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どこにも行かず、あるところにはあるんだろうけれど。
SqueakってLOGOの代わりにもなるんだよね、と思っただけのことなのだが。
それまで生産していた子供が気付くと消費をするようになる、その年齢的な分岐点ってあるんだろうか? わけのわからない絵を書いたり妙なお話を作って喋ってたりしているのはそれはそれで生産なんだが、本を読んだりゲームをしたりするようになるのはそれは消費だ。
文化(笑)の自給自足からの脱皮って、つまらんな。
絵を書くのなら紙(壁かも知れないけど)とクレヨンなりは消費する。妙な絵本を書いている時もそうだ。お話を喋ってるときはほとんど消費しないけど。時間くらいか。
いずれにしたって消費はするもんだ。でも素材を消費するのと完成品を消費するのは偉い違いだ。
限界を子供ながらに悟るってのはありそうだ。その限界が技術的な限界なら(たとえば絵や物語だけだったらそりゃ本職の漫画家のほうがうまいわけだし。)、そこをコンピュータが補助することはできそうだ。
というようなことをぼんやりと、アラン・ケイ氏に聞く「コンピュータで子供に何を教えるか?」を読みながら考えた。例によって書いてある内容とはあまり関係ないのだが。
僕が小学生の頃、家庭科は料理を作ったりなんだか忘れたけど縫ったりすることを教わる時間だったし、中学生の頃の技術は旋盤でハンマーを作ったり(まだ持ってたりするのだが、結構重宝する)、板金でチリ取りを作ったり、木工で本棚を作ったりする時間で、これは素材は消費するが生産だった。
そういった技術の時間に、コンピュータを使いながらしかしワープロの操作を教えるってのはやはり違うような気がする。別に旋盤を回せとは思わないが(でもあれはあれでおもしろい経験だったが)妙な違和感を覚える。ワープロを使って作れるものは文書でワープロそれ自身とは全く異なるものだ。でも、旋盤で作ったものは板金のための道具だったり、板金で作ったものは掃除のための道具だったり、道具で道具を作るというサイクルがあった。
だったら、コンピュータを子供に教えるなら、それはプログラミングじゃなきゃおかしいじゃないか。プログラムで作ったものはプログラム、そのプログラムを使って何かをするというように道具で道具を作るというサイクルを経験させるっていうのは重要なことに思える。それを変えるってことは技術の本質的な何かを失わせてしまうことなんじゃなかろうか。
それはいやだな、と思う。
ジェズイットを見習え |
お邪魔します。Mac(ジョブズ)や Win(ゲイツ)によって広められ定着した誤った“限定的”なダイナブック像と、Smalltalk システムがもともと目指していた暫定的なダイナブック像とのズレが、コンピュータリテラシ教育の現場にも歪みを生じさせているのでしょうね。ワープロやお絵描きソフトが題材でも構いませんが、それらを使った後には、実装したり、手を加えたりする体験や、そうした発想を養うための教育も欲しいなぁ…と思います。
>それらを使った後には、実装したり、手を加えたりする体験や、そうした発想を養うための教育<br>そうですね。僕は道具っていうのは人間が飛躍するための原動力だと思うし、(もちろんワープロがあるからアウトラインを考えるとかいろいろ文書作成上の飛躍が可能となったというのは理解しているつもり。また、ワープロを覚えることで読みやすい文章を作成できるというような効用もわかるつもり。でもそれはもっと後でも良いと感じてるんだろうな)子供にはそういう飛躍の感覚こそを学ばせたいと思います。
これは山宮さんが最近提唱している"meta toy"概念に近いものがありますね。http://d.hatena.ne.jp/propella。
ありがとうございます。探してみました。<br>http://d.hatena.ne.jp/propella/20050105/p2<br>たとえばこちらですね。僕の上のには欠けているけど「過程自体を工夫して楽しんでしまおう」というのにはすごく賛成だなぁ。