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オーチャードホールでリヒャルトシュトラウスの平和の日。
1930年代に作られた奇妙な作品だった。音楽は普通に20世紀の音楽。エレクトラの頃のような絶叫する不協和音の連続というよりは影の無い女以降の落ち着いた雰囲気で聴き心地は良い。
物語は奇妙で、元はツヴァイクが途中で放棄した作品らしい。ヨーロッパ統合主義の思想的影響下とナチスによる第三帝国によるヨーロッパ統一の間で揺れ動く不安定さがある。よく知らないが初演はチェコスロヴァキア併合を記念して行われたらしい。
カソリックの城壁都市の要塞に立てこもる司令官と部下によって物語は始まる。
新教徒によって都市は包囲されていて都市は飢餓状態にある。
ローマ皇帝からの密書には勝利かさもなくば都市を破壊して死ねとある。のちのパリ司令官のようである。
司令官の妻は死よりも平和を願うが、司令官と忠実な部下たちは皇帝の命に忠実たらんと欲する。
いよいよ銃弾も食料も尽きんとして、司令官は要塞の爆破と自決を決断する。部下たちに選択を迫る。傭兵の一人は逃走を選択し、一人は共に残ることを選択する。
そこに敵の包囲網が白旗を掲げて(銃口に花をさして)迫って来る。
敵の司令官(鉄平、出番は少ないが良い役だ)との会談となる。教会で関係者一同による協議が行われて停戦指令が出たという。とはいえ司令官が受けているのは皇帝からの玉砕指令だけだ。葛藤の末、司令官は妻からの助言に従い、停戦に合意する。平和が来た。合唱が平和を歌う。
演奏会式上演だが、コスチュームプレー。指揮の準・メルクルは良い指揮(音楽に弛緩がないし、歌は歌になっている。とはいえ聞き比べる対象もないのでこの作品としてはどうだかはまったくわからないが)。
舞台は抜群におもしろかった。が、作品の奇妙さ、とってつけたような停戦による平和が実に奇妙だ。
オーチャードホールで平和の日を観た後は、ミュージアムでマリー・ローランサンとモード展を観る。
モードは変わるがスタイルは変わらないというシャネルの言葉が良い。
マリー・ローランサン展を見てとにかく気になったのは、シャネルの肖像画だ。
流行にのってシャネルはマリー・ローランサンに肖像画を注文する。しかしその出来栄えに満足せずにシャネルはローランサンに書き直しを要求する。しかしマリー・ローランサンはそれに応ぜず、それどころかシャネルのことを無知な田舎者と(まさか面と向かってということはないだろうから知人に対してだろうが)罵ったとのことだ。そしてその画を廃棄せずに残している。
なぜシャネルは気に食わず、なぜローランサンは描き直しに応ぜずに無知な田舎者と罵ってしかもその(売れないことがわかっている)画を手元に残したのか、これは実に興味深い。
シャネルの肖像画が展示されている20年代の他の肖像画との顕著な差は中央上を飛ぶ鳩と右の獣(最初驢馬かと思ったが他の作品との共通点から牝鹿だと考える)犬のポーズ(犬は最初から他の作品にもあり、おそらく富裕度を示す)だ。
シャネルが気に食わなかったのは顔かも知れないし色遣いかも知れないし余分な動物かも知れないし、そこはどうでも良い。
おそらくローランサンは、シャネルであればわかってくれるであろう意味を画に複雑に織り込んでいる。彼女の1910年代前後はアポリネールとの5年間であるのだから、意味に意味を重ねて更に意味を生み出す手法は十二分に学んでいるはずだ。彼女のキャリア的なモードはキュービズムから始っているかも知れないがスタイルは象徴主義の影響下にあっても何も不思議ではない。
(かっては文庫本で出まくっていたアポリネールの作品群がほぼ市場から消え去っているのには茫然とせざるを得ない)
その画にこめられた意味をまったく理解されなかったことが描き直しを拒否して悪口を言うこととなる理由だろう。
と考えると30年代からの変質の理由は、買い手の素養教養が1920年代とは桁違いに低まったからに違いない。意味が読解されなければ、意味の代わりとなるもので画を補わなければならない。それのために選んだものが色彩なのだ。
おもしろかった。
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