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映画は特殊な表現作品で、書籍と異なり論理の組み立ては難しく、絵画と異なり時間の流れを持つため直観へ訴えることは難しく、純粋音楽と異なり抽象的な空間を表現することもできない。
そのため、受け手側の記憶による連想を利用して語られる物語に対して表現の上積みができるかが重要となる。
結果として、優れた映画作品は過去の映画のパターンを踏襲し、引用し、他の表現作品を援用する。(「映画的」という言葉が映画に対して褒め言葉となるのは、それが理由だ)。つまり、優れた映画は常に映画を含んだ映画として構成され、それは結果としてメタシネマとなる。あんなに愛し合ったのにや、ニューシネマパラダイスやニッケルオデオンが、実際にはそれほど優れた作品というわけでもないのに、にも関わらず実に秀でた作品となるのは、作品の仕掛けが他の映画を否応なく内包するからだ。
ということを前提として、愛と誠を観ると、なんと微妙な作品なことか。
舞台は1970年代ということが語られるが、作家の記憶から外れているためか、奇妙にねじまがって再構成され、しかも部分的に挟まるミュージカルが少しもミュージカルではなく、後半、バイオレンス映画に様変わりしてから急にいきいきとしてきて、クライマックスのACBくさいクラブから屋上の決闘までは息もつかせぬおもしろさとなる。特に、高原が投げた手裏剣が誠に降り注ぐ瞬間に愛が両手を広げてハリネズミになる一連のシーケンスは抜群だ。
最初は子供の画から始まり、ながやす巧をもっと子供向けアニメに変えたようなゲレンデのシーンがアニメで流れる。
新左翼文字の立て看文字で装飾された奇妙な街でたった一人の誠に対して向うから不良軍団がやって来て(この一群の人間が行進してやってくるとことろは、ウェストサイドストーリーやさかのぼることミッキールーニーが子役の頃のネイバーフッドものまでの映画っぽさがあり、見ているだけで楽しいのだが、作家自身が奇妙さを楽しみ過ぎているのか、あまりにもしつこく繰り返されるのでうんざりしてくる)乱闘が始まる。それを店の中から見つめる愛。止めに入る。
警官が乱入して来て町が炎上する。そこに巨大な目が現れることで、そこが西口で、新宿騒乱の再構成であることに気づく。しかし、気づいても何にもないところが空虚で、その空虚さが全体の基調となる。
(西口の騒擾というとどうしても忘れられないのは共犯幻想だが、この題が吉本の援用だということすら過去のエピソードだ)
かくして、舞台は青葉台学園に移動する。ポケットから手を出すエピソードは記憶にある。傷も含め、原作を利用している。
特定のキーワードに反応する人々の物語でもある。月光仮面がスイッチの誠、メガネがスイッチ(ただしギャグ)の岩清水(「メガネは顔の一部です」)、悲しい女がスィッチの高原、おっさん(いや、これは原作とは違うと思うが、本当におっさんを使うばかばかしさは嫌いではない)がスィッチの権太(ゴンタを、ケンタと読み替えて、オオカミ少年ケンの主題歌で登場するが、高原に説明させるところではちゃんとゴンタと読んでいる)。(ポケットからの手のエピソード同様、ガム子を干し柿だか吊るし柿だかするのも記憶にあった。そういえば、一瞬、誠が鑑別所へ入れられるのだが、そこで入所者たちが雑巾を絞りながら大群で迫ってくるのは、同じ原作者の明日のジョーのエピソードの奇妙な引用だろう。そういった奇妙な引用はすさまじく多く、たぶん、全体の1/3程度くらいしかわからなかったと思うが、この作品が過去の作品の誤読による再構成(唐十郎方式)という手法で作られたのだろうと推測できるし、唐十郎方式という点からして1970年代っぽさであり、また唐十郎は花園神社での伝説的な紅テント公演だったり、西口(ただし地下広場ではなく公園)公演だったりすることから、引用の一部として組み込まれていると見て良いだろう)
予告編がミュージカル以外の何物でもないのでミュージカルだと思い込んでみていると、そういった事情でこれっぽっちもミュージカルではなく最初は驚いた。歌の最初の部分では口パクをするのに、そのあとは歌う様子すらなかったり口をぱくぱくさせる様子さえなくなるからだ。が、ガム子がふつうの女の子に戻る(が、歌はキャンディーズではない)歌ではちゃんとミュージカルになっていて、どういう演出かわからなくなる(が、おそらく、何も考えてなくて、こうすればおもしろいだろうとその場その場を決めているのだろう)。
ただ、作家の映画手法そのものは実に確かで、たとえば花園実業に転校したことを示す一連のシーケンス、あるいは廊下の向うからスケ番軍団が近づいてきてカメラは引きながらそれを映し、軍団が右手の教室に入り、しかしカメラはあいかわらず廊下を引くと、壁が崩れているため、教室の中を進む軍団を捕えるといった、空間移動を映画として実にきれいに切り取ったシーンは感動的だ。
突然、花園実業が新宿にあることがわかり、そのため花園というのが神社の名前で、すると学校の位置がおのずと決まり、そこがどういう場所か明示される(というのは、マンガを読んでいた小学生のころにはわからなかったので、ちょっとした発見だった)。そうそう、ソープは1970年代にはトルコだったのだな。
そういった背景の小物で、おおと思ったのは、酔っ払って道路にしゃがみこんでいるのを困ってみている子供の誠(1960年代ということになるだろう)のシーンで、住み込み女中の時給が90円と書いてあることで、すぐにそこまで安くはないだろうと思ったのだが、調べると実際にそんなもので、すると1960年代から1980年代で所得は倍増どころか10倍増(もちろん物価も上昇しているのだが、それと同時に物品は多様化するので、相対的に変化しないわけではなく、結局は10倍豊かになったと言えるので、そこから1990年代から2010年代に何も変わらないというのが、いかに恐ろしいことかと実感したりした)したという恐ろしさ。何が恐ろしいかというと、誠の家のように、その成長から取り残された場合の没落っぷりだ。(子供の頃(1960年代末)、ソーダアイスは10円しなかった。今、ガリガリ君ソーダ味はだいたい100円だ。同様に、1960年代末に時給が90円が同じ割合で上昇したとすると10倍で900円。田舎町の女中の時給とマックの最低の時給が同じ労働価値とすれば、時給90円は間違いではない。びっくりだよ)
特筆すべきは、主役の妻夫木聡で、このばかげた役を実にまじめに余裕たっぷりに説得力ありありで演じていることで、これは本当の役者だ。あまり映画を観て役者に感心することはないのだが、妻夫木聡には惚れた。
愛と誠 コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD](妻夫木聡)
(前半は最初興味しんしん星4つ、1/3観た時点でうんざり星2つ、花園実業に転校してから星4つに戻り、権太登場以降星5つで突っ走るという感じかな。とはいえ最後の最後、母親を許す(というか、脚本的には岩清水が愛の愛を評して母親の愛といったことからの怒涛の流れなのだろうけど)件以降はどうでも良くなって星3つで終わる)
こういう中途半端なミュージカルを見ると、黒沢清の(同じく中途半端なミュージカルの)ドレミファ娘の血は騒ぐは見ている最中は相当退屈したにも関わらず、実は傑作だったのだなとか、
鈴木清順っておもしろい映画を作れる稀有な人なのだなとか
オペレッタ狸御殿 プレミアム・エディション [DVD](チャン・ツィイー)
(本物のミュージカル)
いろいろ他の映画の記憶が蘇り、結果的にメタシネマとなるのであった。
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