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本屋に行くと、岩波文庫のコーナーでシラーのドンカルロスが再版されていないか調べるのが日課なわけだが、もちろん無いわけだが、ナディンゴーディマのジャンプという短編集が目についた。
ドン・カルロス―スペインの太子 (岩波文庫 赤 410-4)(シルレル)
ジャンプといえばボウイの歌を思い出すし、南アフリカ(ナディンゴーディマは南アフリカの作家と表紙に書いてある)の文学といえばクッツェーの夷狄を待ちながらが南アメリカ文学とはまた異なる味わいの呪術的神話的物語でおもしろかったので読むことにした。で、買った。
まったくクッツェーとは異なる文学だった。
むしろおれの親しんでいるところではガッサンカナファーニに近い。
ハイファに戻って/太陽の男たち(ガッサーン カナファーニー)
より近代人の心理を描いて、その人が住む社会の異常な制度との確執から生じる日常の歪みを語る種類の文学だった。ほとんどの作品はアパルトヘイト続行中の作品で、後ろのほうではマンデラ解放後の作品も含まれる(個々の作品の執筆年は書かれていないが、全体として1991年という微妙な時期に出版されたものだ)。
最初の作品『隠れ家』は政治犯として指名手配された男の逃走生活中の人妻とのエピソードで、読んでいて太平洋戦争中に徴兵忌避者として逃走する男を描いた丸谷才一の笹まくらを想起せずにはいられなかった。
なるほど解説によるとナディンゴーディマは「作家というものはある意味では第三の性であるといえる。女性だから男性は書けない、女性しか書けないというのは、真の作家ではない」と語っているそうだが、その通りなのだろう。傑作だ。
というわけで、冒頭の作品が見事なものだったので結局そのままどんどん読み進めて読了してしまった。
続く「むかし、あるところに」は児童文学を書けという依頼に対しての作家の所信表明から始まり、そのまま児童文学の姿をした寓話に入る。まるでサキの作品のような結末に至るのだが、痛烈だ。
そして村を破壊された人々の国境を越える旅を描く『究極のサファリ』では、ローティーンの希望に満ちた少女(ローティーンで絶望に苛まされている主人公を描くほど残酷な作家ではない)の視点を主軸に置いて、希望も絶望もなくとにかく生き延びることと孫たちを未来へつなげることを強い使命とする祖母の闘争を描く。これも傑作だ。
唐突に、南アフリカへ移民した東欧に住むユダヤ人の時計職人と南アフリカ本国人の妻の生活と、その子どもが成長した後の東欧への狩猟の観光旅行をカットバックしていく『父の祖国』で、英語を話す本国人-東欧人-ユダヤ人-ジプシーの間の壁とそうとは書かない父親への思いのようなものを語り出す。
そして恐るべき『幸せの星の下に生まれ』が来た。これはものすごい傑作でわかっていても読了して震えた。
アイルランド人はなぜかお断りな家主の家に住む家族が、息子の長い留守中に部屋をアラブらしき国の異邦人に又貸しする。物静かでアルコールを一切口にしない異邦人と、家の娘の間に心の交流が生まれ、それは娘の中で恋に変わり……という物語を娘の視点で(しかし第三者の冷静な語りで)描く。
この作品はすさまじいものだ。
続く『銃の暴発する寸前』で、使用人を事故で射殺してしまった農園主、その仲間の反応、そして予想される海外メディアや黒人解放運動関係者の反応、何が実際に起きたのか、農園主と使用人の関係、使用人の家族それぞれの反応といったものを妙に突き放した語り口で描く。
この作品は間違いなく優れた作品なのだが、どうにもピンと来ないところがあり、それは読んでいるおれが「海外メディアや」の側だからなのだろう。だが、当事者には実に切実なやり切れなさのようなものが漂っているところが優れた作品だということはわかる。
母親が息子の活動に連座して逮捕されたことに対して北欧(かどこかはわからないが)に住む娘とその夫の夫婦関係のぎくしゃくを夫の視点で描く『家庭』はおもしろい。相当におもしろい。うまい作家だなぁと感嘆する。
そして『旅の終わり』というまたちょっと異なる視点の作品が来る。この作品はいろいろな面からおもしろい。カサヴェテスあたりであれば、見事な映画を作れそうだ。
で、再び恐るべき『どんな夢を見ていたんだい?』が来る。この作品は作家自身による解説だ。
ヒッチハイクをしようとするカラード(純黒人ではないので市民ではあるが、2等市民という扱い)の視点を通して最初語られる。
彼は外国人(本物のイギリス人)の若者と助手席に座る本国人の老婆(あるいは初老の婦人、読んでいて、作家の分身とわかってくる)の車に乗せてもらえる。あらんかぎりの話術を駆使してできるだけ目的地に運んでもらって、かつ可能ならば幾ばくかのお布施も欲しい。
そのうち彼は寝込んでしまう。
すると黒人解放運動のためにやって来たイギリス人が、この国についての質問を始める。
それに対して、長く民主的な黒人解放運動に携わっている老婆が、この場にいる3人3様の視点を包括して考え、説明する。
この作品は「恥」と翻訳されている感情について書かれている。
「聞いたことがあるでしょう? それは、"かわいそう"という意味だと思っているのよ。その人たちへの同情を表しているつもりなのよ。恥。」(おそらくhumiliationではなくshameだと思う)
しかし、それは日本語では「行動せずにはいられないほどの居た堪れなさを生じさせる申し訳なさ」とでも訳すのが良いのではなかろうか。
恥と翻訳した場合の英語の言葉の意味をもしかするとおれは勘違いしていたのかも知れない。もしそうであれば、「恥の文化」というのは実はとても高貴なものではないか。それはnoblesse obligeの源泉だからだ。
驚いたのは歯並びに対する説明と心理だ。おれも犬歯を残して前歯がない黒人少女の笑顔(だから口が開いているので歯の状態がわかる)というのは写真や映像で見たことがある。そういうことなの!? という驚きの説明。栄養状態とか歯磨きの習慣とか差し歯をする金とか技術とかの話ではなくむしろポジティブなものなのだ。本当か?
そして最も作品としての完成度が高いとおれには思える『体力づくり』が来る。
中流の白人男性が早朝のお決まりのジョギングをする。いつもは引き返す場所まで来るが実に爽快なので少し先まで進むことにする。
そこで日常が一変する。いやおうなくもう1つの現実を突きつけられる。
うまい。文学でここまで語ることができるのだ。
(おれは途中からずっと通奏低音のようにこの映画の映像が流れ続けた)
『釈放』。これは説明的な作品なのだが、希望を大きく取り上げている。優れたジュヴィナイル小説なのかも知れないが、おれには説明的に過ぎるように感じた。
最後が『ジャンプ』。
カットバックを徹底的に使って、ホテルの一室に丁重にかつぞんざいに軟禁されている男の過去を描いて、最後に現在の心境に焦点を合わせる。技巧的に過ぎる印象を受けるが、しかし、これも傑作なのだろう。ここまで『体力づくり』に少し出てくるが取り上げられていなかった側の心理のほうにフォーカスした作品とも言える。時代が変わったのでフォーカス対象が変化したのかも知れない。
1/4世紀前の作品ではあるが、世界は急には変わらないので今読んでも実に鮮烈だった。堪能した。
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