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何気なく道端に停まった車から流れるセリフを聞いていた。
「キリストを信じなさい」みたいなやつ。
で聞いていたら「人は死を恐れ……」みたいなセリフ回しがあって、そういえば仏陀もそもそもは城から出て初めて知った老いや病気や死というものへの恐怖を克服するために出家したのだったなと考える。
宗教の存在意義は何よりも死への恐怖に対する克服だったわけだ。
車から流れる説法は、そのあと、思いもよらぬ理屈になってびっくりしてそのまま内容を忘れてしまったが(予想としては、永遠の生としての天国というような話になるのかと思ったのだったが、むしろ恐怖で人の思考を支配しようというような方向になったように思う)、むしろ別のことを考えた。
武士道とは宗教なのだな、ということだ。
武士道では死は常にそこにあるもので、常にそこにあるからこそ恐れる必要もなければ忌避する必要もない。毎日のように朝起きたときに生まれれば夜になるたびに死ぬ。それは戦闘マシーンとしての合理性ではあるが、本来的な根拠があるわけではない。
むしろ、死の恐怖に対する克服としての宗教という、宗教本来のありようと等しい。
なるほど、それで武士道が完成した江戸期にあっては、天皇はあってなきがごとき(したがって神道は庶民にとってだけではなく武士にとっても全くどうでも良く)、将軍家の墓所が単一の寺にあるわけではなく分散していて(したがってどこか一つの宗門に帰依しているわけでもなく)、家康は神様(東照宮)なのに、個々の将軍の墓は寺にあって成仏していて、と、世俗宗教を超克しているわけだ。
考えてみると、おれも少しも死というものに対して恐怖がない。痛いのはいやだなとは思うが。死ぬことに対して恐怖がないので、死をことさらに意識する必要はなく、あえてわざわざ死ぬまでもない。ただ生きている間は生きているというだけのことだ。
おれのそういう死に対する意識が、もしもこれまで日本で生活することで培われた日本人の文化に由来するものであるならば、なるほど日本人の大多数が全然宗教に対してでたらめ(クリスマスを祝い、新嘗祭を祝い、4月8日に甘茶を飲む)だということも、実は江戸期に形成された武士道という宗教のフレームワークの内側にあるからなのだろう。
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