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子供と博品館劇場にアルジャーノンに花束をを見に行く。をが重複するな。
原作は早川のSF全集に収められていた短篇では何度も読んだが(といっても中学生の頃だ)長編化したやつは読んでないし、どうミュージカルに仕立てたのかまったく見当がつかないので楽しみだ。
チャーリーがやたらと小男で子供みたいだが(という演技というか演出で、頭脳の明晰っぷり化と同時に服装から背の高さまで変わる(わけないから、猫背とか遠近とかでうまく処理しているのだろうが、最初のキリアン先生を訪問するときの印象(まさに大人と子供)と、終盤のキリアン先生がチャーリーの頭脳明晰っぷりに疎外感を持つと歌うところ(完全に対等以上)の印象では全然違うのが実に見事だ)。
短篇では書かれていなかったか、または全く記憶に残っていないかわからないが、元の職場のパン屋で段々と孤立していく描写が実におっかない。こんなにおっかない話だったのかなぁ。どうも、天才化することでネズミの変化から先が予測できてしまって今度は失うことへの恐怖を理解して、結局元に戻るという大筋以外は忘れていたようだ。あるいは、人間関係(特にパン屋)には興味を持てなかったのかも知れない。
同じことは家族関係についても言えて、まったく記憶にない。白痴(この言葉が新聞記事の見出しとして読み上げられるところで妙な衝撃を受けた。今でもドストエフスキーのムイシュキン公爵の物語のタイトルで現役の言葉のはずだが、完全に自分の中では死語になっていたようだ)ならではの単なる男女差についての好奇心を性的なものとして捉えた母親との関係や、手がかかる長男に対する父母の関係から自分が疎外されていると考えた妹との関係、大らかな包容力はあるものの実務的にはまったく母親に育児を押し付ける父親(とはいえ独立開業資金獲得のためでもあり、金銭的な余裕が子育てには必要と考えたのだろうとは読めるので、押し付ける一方というのもフェアではないが、そこをきれいさっぱり子供のことを忘れている(といっても、顔つきからして変わっているわけだろうからわからなくても当然のような気もする)ということにして、善良一方とも言い切れないようには仕込んではあるが微妙な位置付けだ)とか、恐怖の的扱いされている療育院(というか、物語時点の母親はここへ送り込んだほうが良いのでは? と思わなくもない)とか、まったく覚えていなかった。それにしてもパン屋の親父は良いやつだな。
その意味で、小学生の頃の愛読書の金色のライオンと同工だと思っていたが、最初から最後まで子供の視点で描かれる金色のライオンとは随分と内容が異なるのだな、と知った。印象はどちらも、獲得した知性を失うという喪失の物語だったのだが、アルジャーノンに花束をの場合は(脚本がどこまで原作に忠実なのかはわからないが)むしろ、知性を得ることによってそれまでの自分と現在の自分に対する相手にとっての立ち位置の変化が与える影響という物語でもあったのか。
(急死した博士が作った(ライオン自身による再現には失敗した)薬によって知性を獲得したライオンと子供の交流の話で、途中は子供によるライオン探しの冒険となり、最後は薬効が切れて知性を失い野生に戻れば親友となった子供を噛み殺すことをお互いに理解した二人の別れの物語。重要なのはライオンの記憶から二人の友情が消失するということで、肉体的・距離的な別れとは次元が異なる喪失という抽象を読者の子供にきちんと理解させる作家の手腕の上手さと思う)
心理学者と脳外科医の立場が、最初は慎重派の心理学者に対して手術したくてたまらない外科医という構図が、学会発表の前には発表したい心理学者に対して慎重になる外科医(考えたら、責任は外科医のほうが重いからかな)とか、パン屋での二役も含めてうまくできていると思った。
研究所を抜け出した後の画学生との交流についても記憶がないけど(長編にしかないのどえはないか?)、なんかこのあたり(特にキリアンと衝突するところあたり)の筋立ては女はバカのほうが良いみたいな印象を受けて妙な感じを受けた。
「死なんて 真夜中に背中のほうからだんだんと……巨人になっていく恐怖と比べたら
どうってことないんだから」というねじ式のセリフと同じ恐怖(巨人ではなく、白痴に戻るということにスライドすれば)はそれにしてもおっかない。はずなのだが、舞台ではそこの恐怖というものは全く感じられなかった。そこはもちろん台詞としては元に戻った後の呟きは涙を誘う(可哀想というのではなく、喪失したという事実に対してなわけだが)のだが、随分と印象が違うものだ。
とにもかくにも役者も演出も音楽も良い舞台だった。
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