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妻が図書館からアゴタクリストフの短編集を借りて来たので読んだ。
おう文学だ。
1970年から1990年ごろにノートに書かれた拾遺集とあとがきにはあり(読んでいるときはそれは知らなかったが)、すべてが断片的な言葉の切れ端であり、起承転結といった意味での物語性があるものはごく一部だ(冒頭の斧というのはその珍しい例だ)。
読んでいていやでも感ずるのは、そこにある徹底した冷たさというか無関心さである。語り手がある場合、それはいつも傍観者でありそこで起きていることが仮に自分についてのことであってもまったく関わりなく感じている。
情熱的に何かが語られる作品はただひとつ『街路』という、街路と建物を眺めることだけに人生の意義を見出す音楽家の一生を描いた作品だけだ。そこで主人公は音楽学校へ通うために後にした生まれ育った街の街路を思い出して、同級生が辟易するほどの感傷的な音楽を演奏する。そして故郷へ戻り、街路を愛して一生を終わらせる。素晴らしい作品である。
『ホームディナー』という妻の誕生日を祝う男とその妻を描いた作品も傑作だ。それは誕生日のパーティーという特殊な日常ではなく、すべてにおいてそのように生きているために、最後妻は鏡の中を自分を見る。
幾つかはあまりに断片的であるが、唐突に『田園』のような一種の寓話が語られることもある。都会の喧騒を逃れて田舎へ越した男の家の近くに高速道路が通り、開発されて喧騒にまみれる。そのころ後にしてきた都会の集合住宅の回りでは環境保全が計られるようになって静謐が戻っていたというお話。もし、全編にわたってこのての単に気が利いた話が収録されていたらつまらない作品集になっていただろう(とは言え、訳者のものかも知れないがやはり傍観者としての語り口がきついため、どうしようもなくこの作者独自の味わいはある)。
と感じるということは、この作家の作品におれが期待しているのは、むしろ『街路』や『母親』(4年前に家を出た息子がきれいな恋人を連れて家へ帰る。母親は彼らの世話を焼く。息子が不在のときは二人で食事を摂るが母親が息子のことを褒めると恋人は常に立ち去る)のような、誰も誰にも興味を持たず、ただただ個人がばらばらに存在しているだけのありようを描いた作品群のようだ。また、そういった作品ほど美しい。
というわけで、読後にはこの世界に対する違和感に包まれて実に気分が悪い。だが、それが文学の力というものなのだった。
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