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わたくしの持論だが、テレビでも講座番組などは、出演者が自宅か自分の研究室にカメラを2、3台据え、それを自身でリモートコントロールしながら作成し、挿入すべき図版やVTRなども簡易な編集器を操作して、すべてを自分で編集するのが理想だと思う。
1952年のテレビ台本作法に縛られたテレビの窮屈さについて、なぜラジオには出演するのにテレビを避けるかの理由として書いている。おそらく1950年代からそう考えている。
先生、21世紀になるとyoutuberの時代で、その前にも(消えてしまったけど)ustというものもあったんですよ。couseraの授業はほぼ先生の理想の実現だと思います。
放送には出るが、聴取者にはまったく期待していない。というのは、あらかじめテレマンの曲を流すにあたって、古楽器の調律なので「ト短調の曲ですが、半音低く嬰ヘ短調のように聞こえます」と断っているにも関わらず、放送中に電話がかかってきて「半音ずれている」と指摘するものがいる。しかも新聞にまで投書している。(どうも自分の弟子の母親らしくて閉口)。お前ら説明を聞いていないだろう。こればかりは、永遠にこのままのような気がする。
1949年に次のように書いたら物笑いのタネにされた。
将来のある時期に、進歩した科学技術と工業力を極度に利用した非常に性能の高い楽器が設計されるであろうこと。その楽器はあらゆる種類の音の波形を合成し得ると同時に、いかなる音の組み合わせも可能で、しかも甚だ容易に操作し得ること。
仲間たちからは揶揄されたが、1920年代にテレミンが、1930年代にはトラウトニウムという電子楽器が発明されていて、実験的演奏のデモンストレーションが行われていたことは知っていた。1950年代初頭になったらケルンの放送局には電子音楽スタジオが稼働開始し、モーグシンセサイザーを経て、80年代には鍵盤付きの高性能のシンセが日常の楽器になっているじゃないか。今後、もっと発展するだろう。
上の1949年の文章の最後はこう締めくくられる。
今日の音楽芸術と他の姉妹芸術との間に横たわる最大の相違点、すなわち創作衝動が様式化される過程に非常に大きい摩擦抵抗が存在するという特殊性(中略)から解放されるであろうこと。
正しいよ、先生。
今や、楽器はおろか歌ですら歌手を頼む必要も自分で歌う必要もない。ここまで来たぜ。
音楽の特殊性は、作曲と演奏の分断にある。
柴田南雄のわが音楽 わが人生には何度か、演奏家にうんざりさせられているというようなニュアンスの言葉が出てくる。集合しないとか、練習をさぼるとか、新進作家や指揮者をなめてかかるとかだ。
同じことを(ラジオ局については異なったようだが)テレビ局のテクニシャン(ディレクターを含む)に対しても抱いていたようだ。
(少しだけ、アーキテクトとプログラマーの分断を考えてしまったが、結局のところ、最後は自分で考え、構成し、設計し、実装しなければならないということだ。音楽にもそれができつつあるのだから、まして最初からコンピュータとネットワークの中に閉じた世界でそれができないわけがない)
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