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28日は、東劇のMETライブビューイングで、アデスの皆殺しの天使。
アデスの作品は、テンペストに続いて2作目。どちらもMETライブビューイングだ。
アデスが人気があるのはわかる。現代のドラマツルギーに沿って、さまざまな音楽技法を駆使して、題材の選択もうまく現代のオペラを作っているからだ。100年前だとプッチーニというところだろう。
ブニュエルは大好きだが、機会があればメキシコ時代の作品ばかり見て、なぜかスペイン帰還後の作品は見てない(鐘が鳴って、首が転がり落ちる作品をテレビの名画劇場で観た記憶はあるが、というか鐘のシーンだけは記憶にあるが、それだけだ)。したがって、皆殺しの天使で知っているのは、ゴダールがウィークエンドで引用したという、ジャンピエールレオーが羊の群れに巻き込まれるシーンの、羊だけだ。
(メキシコ時代はスティールを眺めるだけでおもしろい)
で、わくわくしながら始まる。
ブルジョワジーの晩餐会で、指揮者、ソプラノ歌手、ピアニスト、大佐、わけのわからない姉弟(弟は潰瘍持ち)、医者、その患者、アメリカ人の冒険家とかがぞろぞろ来る片側で、召使いやコックが次々と出て行く。1人だけ執事のフリオが取り残される。
何度か繰り返しがある。純潔なルチアを演じたと称賛されたソプラノは陰でヴァルキューレ、どこが純潔なものですか、と散々こき下ろされている。疲れているので歌わない。
4時になり、5時になる。
館の主人の妻が大佐を誘惑する。しかし部屋に留まる。
誰も部屋から出ない。
フリオがやって来る。ソプラノが入るな!と止める。しかし他の客が入れ!と命じる。
弟が、ティースプーンではなくコーヒースプーンでなければならないとわめきまくる(この歌手はカウンターテノール)。しょうがなく、フリオ、部屋を出ようとして勢いよく弾き返される。出られない。
ラッセルが死ぬ。私は幸福だ。皆殺しを見ずに済む。死体を大佐と医者がトイレに運ぶ。
アメリカ人はだらしがない。
幕間。
オンドマルトノの説明。LAのスタジオで勉強した。幽霊音のほかいろいろ大活躍。トゥランガラリラ交響曲では幽霊音なんか出てこないので、まさかそういう使い方で大活躍とは知らなかった。ベントが効きまくるからだ。
他には1/32縮尺のヴァイオリン。ヒッチコックの鳥っぽい。ヒュンヒュンヒュンヒュンに使っている。
羊は食われる。
熊がやってくる。おおーと皆、その姿にひれ伏す。だが熊は入ってこない。賢明だ。
最後、野蛮人と理性ある人間の対立となる。野蛮人は館の主人を殺せ!と迫る。蜘蛛が死ねば蜘蛛の巣は崩れ去る。教養人に残るのは、医者、主人、大佐。ソプラノ歌手。
館の主人が、自分は犠牲になることを宣言する。
そのとき、ソプラノ歌手が気づく。この人物配置は見たことがある。そして歌を歌う。
解放される。
やはり抜群におもしろい。音楽も良いし、歌手も良い。高音で歌われる。
ブニュエルの作品に比較的忠実(ただし、登場人物は相当減らしたらしい)だそうだ。
1962年の映画ということは、経済大成長直前のフランコ政権だから、単純には政治劇と考えることはできる。国際的に孤立したスペインが館の中だ。独裁者であるフランコが自分からやめない限りこの状況は打破されない。しかし、もっともまともなのがフランコである、とも読める。
ブニュエルのことだから、すべては思い付きの可能性のほうが高い。カトリックは嫌い(劇の上ではまともそうな神父だが、姉が神父に息子を預けていることについての良からぬ噂が飛び交う。夫は忠告したそうだ、とか)。
閉塞状況こそが人生だという寓話だというのはわかりやすい解釈だ。繰り返しは人を堕落させる。芸術の力によって繰り返しに終止符を打ち、閉塞した精神を解放する。
つまりは娯楽作品であり、アデスは見事に娯楽性を維持したままオペラ化したのだと思う。実に良い作品を楽しめた。
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