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日々の破片

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2015-03-19

_ マノン・レスコー

3/14は新国立劇場でマノン・レスコー。

やたらとFBで広告していたり、前々回くらいからホワイエでチケットを売っていたり(普通はしない)していたので、よほど客入りが悪いのだろうと思ったら、これらの施策がきいたのか、ほぼほぼ満員だった。

考えてみると、マノン・レスコーは原作を読んだことはないので、おれが知っているマノン・レスコーはマスネーのマノンなのだった。

すると当然、プッチーニのマノン・レスコーは知っているマスネーのマノンと比較してみることになり、プッチーニがどういうふうに有名かつ名作な先人の作とは切り口を変えているかに着目した見方となる。

1幕は同じように馬車の駅だ。だが、どちらかというとマノン一行側から描いているマスネーと異なり、デグリュー側からの描き方だ。1幕でしか出て来ない、学友がデグリューの一目惚れを応援するために、マノンの兄貴やジェロントを出し抜く。

演出はシンプルな舞台に18世紀初頭っぽいコスプレ。

1幕の演出で妙に目についたのは、兄貴が学生たちのカード賭博に仲間入りするところで、「おいおいそれはジャックだ」と当てて見せて、それに対して「まぐれあたり」「なんだあのでしゃばり」とか言う声に対して、カードをヨーヨーのようにシャッフルしてみせる(妙な小道具を作ったものだ)。すると学生たちが「見てみろ、やつはプロだ」「やつは本物だ」と言い出す。なんだこの演出は? と思っていたのだが、そこもマスネーのマノンとの差なのだった。

マスネーのマノンでは兄貴はとても影が薄い。それに対してプッチーニでは兄貴はむしろ一番出ずっぱりで、マスネーではデグリューの大勝負が3幕の見せ場になっているのに、プッチーニでは2幕で兄貴がマノンに、「やつは心を入れ替えて稼いでいるのだ。おれの仕込みだ、間違いなし。そうさ賭場はおれらの金庫さ」とか言わせて済ませている。そこで1幕のカードのシャーカシャーカが生きてくるのだろう。

が、1幕を観ているとあまり感心しない。

プッチーニのメロディー作りは既に素晴らしいのだが、歌がオーケストラに完全に殺されているからだ。弦と木管が鳴り響いているところに歌が入って消されてしまう。

なんだ、あのすばらしい作曲家も、まだまだこのころはこんなものなのか。

マスネーでは2幕が一番の見せ場(でもないかな)で、デグリューとマノンの貧乏だけど幸福な生活(なんとなく、神田川っぽい)が描かれて、そこに小さなテーブルが入る。

ところが、こちらはいきなり天蓋付きベッドの豪華な部屋でマノンがとてつもなく化粧している。

すでに貧乏生活から脱出してジェロントの庇護下にいるのだ。そこに兄貴がやってくる。

突如、マノンがあの人と暮らしていたときは良かったわみたいな歌を歌い出す。なんと素晴らしい曲、さすがプッチーニと思っているとあっという間に終わってしまってえらくもったいない感じがする。ここでマノンを演じているヴァッシレヴァが素晴らしく美しい声の持ち主と知った。

その後も、だらだらと退屈な生活が進んで一体どうなることやらと思う間もなく、兄貴に呼ばれてデグリューがやって来るわ、そこへジェロントがやって来るわ、さっさと逃げようという兄貴とデグリューに対して、宝石を持ち出そうとマノンがだらだらするわで、憲兵にマノンは連行されてしまう。途中でデグリューとマノンの二重唱がメロディーは名曲のように感じるのだが、やはりいまいちオーケストラが強すぎていまひとつだ。特に歌手がフォルテで歌うときに金管入りで弦が一緒にフォルテで演じるのはばかじゃないのか?(ふと思ったが、天幕の向うに反響版を置けばもっと声が通るはずだからシンプル過ぎる舞台にも原因があるかも知れない)

3幕はルアーブルで、マスネーの終幕にあたる。比較的長い間奏曲があって、後半の楽想はスターウォーズのパーンパンパパパパーンパンみたいなのだが、それはともかく実にきれいな曲で、もしかしてマスカーニのカバレリアルスチカーナ(1890年に対してマノンレスコーは1893年)の成功を見てきれいな間奏曲は受けると考えたのかなとか、思った。

それにしても、兄貴もデグリューも良いが、マノンの歌手が素晴らしい。

しかし、それにしてもイタリアのオペラでフランスを舞台にしたらパリをパリとして異国情緒たっぷりに作ってしかるべきなのに、単なる室内劇にしてしまうとは、何考えてんだ? と感じたが、多分、誰もが感じたし、作曲家も感じたのだろうか、次の作品ではトーマスマンが絶賛するほどパリを描くことになるのだったな。

そして4幕はマスネーには存在しないアメリカの荒野をさまようシーンとなり、ここに至ってはじめてオーケストラと歌の釣合が取れてくる。指揮者でもオーケストラでも歌手でもなく、作曲家のオーケストレショーンがまともになったのだ。弦の合奏だけにしたりして、歌が歌として聴こえるようになる。

感動的な音楽の中でマノンは死ぬ。と思うと歌い出す。ついに死ぬ。と思うと歌い出す。そして息を引き取る。と思うと歌い出す。いい加減にうんざりしてくるとようやく死ぬ。と思うと歌い出す。

まるで、ベートーヴェンのハ短調交響曲のようだ。クナッパーツブッシュが指揮していたら、半分で終わるだろう。

プッチーニもあまりにマノンに長生きさせ過ぎてこりたのか、この後の作品では、ミミは他の連中がしゃべっている間に黙って死ぬし、トスカはいきなり塀から飛び降りるし、蝶々夫人は死ぬと宣言してきっちり死ぬし、西部の娘では縛り首にならずに生き延びて死なないですませるし、修道女アンジェリカは時空連続で天国に行くし、ジャンニスキッキでは幕が開いたときには死んでいる。

というわけで、歌手はいずれも良かったし(ポルタは道化師のときよりも、今回のデグリューのほうが似合っているように思うし、兄貴のイェニスは好きな声だし、とにかくヴァッシレヴァが素晴らしい)、オーケストレーションには納得がいかないが曲は美しいし、良い舞台だった。


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