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ペレーヴィンのチャパーエフと空虚を読んでいたら、日本について書いてある断章がいろいろおもしろかった。
この作品では、1910年代の人生を生きるソ連崩壊後(1990年代あたりかな)の青年(要するに頭がおかしい)が収容されている精神病院の病人仲間3人と本人の妄想が行ったり来たりするのだが、そのうち病人仲間の一人の日本企業への就職のエピソードがロシア人の文学的に誇張された日本論になっている。
出てくる日本人がオダノブナガとかアケチミツヒデなのにはまず呆れたが、ふと気づいた。
ロシア人の名前としておれはピョートルだのイワンだのアレクセイだのをぱっと出せるが、この名前はイワン雷帝の時代から通用しているものだ。それってヨーロッパでもわりと普通じゃないか。エドワードやリチャードはばら戦争の時代からエドワードやリチャードだし(英語)、シャルルマーニュの時代からシャルルはシャルルでドゴールもシャルルだし(フランス)、おそらくフェリペやロドリーゴは今でもフェリペやロドリーゴ(スペイン)だろうし、ミケランジェロやレオナルドは今でもレオナルドやミケランジェロ(イタリア)だ。
ところが、ノブナガやミツヒデは現在の日本にはおそらく存在しない。いても珍獣さん珍名さんの類だろう。
日本っておもしろいな。というわけで、日本の有名人の名前を現代の日本人の名前に持ってくることにヨーロッパやロシア人にためらいがなくても、自分たちの文化と同じように考えてしまえば、それはしょうがないことなのだろう。
(牧逸馬のパリを舞台にした作品にアポリネール(そもそもポーランド人の偽フランス語名だ)警部が出てくるよりは気持ちの上でははるかに自然に違いない)
という名前の文化もそうだが、その中に出てくる偽論考に、日本人の義務感について書いたものがあって、それが妙におもしろい。
日本人の義務感とは、恩と義理から構成されている、というものだ。
恩とは、親に対して子、主君に対して臣、兄に対して弟、師に対して弟子が持つ縦の義務感である(それぞれは孝とか忠とか悌とか信とかだが、総称して恩というのは違和感がない)。
義理とは、村に対して村人、会社に対して社員、隣人達に対して住民が持つ横の義務感である。
この2つで論理的に構成された義務感により、日本人は強い倫理性を発揮する。酔っ払いのロシア人とは偉い違いだ。尊敬に値する隣人をもっと大切にしよう。
というのが骨子だ。
どこから引っ張って来たのかは知らんが、なるほどおもしろい見方だが、あながち外人の深読みということもなさそうに見える。
それにしても、義務の縦糸と横糸でがんじがらめにされている日本人というのは、傍から見ると高潔で倫理的な存在かも知れないが、本人にとっては死ぬまで死ぬほど窮屈そうだ。いやなこったな。
で、彼は日本企業に就職することにして、面接を受けに行く。
そこで次々とカワバタが繰り出す奇妙な儀式につき合わされた挙句、最後はタイラの一族に組み込まれて、ミナモトの敵対的買収に合って腹を切ることになるのだが(他のエピソードから考えるに作者は笑い転げながらでたらめを書いているように読めるのだがそこはかとない真実味も感じないではない)実に奇妙な感覚だった。少なくとも伊勢物語は読んだか、少なくとも内容は知っているほどには日本について知っているのは間違いなさそうだ(と、アリワラノナリヒラを真似て馬を木に繋ぐところを読んで思ったが、そもそも伊勢物語にはそんなエピソードはなく、すべてがでまかせの可能性もある)。
あと、全体を読んでいて、なるほどゲルマンを産んだ文学的土壌(ゲルマンは映画作家だが)を持つ国の作家だなと映像が目に浮かぶのもおもしろい。
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