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シウリナがあまりに素晴らしかったので2回目。
さすがに3度目となると音楽の構造もきちんと見えてきて、あらためてチャイコフスキーの才能に舌を巻くと同時に、なぜ2幕の1場と2場の間に幕間を入れたのかもなんとなくわかった。
この曲は比較的ゆるやかに下降する序曲(弦に続いて溜息のように管が引き取る)のモチーフと、タチアーナの手紙の場面の中間に入りそのままあの人は何者?の絶唱につながる弦と木管の下降とそれに続く(多分弱音器をつけた)金管が抜群なモチーフ(むしろ以降の楽曲全体を支配するのはこちら)の2つが主要なのだが、2幕2場の序曲(場の始まりなので序曲というよりは単なる前奏というべきかな)が序曲を引き継いでいるから、2部構成に分割した場合の収まりが良いからだ。
序曲だけを考えると2幕1場は、1幕2場の手紙で出現したあの人は何者?のモチーフを1幕3場でタチアーナにとって何者かが明らかになり、2幕の序曲の冒頭からはっきりと提示されそれに続いて弦でパーティにふさわしく展開されるのでこちらで区切って、2つのモチーフの関連を示すほうが良いのかも知れないが、それだと2幕2場で実は最初の序曲がレンスキーの「未来はどうなる?」だという関連が埋もれてしまって今一つかも知れない。2幕1場はパーティー会場の人々の興味は最近越してきたオネーギンが何者か?ということにある(ワインをコップで飲む野蛮人らしい、という表現はおもしろい)のであの人は何者?のモチーフが使われるのは正しいし、実はあの人は何者? というのがオネーギンにとってはうんざりの対象だという点(実は哲学的に高尚な理屈でもなんでもなく、本当に何者でもない空疎な存在であり、それに対する自覚が無いわけではないからうんざりなのだ)にあるというのを受けて1部に収めるほうが座りが良い。
結局、大きな2つのモチーフは、未来はどうなる?とあの人は何者?で、まさに余計者の先駆者のエウギニ・オネーギンという作品にふさわしい音楽なのだった。
それにしても、オネーギンの手紙が実はタチアーナの手紙の文言をなぞったものだという点と、現実と折り合いをつけたタチアーナと折り合いをつけられないまま時間だけを浪費した夢見る夢子さんは実はオネーギンだったという幕切れはなんとも言い難い(そしてロシアのオネーギンは多分この後も、何者でもないまま、未来が見えないまま、年老いるのかなぁとなる。一方、ドイツのウェルテルはさっさと人生に終止符を打った)。
それにしても2幕1場の最後、決闘騒ぎが終わるとパーティの客たちが一斉にピローグ(ピロシキのでっかい版でロシアの誕生パーティといえばピローグって、ふと葬送のフリーレンの誕生日のでっかなハンバーグみたいだなと思った)に飛びついて貪り食う演出は強烈。
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