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タモリ倶楽部見てたら、横須賀という谷戸の町がおもしろそうだったので、日曜日に出かけてみた。
タモリ倶楽部では、妙に細い道の中にある隧道をくぐりまくっていたけど、そこまでする気はないので、観音崎灯台にあるお台場を作るために寛永2年に手掘りした隧道ってのを取りあえず観ることにして、観音崎に向かったのだった。
ところが、どの駐車場も混んでいる。で、しばらく回りを何週かして(その間にも2つ3つ隧道をくぐる)、結局博物館の前の駐車場で15分くらい待っていたら入れた。
で、そこのイタリアンレストランがなかなか美味で驚いた(というのは、しょせん博物館/ビジターセンターの添え物のいい加減なお役所仕事だろうなとか想像していたからだが)。その日の地魚を使った定食は、いとよりのグリルマスタードソース掛け、ムール貝のパン粉揚げ、ラタトゥーユを添えた忘れたのグリル、バルサミコ酢掛け。随分凝っている。
というのは、どうでも良くて、観音崎灯台が思いのほかおもしろかった。というのは知らないことがたくさん。
まず、おれは浦賀と下田をごっちゃにしていたことがわかった。妻が浦和と浦賀をごっちゃにしているのをからかった後だけに、まったく無知の大口くらい愚かなことはないと反省。
次に、ペリーの要求に灯台の設置があったこと(それまで、日本には灯台がなかったらしいが、廻船問屋とか良く事故らないものだな)で、それを幕府が了承し、しかし幕府が消滅したので明治政府が履行したというのもおもしろい。
ここでフランス人の技術者(ヴェルニー)が灯台を作るのに大活躍。ヴェルニーは横須賀の製鉄所の所長も勤めた男で、観音崎灯台もその男の作品(土木工事だから一人で作ったわけではもちろんないにしても)で、他にもいくつも灯台を建てている。その男の引退後はイギリス人が大活躍。まったく明治時代のお雇い外国人の貢献というのはあらゆる領域にわたっているのだな。で、当時の横須賀の外国人の宿舎が立ち並ぶ写真とかがあって、そうやって開けたところなのかとわかっておもしろい。
さらに浦賀水道がなぜ狭いか(なんのことはなく、政府がというか軍が、海堡を設置して太平洋側から攻めてくる敵艦隊の東京上陸を阻止するため)というのも、そうでなくても富津岬との間がたかだか9kmしかないというのも初めて知ることばかり。それにしても、天気が良くてスカイツリーが見えるのには驚いた(灯台入場券売り場のおばさんに教えてもらった)。
というのも、観音崎のレストランを4sqに登録しようとしたら、金谷食堂とか、先日行った千葉は鋸山周辺の店がリストされるからだ。なんかぶっ壊れたのかと思ったが、過去のヒストリーとGPSの大ざっぱな位置情報から、それなりの精度で候補を出したのだなとそこで納得したのだった。
で、16号線を東京へ向かうと、がんがん隧道が出てくるので、なるほど、これは隧道が多いやと納得した。
しばらく行くと、右折の車がやたらとたまっているところに差し掛かって、右を見るとそこからぐるっと高架になって実は左折する道だとわかって、興味を惹かれる。左折するとがけなので、そこを昇るために一度右へ曲がってぐるっと半円を描きながら左へ戻り崖の上へ進む仕組みだ。追浜の手前の湘南鷹取入口というところ。で、途中で右、右、右で戻って鷹取のほうへ進むと、いずこも同じ、山の上は車を持っていて、駐車場付きの家に住む人の世界、山を下りると駐車場がない家に住む人の世界となっていて、それはそれでおもしろかった。
ジェズイットを見習え |
灯台はなかったけど灯明堂 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%A0%82_%28%E6%A8%AA%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%B8%82%29 というのはありました。船が大きいわけではなかったので、これで十分だったのでしょう。<br>それに浦賀は関所だったので一度船をとめて船便をチェックする必要があったのも大きいかも
おお、これは風情があるものですね。江戸時代の人もちゃんと考えていていいですね。とはいえ電燈に対するおじいさんのランプみたいなもので、無くなるのもしょうがないか。