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唐突に自分はスキゾキッズの成れの果てであるというテーゼが壁のように目の前にそびえ立っていることに気づいた。
でも待て、おれはコンピュータとプログラミングが大好きで(ハッカーと名乗るのはおこまがしいのでギークとしておく)、そればっかりでも全然平気な人間で、でもそれってパラノじゃないかな?
いや、そこがクラインの壺というタコ壺たるゆえんのものではなかろうか。
だって、1年前のプログラミングと3年前のプログラミングと3.2年前のプログラミングと5年前のプログラミングって、全然違う。同じことばっかりやっているように見えて、その実、常に四方八方に飛び回っているのだ。ていうか、それがギークじゃん。
なんてことを、スキゾキッズで検索したら出てきたスキゾ・キッズ(浅田彰)を読んで、そうそうそうだよな、と首肯しながら考えるのであった。
むろん、それは最終的な到達点といったものではない。腰を落ち着けたが最後、そこは新たな《内部》となってしまうだろう。常に外へ出続けるというプロセス。それこそが重要なのである。憑かれたように一方向に邁進し続ける近代の運動過程がパラノイアックな競争であるのに対し、そのようなプロセスはスキゾフレニックな逃走であると言うことができるだろう。このスキゾ・プロセスの中ではじめて、差異は運動エネルギーの源泉として利用されることをやめ、差異として肯定され享受されることになる。そして、言うまでもなく、差異を差異として肯定し享受することこそが、真の意味における遊戯にほかならないのだ。第二の教室にいる子供たちが目指すべきは、決して第一の教室ではなく、スキゾ・キッズのプレイグラウンドとしての、動く砂の王国なのである。
(引用の引用だ)
なぜ、ギークなおれたちが多様性を重んじるかといえば、それはスキゾキッズの成れの果てだからだ。
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