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子供がチケットがあるから西洋美術館へクラーナハ展へ行こうと誘ってくれた。何を言っているかわからず聞き直すとクラーナハと言う。さっぱりわからず聞き直しているうちに、クラナッハか、そりゃすごく見たい、行こうということになった。
この人もまたギョエテやシルレルの仲間だったのか。
おれがその名を初めて見たのは多分中学か高校の頃で、澁澤龍彦が書いた美術史関連のエッセだ。いずれにしても、その時点で平凡社のギャラリーシリーズか何かを後で眺めて確かに妙だなと感じたのは記憶しているというわけで、クラナッハの画は見ればすぐにわかる。あまりに特異だからだ。
(これかなぁ? 今となってはまったく思い出せないが、読めばわかるだろうけど……と思ったら時期が全然違うからこれではなかった)
子供が名前の変遷について解釈してくれた。クラナッハのナッハはバッハと同じなので、クラナッハと最初は表記したのだろう。が、残念なことにクラナッハという字面は(おれがまさにそうなように)ナにアクセントが入る。それは正しくない。なので平坦になるようにクラナハと表記するようになったのではなかろうか? が、残念、クラナハと書くとアクセントはナかハに来てしまう。それも正しくない。そこでクラーナハと表記するようになったのではなかろうか。これなら正しくラにアクセントが入る。しかし、これをクラアナハの5音節にするのは大間違いで、あくまでもこの場合の長音記号は日本語としてのアクセントの位置を示すもので、ドイツ人であればアクセントがあるから他の音よりは若干長めに発声される可能性はあるが、あくまでもクラナハが正しく、その意味ではクラナッハのほうがより正しい。しかしカタカナとしての音韻は……
いずれにしても、それで最初何を言っているかまったくわからなかった道理だ。というか、生まれて初めて(おれ以外の人間が)音でクラナッハ(と発声するの)を聞いたのだな。そのくらいマイナーな画家なのかと気付いて驚く(その名と画風を知って数十年たつから当然ふつうの存在だと思い込んでいたのだった)。
で、入り口の能書きにこれが日本で最初のクラーナハの展覧会とか書いてあって、なんと、これが日本で最初の個人名での展覧会なのかと驚くと同時に納得もしてしまった。
おれの感覚だとデューラーやフェルメールくらい良く知られまくって人気がある画家になっていたからだ(画そのものはなんだかんだと良く使われている印象もある)。
説明を読むとザクセン選帝候の庇護を受けと出て来て、出たなサクソニアと先日読んだミヒャエル・コールハースの運命を思い出すというか、ルターの有名な肖像画を描いたということもあって、言われてみればそりゃ出てくる道理だ。ミヒャエルコールハースでもルターが大活躍していたのだから、そりゃザクセンだ。
クラナッハは1500年代あたりからがんがん署名入りの作品を描き始め(少なくとも展覧されているものについては)、1510年代がどうやら安定期、1520年代から画風にエロが加わり1530年代に様式美を確立、しばらくすると仕えて3代目の選帝侯(最初はフリードリヒ賢明公に仕え、次に賢明公の弟にあたるヨハン不変公に仕え、最後に不変公の息子のヨハン・フリードリヒ豪胆公に仕えて、そこで豪胆公が神聖ローマ皇帝軍に敗れて廃位(拘留されているところに面会に行ったとか書いてあるから、どれだけ仲良しだったんだ、というか最初のあたりにある、まだ子供の豪胆公が大きな上着を着て(なので袖から手が出ていない)馬を駆っている作品が印象的なくらいだから仲良しというのとはまた違うんだろうけど)させられた後はモーリッツザクセン選帝侯に仕えて(このあたりで子供のほうのルーカスクラナッハに代替わり)ばかでっかなモーリッツと奥さんのデンマルクみたいな名前の人の肖像画を作っている(贈り物なので木の台ではなく持ち運びが手軽なキャンバスに描いてあると説明があって、こんなでっかな絵をもらって何が嬉しいんだ? とかその時は考えたが、受け取る側の居城のばかでかさや、おそらくある種の(意識せざる)呪術的な意味合いを持つ人質の役割とかあるのかなと思い直す)。
宮廷画家としてのクラナッハの存在感のでかさはWikipediaのザクセン選帝侯4代の画が全部クラナッハだということで再確認してしまった。
さてクラナッハは工房を作り、木版画の技術を駆使するだけではなく、画家としても速画家として知られて、がんがん作品を作りまくる。息子も大活躍。
プロダクション体制から考えるに現代のマンガ家さんにえらく近いものがあるのだろう。
そういえばグエルチーノも速い、安い、うまいで大人気だったなと思い出す。
というか、グエルチーノ(1591年生まれだから活躍は17世紀初頭)も途中からガンガン女性の裸体画を売りまくった男だった。
ドイツとイタリア、16世紀と17世紀とえらく異なるが、やっていることは同じじゃん。
宗教画で修行を積みながら速い、安い、うまいで名をなし、その後は裸の女性で大儲け体制に入るというのが、画家の成長戦略だったのだろうか。
というわけで1500年あたりには、やたらと豊饒なヴィーナスのお尻だったものが、1520年代には白くてお腹だけぽっこり出ているツルペタ女性を個人から依頼されて描きまくったようだ。
比較のためのデューラーの同工異曲の作品も展示されている。デューラーの作品はダヴィンチと似たような、人体の正確な再現だ。筋肉ありき。
が、クラナハは全然違う。異様なほどデフォルメされているのだ。そのデフォルメの方向が異様に見える。が、もしかすると少しも異様ではないのかも知れず、ほわほわの髪、ツルペタ、脚線とかそういった個々の要素に、何か妙な刺激性があるように感じる。その意味で3次元とは関わりなく2次元であれば表現可能なこうあって欲しいというある種の依頼主の共通願望を持つ画なのだろう。
この時期のアダムとイヴが特におれには素晴らしく見える。特にイブの顔と髪と脚(なんか、売れるパターンを数種類持っている作家らしく、この画の脚のパターンについての言及が説明板にあったような記憶がある)が素晴らしい。あと、とってつけた木の枝が最近の指1本にやたらと似ていてまあ500年の伝統芸だなぁと思ったりした。
少なくとも(と、順路をたどると)マルセル・デュシャンもアダムとイヴにぴんぴん来るものがあったらしく、本人が全裸になって再現写真を作ったり再構成した画を描いたりしている(というように、時代を超えた影響作も展示しているのがおもしろかった)。
時代を超えた影響作として、本邦では岸田劉生と村上知義の作品が展示されていたが、その2作はどうにも牽強付会とおれには感じられた。
その前に、市井のしかし衣装と装飾具からは金満な夫婦の2枚画があり、説明には当時の女性観から妻は小さく控えめで……とかあり、いやそうは見えないぞ、単に小柄だったんじゃないか? と思ったら、後で子供も同じことを言っていたので、どうも説明が牽強付会……と思うと、すぐ脇に展示されているモーリッツ選帝侯と奥さんの2枚画だと全然そんなサイズの違いはなく、さらに圧倒的なルターのやつだと奥さんもまた堂々たるもので、でもまあ、画の依頼主の指定もあるだろうなとかいろいろ考えて良くわからなくなる。
ルターは左側で目線は左側、奥さんの目線はルターなのには意味があるのだろうかとか考える。そういえば、目線が常に妙だ。
女性がたくさんいると、かならずこっちを見ているのがある(誘惑がどうしたとか能書きがつくが、それは確かにそうなのかも知れない)。
で、良く見かけるユディットには圧倒される。この目つきだな。
左下にあるホロフェルネスが、目は上向き三白眼、口を半開きのあへ顔ぽく、続くサロメが持つヨカナーンがこれまた目は上向き三白眼、口を半開きのあへ顔なのが相当おもしろい。子供はクールに、秘伝のパターン集の生首がそうなっているからだろうと言うが、歯を悔しそうに食いしばるパターンとかでも良いのに、おそらく注文主がそうであってほしいパターンでフィルタリングしているうちに落ち着いたパターンなのではないかとか考える。
最後のあたりで、イランのアーティストが中国の贋作家をたくさん集めて模写させて作成したインスタレーションが展示してあり、これにもしびれまくる。すごくおもしろい作品。ザハといい、レイラ・パズーキ(この作家)といい、おもしろい作家をイランは輩出させているなぁとか考える(とはいえ2人だし、ザハは画家ではないが、ある種のインスタレーションではあると考える)。(追記:ザハはイラクでした。八木サンチームありがとう)
最後のメランコリーが最高だ。画の左から全体の2/3を使った大きな部屋の中で15人の裸の幼児というか天使というかがてんでばらばらに踊りまくっている。メランコリーに苦しむ女性は右端に、どうでもいいやと言わんばかりに置かれている。むしろ上のほうの怪物たちのほうに存在感がある。が、圧倒的なのは愉快な子供群だ。まるで、これはパンダの幼稚園ではないか。
と、実に粋な終わらせ方をしていて、牽強付会の4文字が常について回るのも含めて、主体たるクラナハのみならず、美術館のキュレーターの意思から生まれたインスタレーションとみなせるわけで統合的におもしろかった。
とにかく、楽しみまくった。素晴らしい展覧会だった。知らずに期間が終わるところだったので子供に感謝しまくる。
・デリラの深紅の服。
・ピカソはいい加減に書いているようでもやっぱりピカソだなと感じ入る。というか胸の谷間がどれだけ好きなんだ、このおっさんは。
追記:ちゃんと書いておかないと忘れてしまうかも知れない。実は1番感動したのは、心を打たれたのは、蔵書票の展示のためにガラスケースの中に置かれたクラーナハの友人の蔵書だ。500年の時を経ても、書籍の形で、色は焼けているけど、紙は紙として、しっかりした布の装丁を保っていて、物理的な存在する言葉の塊として、その書物(それがなんなのかは知らないが)は、そこに500年の歳月と共にあった。それが本なのだ。
(吐夢大佐から)
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こんにちは、<br>私も「クラナッハ展」を見てきましたので、ブログを興味深く読ませていただきました。デューラーfは生粋の芸術家であり美の探求者ですが、クラナッハは職人的な商業画家だと思います。よくわかるのは版画で、デューラーの版画はまさに芸出品ですが、それと比べるともクラナッハクラナッハ漫画を見ているような親しみやすさ感じました。<br><br>私は展示されていたルーカス・クラナッハの描いた作品を通じて、ルーカス・クラナッハという画家の本質を掘り下げて、ルーカス・クラナッハの全貌を整理し本質を考察してみました。読んでいただけると嬉しいです。ご意見・ご感想などコメントをいただけると感謝いたします。