段だけはそのまま残り、現在も絢爛たる姿を留めているのであった。
枯淡の人かな。天井の花鳥画は墨絵を基調として淡く色を付けたという風情。精緻を極めた螺鈿。
障子の(名前忘れた)が正面からは非常に薄いのだが、深さがあるため、遠くのは非常に太く見えるため、不思議な奥行きを壁面(といっても障子だから向こうの光で明るい)に形作る。これはすげぇや。
床柱はごつごつした立派なもの。
2つの床柱に浮き彫りというか一刀彫というかで極彩色に塗りたてた、左に浦島太郎、右に養老の滝、方や一気に年をとり、方や一気に若返るの、対称を配し、中央に美人画、欄間に正月と菖蒲の節句(若者-正月-老人、左右が菖蒲で橋でつながるだと記憶しているが怪しい)、桃の節句、七夕、重陽節と配し、金色に輝く、とんでもない部屋。窓は(名前忘れた)上のほうが雲みたいで下に向かって末広がりになっているくりぬき。
―ja.wikipedia(これは養老の滝の床柱と西の桃の節句の一部だな)
一番気に入った。後で聞いたら子供もこれが一番好きなようだ。
下の2部屋と異なり、天井の蒔絵(だと思う)と七宝がこの部屋からはなくなっていたような気がする。
欄間には群馬の景色を配しているというのだが、西へ向かって遠景、東は近景というよりも接写で雲のたなびきはそれぞれつながっているが、同じ光景(妙義山だったかな)が2回とかそれぞれの画は独立している、これは前衛的。草丘20代(30代のような気がしてきた。天井の花鳥画は躍動的)の作。
おれは、この部屋好きだなぁ。西の窓を開けるとかっては富士山を一望とかだが、今は雅叙園のビルが見える。でも手前には漁礁の瓦屋根が見える不思議な光景。
この部屋一番の見所は、庇の下の(忘れた。横木)が実は見事な一本ということ。
床柱は槐とブラジルだったような気がするが、それは別の部屋かも(内容が盛りだくさんで覚えきれないなぁ)。ブラジルは、ブラジルから綿花を運んでくるときに、船が横風にあおられないように船底に積む固くて重いので利用されている大木の幹。日本に着くと捨てられるだけ(国内林業保護の意味もあったらしい)なので細川力蔵がもったいないからおれが使うと持ち込んだとか。
む、わからない。
誰もが親しめるモティーフの画ということで、食べ物を主役にこおろぎや蟷螂を配しているのが特徴で、お見合いすると破れないというので評判となった部屋だったような気がする。けど、お見合いは次の静水の間かも。
確か、床柱が固くてとんでもないやつを利用しているのに、見事に横木と組み合わせているのが素晴らしいと解説の人がほめていたのがこの部屋だったような気がする。
ここも2つに分かれていたような。まずは、杉(だったと思う)を薄く削った板で作った網代格子で天井を葺き、その上に画を描いた板を張り合わせて作った部屋。ここも障子の模様がすばらしかった。
次の部屋は目黒づくしなのだが、お不動や太鼓橋(今は太鼓橋ではないが目黒川にかかっていて、その昔、大鳥神社から花嫁が上ってきたあれだ)とかは良いが、さっぱりわからない画もある。
なぜか曽我兄弟? これは曽我兄弟の絵というよりは、曽我兄弟に扮した団十郎の絵なのですな。当時団十郎は目黒に住んでいたと、そういうわけです。
では、なぜ白井権八? これも団十郎かというとさにあらず。どうみても白面の優男であって役者画ではない。なぜか脇に菖蒲が描かれている。わからん、いやヘンリーが本を調べている。「この菖蒲は小紫という種類のようですね。白井権八の脇に小紫ということは、まさに目黒の比翼塚のことかと存じます。」
と、いくら教養人のおれでも解説がなければまったくわからぬ目黒尽くし。あーおもしろかった。
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