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昨日はバヤヤを見てきた。前半、不覚にも意識を失いいつの間にかバヤヤが城の中で働いていたのだが、別に普通に就職したのかな。リュートを弾き語りしているところは覚えているんだが。
章立ては本で、章題の向こうで行われる寸劇。
梟。
蛇の頭がどんどん増えてくところ(子供によれば3,6,8だそうだが、3,6,9に僕には見えた。とはいえ、数えてないんだけど)。橋の上で足を踏み外しそうになる白馬。迫ってくる鳥の足。切られてからもしばらく動いている蛇の頭。
ちょっと、竜の子太郎を連想。家を出て行った母が白馬に化身して息子を連れ出す。
すべてを見通している道化。
ナイフ、フォーク、気まずさから唄われる下手な歌。楽譜を破られ退場するドンガバチョ。
熊いじめ(じゃないけど)。
なぜ、熊は熊なんだろう。2本足で立てるから、変な人間の一種として認識されていたのかな。
林檎が蛙に姿を変える。道化が差し出す林檎に飛び上がり退室−熊が出てきて窓から退散する髯親父。
林檎による婿選び−バラを投げ捨てるのに対して、お返しに騎馬戦−ティアラを投げ捨てる。
白馬=母の首を切ると白い鳥が飛び立ち、梟と交代する。
難しいところだな。首を切ったら蜘蛛の糸が切れる場合もあるしね。結婚の前に母を殺すというのはいささか出来過ぎているような。
皇帝の鶯が、陶器のような無表情な人形劇なのに対して、きれいに描かれた顔。別に目が動いたりするわけじゃないんだが、寂しそうだったり憂鬱そうだったり。
これも音楽が良い(まあ、あまりに良すぎて意識を失うっていうのもあるわけだが)。
忘れているわけではないが、映画は光と闇の両方から構成される。闇がない映画は映画ではない。ということをあらためて思い起こす。最初の梟。最後の白い鳥。(皇帝の鶯の舟のシーンがスポットライト風に描かれているのが、水面の月のようなのもそうだ)
解説を眺めると、王女は騎士=バヤヤと知って求愛を受け入れるというように書いてあるが、そうは見えない。婿候補の騎士達を見ているうちに、庭に落ちたままのバラに気付き、それを眺める/拾う。ティアラがそこには落ちていないのは、それをバヤヤが差し出すからだが、それによって騎士=バヤヤに気付いたとしても、それ以前にバラに気付いているわけで。
二人は城を出て、それを見届けているのは道化師。祝福の踊りをテーブルで行い、拍手を強要する。強要された拍手は、道化師のためではなく当然、二人のためになるのだが、どうしてこの道化師はここまでするんだろうか。
母親はなぜ、最初に騎士の姿になることを止めるのか? 「わたしの正体がわかってしまう」
もしあの白い鳥が母親ならば、梟も母親なのかな。ならば夜の支配者だから魔ということだ。
さすがに、失われた時間が気になるので、調べるとこういう物語として見ている人を発見。試合の時点で認識したとこの人は見ているが、僕とは違う見方だな。でも、リュートが鳴らなくなることはこの人の解釈が正しいのだろう。高い部屋でのリュートのシーン。窓からの光。そういえば、章題が「魔法」なのに何が魔法かわからなかったがそうなのかな。
機会があれば、また見ることもあるだろう。
予告編でカレルゼマン。というか、チェコがブームなのかな? イメージフォーラムに子供連れてく気はしないなぁ−と思ったら四谷じゃないのか。
逆に言うと、いかにWindowsの出来がいいか、ってことなのか?
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