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恵比寿ガーデンシネマに、デプレシャンのクリスマスストーリーを観に行く。ストーリーといってもリストワールではなくルコントのほう。現存している映画作家の中でおれにとって1番か2番目かに好きな作家なだけに、映画館で観られるというだけでうれしくてたまらず、11時開場なのについ、9時30分に恵比寿に着いてしまってうんざりして10時までは地下のバーガーキングで時間を潰す。でも10時20分頃の開館時間にはすでに長蛇の列となっていたので、9時30分に着いてもそれほどはまずくはなかったようだ。
最初、墓地で蛙系のおっさんが長男の死の悲しみを乗り越えて、おれは新たな生を受ける、というような言葉を参列者に投げているところで始まる。そして影絵で長男が6歳で白血病になり、両親も長女も骨髄移植は適合せず、次男を妊娠したが羊水検査でやはり適合せず(期待はずれの次男というような言い回しが出てきて、なんじゃそりゃとこの時点で思う)、結局長男は死んでしまい、そこに3男、4男が生まれて、弟の面倒は長女が一手に引き受けた、ということが語られる。この家族構成に関する語りが、実は一方的なものであり、にもかかわらずお話の枠組みであることが示される。
というわけで、すべての不幸を背負った次男が、そして僕は恋をするで主人公をやっていた役者によっていい加減に演じられる。
最初、話は一貫性なくそれぞれの人物を適当に描いて進む。
母親はお茶を入れていて歩きだして、そしてお盆を取り落す。蛙親父がやってくる。
彼女は白血病であと3年くらいで死ぬか、骨髄移植をするかということになり、では誰がドナーになるかということで、各家族が順に出てくる。
というような細かい物語はそれぞれ伏線が張りまくられていて緊張感とちょっとした謎解きと(語りのいい加減さによって観客置いてきぼりで話も進むことも一因)がからみあって、おお、このおもしろさがデプレシャン、としびれまくる。
この作家のおもしろさは、うまく説明できない。信号まで目をつむってふらふら次男がやってきて、立ち止まって、そのまま顔から車道に倒れ込むところとか、フィールズ賞を受賞したという長女の夫がいきなり次男をぼこぼこに殴る蹴るしていきなり家を飛び出して行ったり、親父がいきなり「ああ、あの子がなんで白血病になったか、やっとわかった。妻の遺伝だたったのか」とか言ってみたり、というか、黒板いっぱいに親父が妻の生存率を計算した式を見て、長女の夫が、その間違いを指摘して次々と式を書きながら講義をしていくとか(もっともらしいがでたらめっぽい)、異常な音楽一家と3男の妻に言わせて(でも、実際には親父は染色工場経営だし、次男は詐欺師のようなオークション師のような、3男はなんだかわからないし、4男は画家、長女は劇作家)、そこでつじつま合わせの必要が生じたもので、父親にチャールズミンガスの楽譜を読まさせたり、3男の息子たちによるクリスマス劇(親父は楽師で登場)では山羊だったり、細かな言葉のやり取りと、どこまで計算しているのかわからない適当な映像のつなぎ合わせと(意外なほどアップが多い)、おかしな間の取り方とが組み合わさって、あっというまに2時間半くらいが経過して、何とも言えぬもやもやが残ったまま映画は終わる。あーおもしろかった。映画を観る楽しさそのものであるなぁ。
だいたい、血の繋がりがテーマのふりをしているが、親も兄弟も誰一人として似てない(というかいつものデプレシャン映画の人達だし)し、ユダヤ教の話が出てきたのでダビデの星のネックレスさせたり、役者のアドリブとそのフィードバックが映画の推進力だといわんばかりに見える(これを緻密な計算のもとに脚本を組み立てているとしたら間抜け過ぎる)。つまるところこの行き当たりばったり具合こそ人生だし、映画ってのは結局は人生なんだから、おもしろくて当然だ。
長女は相変わらず次男を目の敵にしているし、3男と4男と3男の妻の関係は複雑度を増し、長女の息子はさてどうなるのだろうか(次男の一番の理解者のようになっているが)、あるいはバルトルディみたいな名前の3何の息子たちとか。
途中で、真夏の夜の夢の映画と、音楽。映画は他に多分パリの恋人(アステアとオードリーヘップバーンだと思う)、映画館にかかっていたのはなんだったか忘れた、とか。
それにしても、真夏の夜の夢はすばらしい曲だ。これを16歳くらいの時にちゃちゃちゃと書いてしまったというのは、驚くべきことだ。
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